鏡の水、雨の中 陸

 母親のところじゃないのかな、と雛子は普段と変わらない調子で言った。

「母親は偽物だけれども、今のあの子は本物だよ。もう戻れないくらい本物だよ」

「あの水は何だったんですか?」

 鏡の水だよ、と雛子は言った。

 彼女の話しぶりは慣れない者に不親切だ。意味のわからない固有名詞を当たり前のようにぺろりと使う。相手を思いやらないわけではなく、人が知らないということに思い至らないのだ。最初はこちらも遠慮して、まずは訳がわからないなりに話を最後まで聞くことにしていたが、最近は中途で遮って「それは何ですか?」と率直に尋ねる。

「鏡の水はね、便利な水だよ。飲むと目玉が鏡になるの。千里眼も予言もできるようになるよ。あまりたくさんは汲めないから、次に誰かにあげられるとしたら十年くらいは先かな」

 雨に洗われた庭の緑はつやつやと光り、土の匂いがたちこめている。今日の雛子の着物は赤だ。薄暗い座敷にひっそりと座して、明るい庭を眺める姿は牡丹が咲いたようだ。長く伸ばした黒髪が光をはらんで柔らかく揺れる。黒と赤とのどぎつい調和が目の奥に焼き付く。

「ユキちゃんは雨を避けれたのね。おみやげが濡れていなかったもの」

 昨日のことを思い出す。

「彼女が教えてくれました。雨が降るから傘を持って行けって」

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