舞台袖

 雛子になるには支度に手間がかかる。

 

 湯殿で汗を流した後は、柔らかい布で丁寧に拭かれ、上等の着物に袖を通す。椿油をしませた柘植の櫛で丹念に髪を梳く段階になると、心地よさで少女は眠くなってしまう。ぴんと張った若い皮膚にごく薄く粉をはたき、唇にごく薄く紅を差す。皺深い三人の老女はきびきびと立ち働き、孫ほどに幼い少女を念入りに磨き立てる。

 見てみたい、と少女はいつものように思う。

「鏡を見たい。ねえ、持ってきて」

 老女は眉をひそめ、おしゃべりは止めな、と素っ気なく言う。

「今は駄目だよ。何度も言っただろう」

「どうして? いいじゃないの、ちょっとだけ」

「お役目が終わったら好きにおし。今は駄目だよ。その着物を脱いで、化粧を落とすまでは」

「脱いで落とす前が見たいのよ。こんな面倒なこと、ずうっと我慢してんのに、自分の目で見れないなんて馬鹿みたい。せっかくきれいになったのならさ」

 とびきりきれいになった自分。高価な着物に丁寧な化粧。少女の生家は貧しかった。柔らかな絹の手触りも、手入れされた自分の髪が黒曜石のように光ることも、今まで彼女は知らなかった。外出ひとつ自由にならない毎日は足枷をはめて過ごすような窮屈さだが、壊れ物のように大切にされ、人々の注目を集めて暮らすのは決して悪い気がしなかった。

 老婆は少女を立ち上がらせ、着物の襟や帯の具合を点検し、化粧した顔を確かめた。

「いいかい、今の姿はね、あんたのものじゃあないんだよ。お役目を終えるまでのものなんだ。あんたは身体を貸してるだけだ。そこを勘違いしたらいけないよ」

「わかってるよ。こんな贅沢させてもらえるのはあと少しだって言うんでしょ。若いうちだけ、お役目の務まるうちだけだって」

 早くて十六、長くもっても十八までには必ず終わる仕事だと聞いていた。少女は来年、十五になる。この家に引き取られて背が伸びた。食事の栄養が良いからだ。規則正しく負荷のない生活のおかげだ。日に当てないよう気を付ける手足はほっそりと白く、鑢で形を整えた指の爪は貴石のように美しい桃色に変わった。日ごと清らかに育つ身体が、少女にとってもちろん好ましくはあったが、ほんの少し気味悪くもある。

 役目を終えて帰るとき、故郷に置いてきた親兄弟は、彼女のことがわかるだろうか。

「お役目を終えてもあんたは若いさ。こんなことは早く忘れちまったほうがいいんだ。今の姿なんて見ない方がいい。変に未練が残っちまう」

 少女は溜息をついて背筋を伸ばし、老婆が黒髪を梳くのに任せた。

 櫛が通る音が密やかに鳴る。

「そういえばね、あちらさんがまた代替わりするらしいよ」

「ユキちゃんが? ――また変わるの?」

「ああ、今度もいけなかったらしいね。次は女が選ばれたとさ。あんたも男より女の方が、気を遣わなくていいだろう」

「どっちでも同じだよ。会っているときのこと、なんにも覚えてないもの」

 老婆は金銀の蝶々をあしらった髪留めと深紅のりぼんを手に取り、どちらを使うかで迷うそぶりをする。きっとどちらもよく似合う。少女は気だるげに伸びをして、かわいそうなユキちゃん、と呟いた。

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