ニ、廊下はいつも綺麗にするもの

 帝に連れられて宮中へやって来た当時から、斎は「少女のような顔立ちの童だ」と周囲の大人達を和ませていた。


 花琉帝は即位してまず、斎を童殿上わらわてんじょう(※元服前の子供を昇殿させ仕えさせること)させ常に手元に置いた。三年前の元服の儀では、帝が自らの手で冠を被せてやるなどその扱いは格別であった。さらに斎が近衛府このえふの武官となった際には、唐伝来の美しい宝剣を下賜するという寵愛ぶりである。


 いつしか武官と蔵人を兼ねるようになった斎は、“帝から授けられた唐太刀からたちを帯びた君”と呼ばれ――それが転じて柑子みかんの一種である“からたち”になぞらえ、「枸橘からたちの君」と呼ばれるようになっていた。


 だが――


 その“女子おなごのような枸橘の君”が、実は本当に“女”である、という事実は、今や宮中では公然の秘密となっていた。


 斎は元服して正式に出仕する齢になっても、相変わらず背は伸びず声変わりもしなかった。それでも当初、女房達は「可愛らしいこと」などと言ってちやほやしていたのだが。

 それから更に三年経った現在、もはや彼女が男だと信じている者はひとりもいない。唐太刀を帯びた男の姿をしていても、彼女の伸びやかな新芽のような美しさは少しも隠れるところがなかった。


 ところが斎本人はあくまで男子として振る舞い、真面目に職務に励んでいる。実はとっくに周囲に女だと看破されているなどと思ってもいない様子である。

 その姿があんまりまっすぐでひたむきだから――何より帝がそれを良しとしているものだから、誰もその事実を指摘できずにいる。




 ある日、斎は七殿五舎のひとつ麗景殿れいけいでんへ向かっていた。漆の盆の上に、琵琶をひとまわり大きくしたような珍しい果物をいくつも乗せて運んでいる。後宮に住まう女御達に果物を下賜したい、と帝から遣いを頼まれたのだ。


「ごめんください。麗景殿の女御さまに、帝より下され物でございます」

「まあ、枸橘からたちの君だわ」

「ようこそいらっしゃいました。さあさあ、近くにお寄りになって」

「はい。失礼します」


 女房達に大歓迎されて、御簾を巻き上げて内へ招かれる。斎はその下をくぐり、麗景殿の部屋の中へ半身ほど入った。

 これは本来ならあり得ないことだ。女御自身はさすがに几帳きちょうの奥であるものの、帝の妃がいっぱしの武官と同じ空間にいるなどと。

 しかし斎は童殿上の頃から後宮に出入りしており、女房達にかわいがられていたのだ。その上斎が女であろうことは誰から見ても明らかだったので――この特別待遇が許されていた。


「こちらはいつ訪れても良い香りがしますね」

「ふふ、これは女御さまが特別に作らせた薫物たきものなのですよ」


 女房が香炉の前を扇いで香りを送ってやると、斎はくんくんとうれしそうにそれを嗅ぐ。


「わぁ……。美しい薔薇そうびがまさに今ほころんだみたいな、みずみずしい匂いがいたします」


 本来ならばここは一首詠んで表現するのがたしなみとされているが、女房達は斎の飾らない言葉を好ましいと思っていた。すると几帳の奥の女御が、女房のひとりに耳打ちする。


「枸橘の君にもこの薫物を分けてさしあげましょうか?」


 女御からの提案を、斎はあわてて固辞した。


「い、いえ! 私は男の身ですので……。あの、このような華やかな香りは不似合いかと……」

 

 あくまで男だと取り繕う様子が可愛らしくも滑稽こっけいで、女房達はくすくすと扇の下で笑った。麗景殿の女御はその様子を几帳の隙間から覗き見て、小さなため息をつく。


(あの殿上童の頃から可愛がっていた斎――枸橘の君が、実は女で。帝からの寵愛も深く、いずれ女御である自分の立場を脅かす存在になるかもしれないなんてこと、当時は想像もしなかったわ)


 後宮には現在ふたりの女御がいるが、そのどちらにも帝からのお召しはない。後宮へ渡りもせず斎ばかりを愛でる帝を、女御は当初「女人に興味を抱けない稚児趣味なのだ」と思っていた。


 だが真実はそうではない。帝はずっと、斎を女と知った上で手元に置いているのだ。


 しかし今さらそう気付いたところで、いきなり斎への態度を変えたりはできなかった。麗景殿では女御も女房達も、今さら憎むことなどできないくらい斎に親しみを抱いてしまっている。


(つまりこれは、最初から帝の策略だったのかもしれないわ)


 帝は初めから、いづれ斎を妃として迎える腹づもりで自分達に会わせていたのではないか。彼女の純粋さ、愛らしさに触れれば、醜い嫉妬など起きようはずもないだろうと。その上であえて、斎のしたいようにさせてやってるのではないか。


(なんと大胆不敵なお考えであろうか――)


 これまで一度でも帝からお渡りがあったなら、想いがつのったかもしれぬ。しかし本当にただの一度もないのだ。その代わりこうして折りにかけて気にかけ、手厚く遇してくれる。

 ならばこのまま、書や詩歌に優れた女房の集う麗景殿の女主人として気ままに生きる。それもいいかもしれない、と女御は思いつつあった。


(あとはいつ、どうやって斎を女に戻し、入内させるかでしょうね)


 さすがの女御もそれ以上、帝の意向を推し量ることはできなかった。

 ふう、ともう一度だけ人知れず嘆息すると、几帳の向こうでは相変わらず女房達が斎を取り囲んで構っている。


「この後登華殿とうかでんもお訪ねしなくてはいけないので、そろそろ失礼します」

「登華殿の女御さまは、枸橘の君にお辛くあたると聞きましたが?」

「うーん、実はあまりお話しをしていただけません。何か失礼をしてしまったのでしょうか……」


 それはあなたに嫉妬しているからよ、とは誰も口にはしなかった。登華殿の主はまだ若く、歳は斎に近い。麗景殿の女御ほど割り切れていないのだろう。


「登華殿の女御さまは、逞しく男らしい方がお好きだそうですよ。枸橘の君もひげでも生やしてみてはいかが?」

「な、なるほど。ひげ。……はい、検討してみます。よいお考えをありがとうございます」


 からかわれているのにも気付かず真面目に返す斎に、女御もとうとう噴き出してしまった。


(このまま穏やかに事が進めば良いのだけど――)


 だが、女御の願い通りにはいかなかった。





「とっとっとっ、頭弁とうのべんさま~~~~!」


 清涼殿の南、校書殿きょうしょでんの一角にある蔵人所。蔵人達の直属の上司である頭弁のもとへ、斎が駆け込んできたのはその日の昼頃のことだった。

 

 書類の山に囲まれた頭弁が煩わしげに文机から顔を上げると、斎は今にも泣きそうな顔をしている。花琉帝の腹心でもある若き頭弁・藤原ふじわらの真成まさなりは、厄介事の気配を感じ取ってあからさまに眉をしかめた。


「どうした」

「じじじ実は私、腹を壊してしまったのです……。それで、腹下しの薬をいただきたくて……」

「なぜそれを私に言う? 薬なら典薬寮でもらってくればよい」

「その、それが……」


 いつも物怖じせず快活にしゃべる斎が、もじもじとうつむき加減に言葉を濁す。


「たくさん、欲しいのです……。でも私が典薬寮へ行くと理由を聞かれてしまうので、頭弁さまのお力で用立てていただくわけにはいかないかと思いまして……」

「理由を言え」

「でも……」

「理由も聞かずに協力するわけがなかろう」

「ぜったいぜったい秘密にしていただけますか!?」


 頭弁のもっともな応答に、斎は涙目で何度も何度も「内密に」と確認した上でようやく事情を話し出した。


「実は先ほど、帝からのお遣いで登華殿へ行って参ったのですが……。登華殿の女御さまは気難しくていらっしゃるので、先触れを出してから伺ったところ、その……。ろ、廊下に、足の踏み場もないほど大量の糞尿が散乱しておりまして……!」


 そこまで聞いて、頭弁は「ああなるほど……」とすべてを察した。

 後宮では昔から、帝のお召しに参上しようとする女御や更衣の移動を妨害するために、通り道に動物の死骸や糞尿を撒く嫌がらせがあったと聞く。つまりこれは、帝の遣いで登華殿へ渡ろうとした斎への女御からの嫌がらせなのだ。

 帝からただの一度もお渡りのない登華殿の女御にしてみれば、斎は帝の寵愛を独り占めする憎い女。わざわざ先触れの報を受けてから準備するとは、ずいぶんと慌ただしい。


 だが、斎はそうは受け取っていなかった。


「きっと登華殿のどなたかが――。あ、いえあの糞尿の量からしてきっと皆様が、腹を下して伏せっておられるのではないかと……!」

「は?」

「だ、だってその証拠に……っ! お訪ねしたところ『今日は具合が悪いので会えません』と言われてしまったんです!」

「…………」


 あまりに性善説が過ぎるだろうよ、と頭弁は言葉をなくした。


「お前はその大量の糞尿をどうしたんだ」

「もっ、もちろんこの斎が内密に、きちんときれいに掃除してございます! 寺にいた頃は毎朝廊下を磨くのが日課でしたので、掃除は得意なんです! で、でも……」


 たったひとりで始末するなんて相変わらず根性だけはあるな、と頭弁が少しだけ感心して聞いていると。うつむく斎の目から、ぽろりとひとつ涙がこぼれた。


「腹を下して廊下で粗相してしまっただなんて、女人の名誉に関わりましょう。き、きっと登華殿の皆様は、腹の痛みだけでなく恥辱に震えて苦しんでいらっしゃるのではないかと……。うう、あ、あまりにも、お可哀想で……!」


 話しているうちに感情が高ぶったのか、おいおいと泣き出してしまう。そのうち鼻水まで垂らしだしたので、頭弁は鼻紙代わりに書き損じの書類を一枚差し出した。


「つまりお前は、登華殿の女御どのに薬を差し入れたかったのか。わざわざ自分が腹を下したなどと嘘をついて」

「申し訳、ございばぜん……。でも、女御ざまはぎっど、誰にも知られたくないだろうとおぼっだので……」


 そりゃあ知られたくはないだろうよ、と頭弁は心の中でつっこんだ。

 登華殿の女御もまさかこんな形で明るみに出るとは思わなかったのではないか。普通の貴族の女なら、こんな下品な嫌がらせを受けたら卒倒するか、そもそも糞尿などと汚らわしい言葉を口に出すことすら出来ず黙って涙を呑むだけだろう。

 ずびずびと遠慮なく鼻をすする斎を尻目に、頭弁は素早く対処を算段する。


「わかった。それは大事だったな。しかし集団で腹を下したとなると、医師に診せぬわけにはいかぬだろう。この件は私が預かるから、お前はもう下がりなさい」



 そして後日。


「あの女に目に物見せてやったわ」などと盛り上がっている登華殿に、花琉帝から立派な蒔絵の箱が贈られてきた。その中に入っていたのは――大量の腹下しの薬。

 これはつまり、「お前のやったことは把握している」という帝からの無言の通告である。恐れおののいた登華殿の女御は、心労で本当に寝付いてしまった。時を同じくして女御の実家に、宮中から「女御が病の床にある」という知らせが届く。


 こうして、登華殿の女御は「流行り病の疑い有り」ということでそのまま宿下がりをさせられ、後宮から姿を消してしまった。


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