第四〇回(文政八年三月)




 ときは文政八年の三月、西暦なら一八二五年四月上旬。江戸の町は春真っ盛りである。達郎が店の奥を覗き込むと、そこでは金七が最近丁稚となった芳三郎に熱心に何かしゃべっているところだった。なお芳三郎は丁稚となったことを契機に改名し、今は「芳三よしぞう」と呼ばれている。先輩として丁稚の心得でも教え込んでいるのかと思ったら、


「ここで五人の義賊が勢ぞろい! 五人そろってゴライヤー!」


 語り聞かせているのは「ゴライヤー」の構想だった。芳三は「ほえー」と目を輝かせて聞き入っており、金七は得意満面だ。


「そろったときにはやっぱり口上がほしいですね! 五人が並んで一人ひとり名乗りを上げるとか!」


「うん、それも格好いいな」


「知らざあ言って聞かせやしょう、生まれは……えーと歌舞伎小屋」


 芳三は片肌を脱いで見得を切りながら口上を練っている。その様子を微笑ましく眺めつつも「……あれ」と何か引っかかりを覚え、


「金七、芳三」


 多分気のせいとそれを流した。


「出かけるからどちらか……それじゃ芳三、一緒に来るか?」


「はい、判りました」


 芳三は笑顔となり、選ばれなかった金七は残念そうだ。だが達郎としては、


「こんな小さい子供が親元を離れて住み込みで働くなんて」


 とつい同情的になり、甘やかしてしまうのだ。もちろんこの時代ではそれがごく普通と百も承知しており、できることも限られているのだが、お内が黙認する範囲で従業員の福利厚生を充実させようとしていた。そして金七や芳三も「達郎が下に甘い」ことをよく知っているのである。

 またそれだけでなく、芳三が利発で勉強熱心なので目を懸けている面もあった。もっとも、芳三は暇さえあれば商売道具の読本や院本を読みふけっているだけであり、それを「勉強熱心」と評価しているのは達郎だけなのだが。


「それで、どこに行くんですか?」


「二丁町の中村座に」


 芳三は「ほえー」と目を真ん丸にした。

 そしてやってきたのは日本橋二丁町。目の前には高々と櫓が天を突き、そこには丸に橘の定紋が描かれている。江戸三座の一つ、芝居小屋の中村座だ。今日ここを訪れたのは鶴屋南北に招かれてのことだった。「新作の通し稽古を見たい」と達郎が要望し、南北がそれに応えたのだ。


「まだ全部は書き上がっていないんだがね」


「いえ、全く構いませんので」


 その日、中村座は休演日だが役者は勢ぞろいをしていた。五代松本幸四郎、三代尾上菊五郎、七代市川園十郎など、そうそうたるメンバーだ。達郎は早くも熱心にスケッチに勤み、また同時に役者から話を聞き出している。

 そして達郎と芳三のたった二人の観客を相手に、鶴屋南北の新作歌舞伎が上演された。大南北の最高傑作として名高い、「東海道四谷怪談」である。

 ――「お岩が夫の伊右衛門に惨殺され、幽霊となって復讐する」その醜く恐ろしい姿を、多分誰もが一度は目にしたことがあるだろう。四谷怪談は日本一有名な怪談と言われており、二一世紀に至るまで様々なバリエーションが生み出されてきた。そして南北の「東海道四谷怪談」はその基本にして決定版だった。

 南北の四谷怪談の特徴的な点は、それが忠臣蔵と深く結びつけられているところである。忠臣蔵は忠義や自己犠牲といった徳目を高らかに謳い上げた作品だが、四谷怪談ではそれらの徳目によって何人もの人間が踏みにじられ、犠牲となり、惨めに死んでいく。お岩はその筆頭であり、犠牲者の典型である。その一方で、忠義や自己犠牲という徳目を信奉し、それに殉じようとした人間もまた超自然的な力を得た犠牲者の復讐により全員みじめで悲惨な死に方をするのである。この時代にこんな、儒教の徳目に冷笑や冷や水を浴びせる問題作が書かれたのは驚嘆すべき事実だが、また別の言い方をすれば「四谷怪談」は時代の産物でもあった。

 この作品が生み出された「今」、文化文政時代は市場経済が発達し町人文化が爛熟を極める一方、長く続いた幕藩体制が崩れかかり、だが新しい秩序は見えていないという、非常に不透明な時代だった。鶴屋南北はその時代感覚そのままに、崩れていく秩序を忠臣蔵の登場人物の無残な死という形で表現したわけで、「東海道四谷怪談」が時代を越えて語り継がれる作品となったのもそれが理由としてあるのだろう。

 通し稽古は丸二日に渡って続けられ、終わったときには役者は全員力尽きていたが、それに付き合った達郎もまた同様だった。


「ありがとうございます。無理を言って申し訳なかったです」


「いや、別に構わんよ」


 深々と頭を下げる達郎に対して南北はそう言って手を振り、


「その分良い絵を描いてくれれば」


 と付け加える。達郎はやや引きつった笑みで「微力を尽くします」と返答する。が、その脳裏には描くべき役者絵が完成状態となっていた。後はそれを紙の上で形にするだけである。






「……それで描いてきたのがこれなわけですか」


 達郎が一気呵成に描き上げた草稿を手に中村座を再び訪れたのは数日後のことだった。それを渡され、目を通した南北は、困惑の目を達郎へと向けている。

 達郎が持ってきたのはたった一〇丁(二〇頁)の小冊子だった。墨一色の単色刷り。大きさはちょっと大きめの半紙本、B5判とほぼ同じだ。そしてそこに描かれているのは、たとえば三代尾上松五郎の、お岩さんに扮した役者絵と、普段のままの姿絵。バストアップのそれが横に並んで描かれている。あるいは市川園十郎の、同じく伊右衛門に扮した姿と普段のままの姿。さらには、


「今回も憎々しい役どころでやりがいはあるけど、芝居の外でも嫌われそうですね(笑)」


 等といった、インタビューが記されている。はたまた見開き一枚を使って稽古中の、南北が役者に演技を付けているところを描いたかと思えば、同じく見開きでお芝居の山場を描いていたりもする。そして一番力を入れて、紙面を割いて描いているのは鶴屋南北の肖像とインタビューだった。もっとも、検閲対策のためにあまり突っ込んだ話は書けずに当たり障りのない内容となってしまったのだが、


「どうでしょう? 俺としてはなかなか良い出来に仕上がったと思っているんですが」


「こういう読み物は初めて見ますが」


 役者絵は白黒ながらもそれぞれの特徴をよくとらえ、その魅力を最大限引き出すものとなっている。また役柄に扮する前の役者絵も、これはこれで非常に面白い。贔屓筋ファンなら何としても手に入れたいと思うことだろう。それに芝居のあらすじや見どころも載っており、たった一〇丁に「東海道四谷怪談」の全てが詰め込まれているかのようだ。


「……これは一体どう呼べば」


「パンフレット……じゃなくて、芝居図絵とか芝居案内とか」


 達郎が作ってきたのはまさしく映画で言うところのパンフレットそのものだった。映画パンフレットはもちろん外国にも同例はあるが、上映される全ての映画で製作され販売されるのは日本だけだという。薄っぺらで簡素な作りなのに、それでも値段は千円を軽く超えるのに、映画を見に行くたびに記念として必ず購入するものだった。

 そして商売する側に回ったならこの濡れ手で粟のぼろ儲けの機会を見逃すはずもなく――ではなく、観客や贔屓筋に対するサービスとしてこういうものがあれば喜ばれるだろうと考えたのである。


「これを芝居小屋だけで、上演している間だけ売ることにして、値段を高めにしてもお客さんはお土産みたいなものと考えてきっと買っていって――」


「いや、これは今すぐにでも、広く売りさばくべきです」


 パンフレットとは記念品の類であるべき、と考える達郎は南北の主張に難色を示すが、彼は自分の主張を強く唱え続けた。またお内も南北を絶対的に支持し、達郎の考えを一蹴。そうなるともう達郎にはどうしようもなく、同年七月頃から「芝居案内」が刊行され、山青堂を初めとする書肆の店頭で販売されることとなる。そしてこれが大ヒットした。


「こんな芝居をやるのね」


「是非見に行かないと」


 山青堂で、連れ立ったお客さんがそんな会話をしながら「芝居案内」を買っていく。達郎としては芝居のパンフレットのつもりで作ったのだが、世間的には「芝居の情報誌」として扱われるようだった。

 「芝居案内」の爆発的な売れ行きに当然ながら「東海道四谷怪談」に対する期待も高まっていく。この芝居はもう上演前から満員御礼が約束されたようなものであり、南北はいたく満足だった。商売繁盛のお内もまた同様だが、達郎はさらなる一手を用意していた。くり返すまでもなく、怪談物の出版フェアである。






 暦は行きつ戻りつし、同年二月。お岩さんの幽霊屋敷騒ぎが起きてからまだ間もない頃。場所は山青堂。今、そこには葛飾北斎、柳亭種彦、渓斎英泉、そして為永春水という、そうそうたるメンバーが顔を揃えている。集めたのは達郎ではなく春水だ。彼がイベントを企画し、この新月の夜に開催の運びとなったのだ。

 ――恐ろしい話を百集めて百話に至ると必ず怪奇が起きるという。新月の夜、青い紙を貼った行灯に百の灯心を入れ、火を点じて、一つの物語が終わるたびに一つずつ消していけば会席はますます暗くなり、青い光はちらちら揺れて、ものすごい雰囲気となっていく。さらに語り続けるうちに怪しい、恐ろしい現象が必ず起こるのだ――そう、百物語である。その起源は定かではないが、江戸期にはブームとなって盛んに催されたという。


「聞きましたよ、今度百物語で本を出すそうで。だったら百物語をやらなきゃ嘘でしょう!」


 その断固たる主張に反論するのは達郎にもお内にも難しく、春水に押し切られる形で山青堂を会場として提供することとなったのである。


「前はどうして俺を呼ばなかったのだ。俺も幽霊を描きたかったのに」


 と渓斎英泉。達郎は「すみません」とひたすら恐縮した。一方、


「今度こそ本物の幽霊を絵にしてやるぜ」


 と葛飾北斎は張り切っている。


「絵にはできずとも、話のネタにはなるだろう」


 と柳亭種彦。この面子も出版フェアのメンバーそのままである。ここに春水、それに達郎とお内が加わってフルメンバーだ。


「……妹さんも付き合うんですか?」


「これも商売のうちですから」


 と涼しい顔のお内。お内だけでなく全員が「半分は仕事」を言い訳として集まったようなものだった。


「いや、思ったよりも暇人が多かったようですな」


 と憎まれ口を叩く春水。


「ですが夜を明かして朝方に幽霊に出てきてもらうのも心苦しいので、早速始めましょうか」


 季節はもう春で、日が沈むのも遅くなっている。達郎達はまだ夕方から雨戸を閉め切って室内を暗くし、行灯に青い紙を貼っていた。灯心百本分の行灯を用意して全部に点火するのはスペースの面、それに防火の観点からちょっと厳しかったため、十数本の灯りで妥協する。

 えへん、と春水が咳ばらいをし、


「……織田信長の家来に端井弥三郎という、文武に優れた家来がいたそうです」


 声を潜めて語り出し一同が耳を傾ける。春水の次は種彦が、その次は英泉が語り手となり、恐ろしい話、奇怪な話、不思議な話を重ねていく。一同は時を忘れてそれらの話を聞き入った。

 ……どのくらいの時間が過ぎ、いくつの話が語られたことだろうか。そろそろ半分になろうという頃。一つの話に五分かかるとして、五〇の話で二五〇分、四時間以上。休憩を挟んでいようとさすがに疲れてくるし、


「……どこかで聞いた話ばっかりだな」


 横になって鼻くそをほじりながら北斎が言う。話をして、話を聞くだけではさすがに飽きてくる頃だった。

 先述のように百物語は江戸期にブームとなり、「伽婢子」「諸国百物語」「御伽百物語」といった怪談集が出版されている。この場で語られる怪談も大半がこれらの本に収録された話であり、一度は聞いたことがあるものばかりだった。


「まだ聞いたことのない、新しい怪談はねえのか、おい」


 北斎の問いかけに一同は当惑の顔を見合わせる。この場で披露できるような不思議な体験など、そうそうあるはずが……


「ああ、そう言えば先日のことなんですが」


 と語り出したのはお内である。


「銭箱を開けて勘定していたんですが、本当はあるはずの一朱金が何回数えても足りなくて……! 一枚、二枚、三枚……一枚足りない! 一体どこに?!」


「皿屋敷かよ」


「てっきり兄さんが勝手に持ち出したに違いない、手打ちにしなければと」


「いやちょっと待とう妹さん」


 激情に震えるお内がやがて深々とため息をつく。


「結局その一朱金は出てこないまま、どこに行ったか判らないままです」


 ……お内の話はそれでおしまいのようで「オチはどこに?」と一同が表情で問う。


「いや恐いと言えば恐かったけどさ」


 妹さんが、と達郎は内心で続けた。その場の空気は非常に微妙なものとなってしまったがそれを入れ替えるように、


「そういう話でいいんだったらあたしもこの間とてもとても怖い思いをしましたよ」


 と春水が一同の注目を集める。


「青林堂で出す本の草稿が一枚どこかに行ってしまいまして。日参して何度も頭を下げて高い潤筆料を払ってやっと書いてもらったのに、もう一度書いてくれ、なんて言えるはずがない! 家中探し回って何とか見つけましたが、いやー、あんなに肝が冷えたのは久々でしたな!」


「それなら私も、請け負った仕事をすっかり忘れていたことがあった」


 と種彦。


「先生、出来上がりはそろそろじゃありませんか?と言われてようやくそれを思い出した。血の気が一気に引いたが、ああもうちょっと待ってくれとその場をごまかして、二日ほど徹夜して何とか書き上げた」


 そう言えば俺も、と英泉も加わって馬鹿話がしばらく続く。本人以外には怖くも何ともないただの雑談だったが、北斎は聞き飽きた怪談よりは退屈していないようだった。

 その雑談の流れの中で、


「実は山青堂このみせにはとても恐ろしい、身の毛もよだつ妖怪が棲み着いているんです」


 そう言い出した達郎が筆を取り出して紙の上にその妖怪の姿を描き出した。見る間に描き上がったそれを一同へと示し――そこにいるのは営業スマイルのお内そのままだ。


「その名も妖怪銭ゲバ」


 兄さん、とお内は笑顔のままで、パプテマス・シロッコも震えるようなプレッシャーを放った。その笑顔は達郎の似顔絵と鏡写しだ。達郎はそれに怯まず、


「一枚、二枚、三枚……一枚足りない!」


 お内が笑顔のままさらにプレッシャーを高めて触れんばかりにその笑顔を近づけ、達郎はその分後退した。


「銭はまだ判りますけど、ゲバってどういう意味ですか?」


 さあ……と達郎は首を傾げる。「銭ゲバ」とはジョージ秋山が一九七〇年に執筆した同名の漫画に由来し、普通名詞化した単語である。この漫画は映画化され、二〇〇九年にはTVドラマにもなっている。なお達郎はそこまで知らなかったが「ゲバ」とはドイツ語の「暴力ゲバルト」に由来する。六〇年代から七〇年代には過激派学生の間で「ゲバ棒」や「内ゲバ」という言葉が使われており、一般にも広く流布していた。本来は「暴力」「実力行使」を意味するのだが「銭ゲバ」では使い方がずれたまま、「金のためなら手段は問わない人間」という意味を持つようになったのである。


「そういう妖怪なら俺も知っているぜ。その名も妖怪ごくつぶし」


 北斎が素早く描き上げたのは、一見ではただの若い鳶の男の絵だった。春水などは首を傾げ、この場の誰よりも(ある意味北斎自身よりも)事情を知っている達郎はその自虐に気の毒そうな顔となった。それは名前も残らなかった北斎の孫であり、北斎はこの時点よりも何年か先にはこの孫の借金や尻拭いに散々苦労をするのである。

 そういう妖怪なら、と今度は英泉が筆を執り、描き上げたのは蛇女の絵だ。


「その名も妖怪つきまとい。手切れとしたはずなのにつきまとってきて、他の女とねんごろとなっていると包丁を持って襲いかかってくるので気を付けねばならん」


「それってストーカー……」


 色男として名を馳せた英泉ならストーカー騒ぎの一回や二回経験していても何の不思議もないだろう。

 百物語は完全に中断し、雑談や馬鹿話モードに移行している。お内や左近が酒やつまみを持ってきたのでもう怪談をするような空気ではなくなっていた。結局その夜は馬鹿話をして一夜を明かすこととなる。






 そして文政八年七月。中村座で「東海道四谷怪談」の上演が始まるのと同時に、山青堂では複数の出版物が同時刊行された。そのどれもが怪談を扱ったものである。

 まずは「近世怪談 夢十夜」。文・柳亭種彦、画・渓斎英泉という最強コンビによる合巻だ。本来の時間軸では一緒に仕事をした例の少ない二人だが、コンビを組ませたのが達郎であることは言うまでもない。内容は四谷怪談の他、番町皿屋敷や耳なし芳一や雪女といったよく知られた怪談話を一〇編まとめたものである。夏目漱石の怪奇短編集からの命名だが、中身としては小泉八雲の「怪談」の方に近かった。予定としては一〇輯刊行し、全百話とするつもりである。

 続いては葛飾北斎による錦絵「百物語」。百物語をテーマとしたシリーズ物の錦絵であり、史実では天保年間に仙鶴堂から刊行されている。達郎はその企画をパクって何年も前倒しして刊行したのである。「提灯に化けたお岩さん」の、恐ろしくもユーモラスな北斎の画は二一世紀でもよく知られているが、これもまた同シリーズの一枚だった。ただこの「百物語」は二一世紀には、お岩さんの絵も含めてたったの五図しか現存していない。おそらくは思ったよりも売れなかったためシリーズが早々に中断したのだろう。達郎としては怪談ブームに乗っかってスタートダッシュを決めて最後まで刊行したいところだが、今のところは非常に好評で売れ行きも好調だった。

 そして本命は達郎による怪奇短編集の合巻、その名も「怪奇夜話」。「夢十夜」が既に知られた怪談を扱ったものなのに対し、「怪奇夜話」は全くの新作の怪談集だった――もっとも達郎の創作ではなく、元ネタは高橋葉介をはじめとした二〇世紀・二一世紀の怪奇漫画の数々だが。

 そしてこの短編集にはそれまでの合巻にはなかった「おまけ」が付いていた。単行本の空きページにお遊びのイラスト等が描かれている漫画を、誰もが一度は目にしたことがあるだろう(井上雅彦の「スラムダンク」が良い例だ)。この「怪奇夜話」にも複数のおまけイラストが差し挟まれているのだ――「妖怪ごくつぶし」「妖怪つきまとい」、それに「妖怪銭ゲバ」といった。百物語のときに手遊びで描かれたそれらをお内が回収し、この合巻に追加で掲載したのだ。

 達郎がこのおまけの存在を知ったのは「怪奇夜話」の種本(見本本)を見せてもらったときだった。


「妹さん、これ……」


 達郎が驚いた顔をお内に示し、お内は素知らぬ顔を装っている。


「北斎先生にも英泉先生にも断りはいれています」


「そう、それなら」


 と納得しそうになる達郎だが、


「いやでも……いいのか、これ?」


 達郎が「妖怪銭ゲバ」の頁を示すが、お内は呆れたようなため息をつくばかりだった。


「今さらしょう、そんなの。兄さんが『新無金』の中でわたしのことをどう描いてきたか、忘れたんですか?」


 達郎はその指摘に気まずそうな顔となった。達郎は山青堂と達郎自身をモデルとした四コマ漫画「新無金地本問屋」を折に触れて刊行しており、その中でお内は守銭奴として散々な描かれ方をしているのだ。


「大げさに描いて話を面白くして、それで本がたくさん売れるのならそちらの方がいいに決まっているでしょう」


「大げさに……?」


「何か言いたいことが?」


 首を傾げる達郎にお内がそう詰め寄り、達郎は「いえ、何も」と首を横に振った。


「ともかく、妹さんが構わないのなら」


 こうして「怪奇夜話」はそのまま刊行され、好評を博することとなった。それは「出せば大ヒットが当たり前」の達郎の作品群の中では、特別よく売れたわけではない。だがこの合巻は後世に一つの足跡を残すこととなる――そう、「銭ゲバ」という単語が一般に広まり、それが定着するのだ。

 それは世紀をまたいで守銭奴とほぼ同じ意味で使われ続けることとなる。そして「元祖銭ゲバ」のお内の名もまた不朽のものとなった。そんな未来の話を達郎が知るはずもないが、知ればさすがに後悔しただろう。一方のお内は、


「儲かったんだから別にいいでしょう」


 と意に介さなかったに違いないが。




参考文献

堤亮二「百物語―江戸時代の怪談」碧天舎



【後書き】

ここから31回に戻って36回まで読み進みください。

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