魚の娘、水の音 肆

「やあやあ、お待たせをいたしました、お嬢さん」

 雛子に向けて手招く仕草は、魚屋と商人の中間のような態度だ。

 商店街で魚を売る姿しか知らなかったが、今の姿もしっくりと身についている。ずいぶん前から着慣らした服装なのかもしれない。

「おお、ユキちゃんもご一緒か。ろくにおもてなしもできやせんが、どうぞごゆっくり」

 目が合うと、私は身構えたが、彼は平然としたものだった。ユキちゃん、とさりげなく呼ぶその口ぶりと表情は、どこにも不自然なところがない。

「お二人とも喉が渇いたんじゃあないかい。あんな狭いところに押し込められっぱなしで、申し訳ないことでした。ろくなおもてなしもできないが、うまいレモネエドが冷えていますよ。よろしければ運ばせましょう」

「レモネエド?」

「檸檬と蜂蜜のシロップを炭酸水で割ったもんでね、こういう蒸し暑い夜にはさっぱりしていいですよ」

 冷たい飲み物がすみやかに運ばれてきた。

 檸檬の香りと炭酸の音がいかにも涼しい。雛子は素直に口をつけた。私はグラスに唇をあて、飲むふりだけして卓に置いた。喉は乾いていたが、炭酸が苦手なのだ。

 猪瀬のおじさんは巨体をうやうやしくかがめ、雛子にそっと話しかけた。

「さっそく、ご覧いただけますか。三匹、地下の水槽に入れておりますんで」

 雛子は柔らかな笑みを浮かべ、客が立ち去った途端に閉ざされたらしい天蓋を指差した。

「あの中にもいるでしょう。顔を見せてほしいな」

「いやあ、あいつはついさっきお買い上げいただいたものですんで――」

「横取りなんてしないよ。ちょっと見てみたいの」

 天蓋の向こうから、ちゃぷ、と小さな水音が聞こえた。

 恐らく水槽か何かがある。そして何かしらの生き物がいる。

「――お嬢さん、いや、どうぞ今回はご勘弁を。おっしゃる通り最近は人魚も品薄になっちまって、前みたいに駄目になっちまっても代わりを用意できやせん。売れる前の品物でしたらいくらでもご覧にいれましょう。お気に召すような上等がちょうどおりますよ。ね、あれはよしにしときましょう」

「横取りなんてしないのに。少しお歌を聞きたいの」

 こうなるとこの子は譲らない。私は雛子に身を寄せ、その背にそっと手を添えた。

「ね、雛ちゃん、ほどほどになさらないと」

 でも、と唇を尖らせる。

「そこの――」猪瀬のおじさん、と呼ぶべきではないかもしれない。雛子の前で迂闊に人の名を呼んではならないとされている。「――そこの方だってお困りでしょう。よその人を困らせては駄目ですよ」

 甘く大人びた微笑みを引っ込めて、叱られた子供のようにしょんぼりと下を向いた。ユキちゃんが言うなら仕方がないね、と呟くお姫様の様子に、猪瀬のおじさんが目を丸くしていた。

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