桜の花、貸したもの 壱

 人喰い桜を雛子は食った。

 桜が意趣返しにやってきた。


 ――お貸ししたものをお返しくださいまし。お嬢さまにお取次ぎくださいな。


 雛子の家に行く途中、見知らぬ女に呼び止められた。

 もし、と声をかけられて振り向くと、そのときはもう真後ろにいた。こちらが名乗りもしないうち、それどころか自身の名前すら言わず、他に言葉を知らないかのように何度も何度も繰り返す。お貸ししたものをお返しくださいまし。お嬢さまにお取次ぎくださいな。薄ら笑いを浮かべてひたひたと近寄る様子が気味悪く、返事もせずに駆けだした。雛子の家に駆けこんだ。

 普段使う木戸は気軽だが、蝶番が錆びていて開けるのに手間がかかる。僅かな時間でも止まるのが怖い。

表口のほうがすぐに開く。ごめんくださぁい、雛ちゃぁん。大きな声で呼ばわると、驚いた顔で雛子が出てきた。

「まあまあ、ユキちゃん、どうしたの?」


 息を切らしている私の様子を見つめ、わざわざ上がり框を降りてきて、「いらっしゃい、温かい飲み物をあげるから」と手を引いてくる。紫の花の模様が散った淡い紅色の着物に、黒髪をまとめる紫のりぼん。この子にしては気軽な衣装だ。刺繍の入った豪奢なよそ行きを着たより、かえって大人びて賢そうに見える。きれいな顔に浮かぶ心配そうな表情は、私を案じてのものなのだと思うと、ふつふつと喜びが湧いてきた。

 かくかくしかじかと女のことを訴えた。

 ろくに動じずに「それなら戸を閉めておこうね。ここまでは来ないかもしれないけれど」とただ戸を閉めて平然としている。錠をかけもせず、ただ閉じただけだ。もっとしっかり戸締りをしなければ、庭の木戸は、勝手口はとまくしたてても、「ユキちゃんはよく気がつくねえ」とにこにこしている。

「なんなんでしょう。お心当たりは?」

「そうだねえ、いくつかあるけれど……。ねえユキちゃん、どんな顔してた? 見た目で思い出せることはある?」

「え、ええと……」

 薄ら笑いの気味の悪い顔――そこははっきり覚えているが、さて着物は、年恰好はというとなぜか記憶に霞がかかる。

「女の人だったんでしょう?」「若かった、それとも年増?」「青色の犬を連れていた?」「腕だけ足の倍も長くはなかった?」「近寄ると蜂蜜のような匂いはしなかった?」「緑色と黒の大きなあざが右の頬になかった?」

 雛子の心当たりというのはまだまだ相当に数があったが、何を言われてもどれもこれも違う。私としてはただ閉めただけの戸の向こうが気にかかる。いまにも開けてはこないだろうか。お貸ししたものとはなんだろう。お嬢さまと言われて私が真っ先に思い浮かべるのは、目の前にいるこの娘だが、人違いとも限らない。例えば未婚の女を指すのであれば私とてお嬢さまの範疇に入る。

「じゃあねえ、首からは下は思い出せる?」

「ええ、なぜだか顔だけしか…。すみません、何も覚えていなくて」

「青い着物を着ていたような気がするんじゃない?」

「……はっきりとはわからないですけれど、そう言われると、そうだったかもしれません」

 雛子はおかしそうにふふふと笑った。長い黒髪が揺れ、ちらちらと光った。

「てっぺん以外の枝は全部摘んでしまったから、顔しか覚えていないのね。今日はよく晴れているから、向こうの青空が透けたのね。」


「ユキちゃんと一緒に行ったのよ。この前の桜。人喰い桜。頭の枝だけ残して芥子坊主みたいにしたでしょう」


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