スナック『輝』かがやきは、ビルの二階にある。

 飲み屋にスナックなどが入った五階建ての雑居ビルだ。

 十九時になったが、夏のためまだ周囲は明るい。

「相田の言っていた事件について教えてくれ」

「ええ」

 美紀は雑居ビルの入り口に入って、古いエレベーターの前に立った。時間帯が微妙なせいか、ほかに人はいない。

 建物に入った途端、空気がよどんでいるような感触を受けた。空調の音はしていて、エアコンは効いている。この感覚は良くないものだ。美紀は顔をしかめた。

「このエレベーターに、黒霧こくむが憑いていたのですが」

 黒霧はこうした繁華街によく生まれるアヤカシである。人間のどろどろとした思念から生まれているのではないかと言われているが、正確なところはわからない。

 はっきりとわかっていることは、ネオン街にあるちょっと薄暗いところに彼奴等は固まっている。

 最初はたいしたことは出来ないが、大きくなると人を喰らう。人を喰らってしまうと、手が付けられないほど強大な力を持ち始めてしまうのだ。

 前に美紀と神崎が来た時は、既に一人喰らった後で、かなり死闘になった。

「今もいるな。黒霧じゃねえ。この気配は鬼だ」

「符ははがされていますし、臭気が前より酷いかもしれません」

 美紀は眉根をよせた。

 あれほど管理人に見えないところでいいから残しておくように言ったのにと、美紀は思う。一度アヤカシが現れた場所は、もう一度現れる可能性が高い。とはいえ、喉元過ぎれば熱さを忘れるともいうし、ビルの管理人が別の人間になっている可能性もある。

「これはまずい。人を喰らっている」

「……そうですね」

 エレベーターの前に立つだけで、美紀の首筋がピリピリと痛む。これはかなりタチの悪い奴だ。

「人がいなさそうな階はないか?」

「一階は飲み屋、二階はスナック、三階は占い、五階は雀荘みたいです……四階はどうやらつぶれているようですので、確実かと」

 美紀はエレベーター脇のテナントの案内を見る。

 前に来た時はサラ金、いわゆる消費者金融の店舗が入っていたような気がするが、現在は空白になっていた。

「エレベーター、使いますか?」

「いや。階段で行こう」

 健司は防火扉を開け、階段を上り始めた。

 三階をすぎると、階段の電灯がまたたいている。電灯が切れかけているのだろう。

「少なくとも気を付けて管理はしていないな」

「……三階より上はみんな階段を使わないのでしょうね」

 使用しないので、電灯が切れかけていることに気づきにくいのだろう。

 薄暗い階段を上って四階の踊り場にたどり着いた。

 防火扉を開くと、真っ暗なエレベーターホールがそこにあった。

 火災報知器がほのかに光っている。

 美紀はカバンから携帯用のワークライトを取り出して床に置く。美紀は符術を行使するので、完全な暗闇では戦いにくい。

 作業をするのに十分な光源は確保しておいた方がいいのだ。

「そこそこ広いね」

 健司は満足そうだ。

 ガラス張りのテナント跡は、ガラクタが少し置かれている。人の気配は全くなく、床にほこりがたまっていて、掃除もはいっていないようだ。ということは、よほどのことがない限り、ここに人が来ることはない。

「呼べる?」

「ええ」

 健司の物言いは美紀を気遣っている。神崎ならば、「呼べ」と命じているところだろう。

 それは健司が人間として余裕のあるところなのかもしれない。

「行きます」

 美紀はカバンから紙を取り出して筆を走らせ、それを額に当て念を込めた。

「悪鬼招来!」

 美紀は符を投げる。

 符はぺたりとエレベーターのドアに張り付く。

 大きな音とともに床がゆれた。張り付いた符から抜け出るように黒い塊が這い出してくる。

 人間ではありえない銀色のつり上がった目。耳元まである大きな赤い口から、蛇のような長い舌がちろちろとゆれている。

 体格は健司より一回り大きく、身体は闇色をしていた。

「色情鬼か。かなり喰っているな」

 色情鬼は夜の街に現れやすい。人の淫らな肉欲が彼らを育てるからだ。特に奴らは愛を伴わない本能的な欲を好む。また人の恐怖も大好物だ。

「結界を張ります」

 美紀はあらかじめ作ってある符をとりだした。

「頼む」

「結界符」

 美紀の声と共に五枚の符は五芒星をえがくように飛んでいく。

 この結界は、鬼を逃がさないための結界であり、周囲に人を寄せ付けなくするための結界でもある。

 鬼は閉じ込められたことに気づいたのか、咆哮をあげた。

「さあて、お相手は俺がするよ」

 健司はスラックスの下に隠した一本の五寸釘をとりだす。

「かけまくもかしこき熱田大神あつたおおかみよ」

 健司の言葉とともに、釘は銀の光を帯びて、長い太刀へと姿を変える。

 健司の持つ釘は、熱田の宮の本尊近くの拝殿に使われていたものだ。長年、神器近くにあったその釘は、神気を帯びて、あめの叢雲剣むらくものつるぎの気を放つようになった。無論、本尊の力と比べれば、塵にも等しい。だが、それでも強大な力を持っている。健司は、それを扱えることを熱田大神に許された人間だ。

「草野さん!」

 鬼は手にした黒いこん棒を叩きつけようとする。健司はすれすれでそれをかわしたが、圧が強い。振り下ろした勢いで風の刃が健司の頬を引き裂く。

「捕縛符」

 美紀はすかさず符を放った。

 だが、鬼に直接放った符は、青白い炎に焼かれて瞬間で消えてしまう。

 それはある程度計算済みだ。美紀はあくまで健司のアシストである。ほんの少しだけ時間を稼げればそれでいいのだ。

「さすがに人を喰らった鬼は、強いね。でもね。あめの叢雲むらくもの神の気を持つ形代かたしろの敵じゃない」

 健司は太刀を構えた。

「焼け! 叢雲むらくも!」

 銀の刃が激しい光を放った。健司はそのまま鬼を切りつける。

 鬼は断末魔の叫びをあげ、建物が揺れた。鬼の身体が光の中に溶けていく。

 その光が消えた頃には、健司の持っていた太刀はただの釘に戻っていた。

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