魚の娘、水の音 漆

 それからのことはよく覚えていない。

 

 乱暴に襟首を掴まれて、ずいぶん長い距離を引きずられたような気がする。朦朧とする頭で力の限り抵抗したが、特に効果はなかったような気もする。

 男がぽつぽつと独り言を言うのを、途切れ途切れに聞いていた。声の様子からすると、ずいぶんと機嫌が良かった。


「なんだ、あんたは飲まなかったのか。命拾いしたなあ」

「これは南の漁師のまじないらしいんだがね、嵐で浜に打ちあがった海豚のうち、凪ぐまで持ちこたえたやつは沖まで逃がしてやるんだと」

「息が長いのは運が強い証拠、運が強いのは海神さまのお気に入りのしるし、お返しすれば福が来るってさ」

「まあ、酔っぱらいの話だ、怪しいもんだがね」

「ともあれ、あんたは返してやろう。あんな大物を釣り上げたんじゃ、こっちも験くらい担がなくっちゃあ据わりが悪いや。せいぜい恩に着てほしいもんだね。本当なら、若い娘を売り飛ばすなんざ人魚を売るより楽だがね」

 

 どさ、と放り出されて気が遠くなった。

 身体中の痛みで目が覚めてみると、辺りは真っ暗で土の匂いがした。慌てて起き上がってみると、見覚えのある路地裏だ。先ほどまでいた屋敷とそう遠くはない。

 右の膝が立つのも辛いほど痛んだ。

 どこもかしこも打ち身だらけ、服や髪もひどいものだ。しかし私の頭には、たった一つのことだけしかなかった。


 私の雛子がさらわれた。

 あの薄汚い狸親父に、めかしこんだ豚のような卑劣極まりない男に、かわいい雛子がさらわれてしまった。


 今すぐ戻って取り返したい。しかし、足を引きずってようやく歩いているざまでは、乗り込んでいっても何の役にも立たない。護身具の一つも持ち合わせていない己の不甲斐なさに腹が立って仕方がないが、余所者ならいざ知らず、まさか雛子の素性を知っている輩が狼藉を働くとは考えもしなかった。働けるとは思えなかったと言うべきかもしれない。伯父はこのことを知っているのだろうか。

助けを呼んでくるべきだ。

 しかし、どこに行けるだろう。

 本家は前触れなしで人を入れない。私はもちろん、誰が訪ねてきても留守のふりをする。

 雛子の家なら、人がいるだろう。世話役の老婆が大抵はいたはずだ。必要なのは老婆ではなく腕っぷしの強い男衆だが、他に思いつく場所がなかった。

 人気の少ない道を選んで進んだ。右足が腫れ、痛みもひどくなったが、構ってはいられなかった。あの生臭い大きな洋館で雛子がどんなめにあっているかと、そればかりが気になった。

 

 ようやく雛子の家に辿り着いた。

 窓から明かりがこぼれている。傷みきった木戸の向こうに誰かが立っている。私の姿に気が付くと、人懐っこく手を振ってきた。あと少しで骨の形がわかりそうなか細い手。透き通るような肌の白さが、暗がりに浮かび上がるようだ。

飾り立てられて華やかで、弱々しくて繊細で、美しいのに気味が悪かった。


「――こんばんは、ユキちゃん」

 私の雛子が微笑んで、私に手を振っていた。

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