第三二回(文政八年三月)



「どうしてこんなものが……」


 想像を絶する事態に達郎は混乱し、惑乱している。立ち上がって意味もなく室内をぐるぐると歩き、右往左往し、また座った。衝撃に頭の中が真っ白となって思考が働かない。

 そのとき背後の襖が開いて、達郎は首が千切れそうな勢いで振り返った。見ると、右京が襖に手を添えたまま立ち尽くしている。身をすくめて怯えた顔の右京に、自分が恐がらせたことを理解した達郎は無理にでも笑顔を作った。


「ごめん、今はちょっと一人にしてくれないかな?」


 右京が素直に頷き、襖を閉めて去っていく。遠ざかるその気配に達郎は安堵のため息をついた。だがこれをきっかけに頭に血が巡ってまともにものを考えられるようになった気がする。

 ――もしこの江戸城の見取り図が本物だった場合――幕府の役人が作った実物かその模写かは関係ない、問題はその中身だ。おそろしく質の悪い悪戯である可能性もゼロではないが無視していいレベルだろうし、何よりこの際は最悪を想定するべきだった。

 何故シーボルトがこれを持っているのか、どうやって手に入れたのか。その回答を導き出すにはあまりに知識が不足している。こんなことなら元の時代でもっとシーボルト事件について調べておけば……そんな益体もない後悔が胸をよぎるが達郎はそれを振り払うように頭を振った。「どうやって」は考えても判らない話だし、今はさして重要ではない。問題は「何のために」であり、それについてはある程度の推測が可能だった。


「やっぱりシーボルトってスパイだったのか」


 シーボルトは出島で医師として活動する一方、日本に関する文物の収拾に熱心に取り組んだ。動植物の博物学的調査が有名だがそれだけではなく言語・地理・統治形態・歴史・宗教・芸術・学問など、その調査対象はおよそ万物に渡っている。鎖国の日本を今後の有望な市場として開拓しようとするオランダ本国の思惑と、シーボルト自身の学術的使命感が結び付いた結果であり、御禁制の日本地図を手に入れてそれが発覚する「シーボルト事件」もその中で起こっているわけだ。

 だが、もしオランダが日本への侵攻と植民地化を計画していて、シーボルトの調査もその一環だったとするなら、「シーボルト事件」の意味も全く違うものになるのではないだろうか? 二一世紀のオランダには「小国だが福祉の充実した、平和志向の豊かな先進国」のイメージしかない。が、かつては英国と並び称される海洋帝国で、この時代でもインドネシアを植民地として確保している、まごうことなき帝国主義国なのだ。今、日本と多少なりとも交流があるのはオランダしかないが、十年後二十年後はどうなっているか判らない。英米仏普露の列強がその食指を日本へと伸ばさんとするのは間違いなく、問題は時間だけだ。自分の縄張りと見なしている場所に列強が割り込んでくる前に、自国の植民地として確保するべき――そう考えても何の不思議もない。いや、考えない方が不自然なくらいだ。そしてその計画の第一歩としてシーボルトによる日本調査があったとするなら……

 オランダはナポレオンによって亡国の憂き目に遭い、独立を回復したのが一八一五年。その後はベルギーが分離独立して(一八三〇年)混乱と停滞に見舞われる。史実において日本侵攻が実行されなかったのはこのためだろう。だがそれは、たとえ計画倒れだったとしても、実行するかどうかは別問題だったとしても、計画自体がなかったことの根拠とはならなかった。

 逆に、疑う必要のない証拠が今、目の前にある。江戸城の見取り図だ。こんなもの、軍事作戦を目的として手に入れたとしか考えられないではないか! 日本地図なら「学術調査の行き過ぎ」でぎりぎり通るかもれしないが、これは完全にアウトである。持っているのが露見したら追放程度では済まされず――


「そうだ、こんなものを持っているって知られたなら……!」


 恐怖が達郎の心臓を締め上げ、物理的な胸の痛みを感じる。幕府がオランダに配慮し、シーボルトが処断されずに済む可能性はゼロではない。だがただの町人である達郎はどうなるのか? この時代人命にはろくに価値がなく、幕府はごく気軽に罪人を処刑している。たとえば鈴ヶ森処刑場では――達郎がタイムスリップして最初に行き着いた場所だが――運営された二二〇年の間にそこで処刑された罪人の数は十万とも二十万とも言われている。低い方の数字でも、一日に実に一・二五人を殺しているのだ。達郎がその死者の列に加わることになったとしても、少なくとも幕府の役人にそれを気にする人間は一人もいないことだろう。


「どうする、どうすればいい」


 焦燥はまるで腑を灼くかのようで、思考回路が空回りする。それでも達郎は必死に冷静さを保とうとし、何が最善かを考え抜いた。

 まず思いつく選択肢は、今すぐに奉行所なりに駆け込んで事実をありのままに、洗いざらいぶちまけることだ。極刑を免れようと思うならそれしかない。処罰されるとしても殺されるまでは行かないだろうし、運が良ければ逆に褒賞だってあるかもしれない。先々の展開を考えてもおそらくこれが最善だろう――それができるのであれば。

 問題は「どこに駆け込んでいいのか判らない」ことである。江戸の奉行所と言えば北町と南町があるわけだがTVの時代劇のように判りやすい看板が出ているわけではない。仮に場所が判ったとしても、いきなり飛び込んできた達郎を役人がまともに相手にするだろうか? 門前払いされればまだマシな方で、場合によってはシーボルトの共犯者と見なされて処刑されることもあるかもしれない。それなりの立場で話の判る士分が付き添ってくれれば最善なのだが、そんな人間に心当たりなどあるはずもなかった。「話が判る」という点では柳亭種彦以上の人物はいないだろうが、あいにく彼は無役なのだ。

 次に考えられるのは、この見取り図をシーボルトに突っ返してあとは一切関わりを断ち切ることだ。


「そもそもこれだって何かの手違いでここにあるんだろうし」


 こんな危険物を達郎や北斎に模写させよう、とはいくらシーボルトでも考えはしない。おそらくは登与助さんか誰かが間違えて持ち出したものと思われた。それなら、もしこの大失態に気付いたならシーボルトに知られる前に取り返そうとするのではないだろうか? そして何事もなかったかのように口をつぐむはずである。達郎はそれに乗っかればいいだけだ。そして後は「シーボルトに仕事を頼まれたが条件面で折り合わずに結局断った」と、知らぬ存ぜぬを決め込めばいい。

 最も現実的な最適解を見出した達郎は即座に行動を開始しようとし――もう日が暮れていることに気が付いた。今から長崎屋を訪問してもシーボルトや登与助に会えるか判らず、何より夜の江戸の町は一町ごとに木戸番で区切られて通り抜けができない。


「明日行くしかないか」


 その夜、達郎はほとんどろくに眠れないまま一夜を明かした。そして翌朝。

 朝一番、達郎は見取り図も「武器・武具図帖」も西洋画の画帳も桐箱にしまって風呂敷に包んで、それを背負う。襖に手をかけた瞬間、反対側からそれが開いた。達郎とお内が至近距離で向き合い、お互いがびっくりする。


「今、兄さんを訪ねて」


「ごめん、急いでいるから」


 達郎はお内の横をすり抜けるようにして表へと向かった。帳場までやってきた達郎は、だがそこで硬直する。店の中にいる一人の男――羽織袴に二本差しの侍だ。入ってこようとしたご用聞きは踵を返し、金七らは彼の目に留まらぬよう懸命に息をひそめている。


「お主が山崎屋平八……絵師の草生ル萌だな」


「さようでございます」


 達郎はその場に正座し、そう言って頭を下げるしかなかった。その侍は、年の頃は四〇代半ば。大柄で肉付きのよい、がっしりとした体格。目がぎょろりと大きいが愛嬌はかけらも感じられず、ただ冷酷に達郎を見据えている。その目はまるで一切の犯罪を見抜かんとする刑事のそれのようで、後ろ暗いところのある達郎は身の置き所のない思いを味わっていた。

 ……少しの時間を置き、達郎は奥の居間でその侍と二人で向き合っている。その侍が人払いを要求したので、商売の邪魔にならないよう二人で奥に移動したのだ。


「今、長崎屋に滞在しているオランダの商館長から仕事を頼まれたそうだな。どんな仕事だ?」


 どうやらこの侍は幕府の役人でオランダ人一行の行動を監視する担当らしいと、達郎は理解する。


「は、はい。頼まれたのは男女それぞれの一生を絵巻物のように絵にするというもので……」


 達郎は止まろうとしない汗を拭いながら説明する。平静を装うとするが土台無理な話であり、この役人も不審の思いを募らせているようだった。それは嫌ほど判っているが元はただの大学生で今はただの町人の達郎に、この極限の状況下で鉄面皮をかぶったままでいるなど、そもそも望むべくもない。


「それだけか? 他には?」


「……いえその」


「私が何の調べも付けずにここにいると思うのか」


 彼の口調は事務的なものだったがかえってそれが達郎の心臓を締め上げた。おそらくこの役人は料理人が魚をさばくように、事務的に達郎を処刑場へと送り込んでその日の夜にはそのことを忘れてしまうだろう。人間の、町人の生命など塵芥と同じと、その目が雄弁に物語っている。


「……ええっとですね」


 達郎は一世一代の賭けに出た。脇に置いていた風呂敷包みをほどき、その中の桐箱を開けて一番上の冊子を取り出す。


「この『武器・武具図帖』の模写を依頼されました。これは貴重な本だから模写したいと」


 それを受け取った役人は目を見張り、一枚一枚めくって中身を確認する。


「それと引き換えにこちらの西洋画帳を借り受けたのです」


 達郎は西洋画帳とその下の江戸城の見取り図をまとめて手に取り、開いて内容を示して見せた。「武器・武具図帖」に気を取られている様子のその侍は西洋画帳にはちらりと目を向けるだけである。画帳の下の見取り図にも気付かない……ように思われた。


「私ども絵師にとってこの画帳は千金にも値する宝物。これから北斎先生のところに行ってこの二つを模写しようとしていたところなのですが……」


「西洋の技法を手に入れんとするその心がけは絵師として当然のこと、また殊勝なことである」


 その役人の思いがけない発言に達郎は目を丸くした。恐縮です、と言う達郎に役人が「だが」と続け、「武器・武具図帖」を突き付けるようにしながら、


「これも長崎屋の商館長から借り受けたものなのだな」


「は、はい。正確にはシーボルトという医者から」


「これは紅葉山に納められているはずの一冊だ」


 紅葉山?と首を傾げる達郎だが、すぐにそれがどこかに思い当たった。紅葉山文庫と言えば江戸城内にある幕府の書庫のことで、膨大な量の貴重な書籍が収められている場所である。


「どうやってそんなものを……」


 心底から不思議そうにつぶやく達郎に、その役人も毒気を抜かれたような顔となった。だがそれも一瞬だ。


「この図帖を見れば、日本の兵がどんな武器を持っているのか、この旗印はどこの大名か、その人数は何人か、大将はどんな格好をしているのか、全て明らかとなるだろうな」


 その指摘に達郎もようやくその点に思い至った。この「武器・武具図帖」の模写は単なる学術調査ではない、これもまた軍事作戦を前提とした諜報活動の一つなのだ!


「お、恐れ入ります。私はただ絵師として仕事を頼まれただけで」


 達郎はその場に平伏する。この役人が今、この場で刀を振り下ろして達郎の刎ねるのではないか――そんな恐怖に大量の汗が滴り、畳を濡らした。


(大丈夫、大丈夫なはずだ。本来の時間軸で「武器・武具図帖」を模写した葛飾北斎は結局咎められなかった。身代わりになった川原慶賀だって大した処罰は……)


 あ、と顔を上げる達郎にその役人が不審の目を向ける。


「なんだ?」


「い、いえ。なんでも」


 別に大したことを思い出したわけではない。昨日山青堂にやってきてこれらの図帖を置いていった「川原さん」とは、シーボルトの記録係として知られた長崎の町絵師・川原慶賀のことに違いなかった。その川原慶賀と小間使いの登与助さんが同一人物かどうかまでは達郎の知識にはないが、今は


「と、ともかく今からすぐに長崎屋に行ってこれら全てをあの医者に返して」


「いや、ならぬ」


 その役人が言下に否定、達郎は固唾を呑み込んだ。


「それでは、今から奉行所に……」


 その問いにも彼は「いや」と首を横に振る。


「先ほどお主も言っていたであろう、『どうやって』と。それを調べるのが私の役目だ。それが終わるまではそれらはお主が預かっていろ」


「それはいつまで……」


「長くとも商館長の江戸参府が終わるまでのことだ」


 はあ、と曖昧な返答をする達郎。でも、と達郎は心底から安堵した。この分なら、この役人の調査に協力していればお叱りはあるとしても処罰されることはまずないだろう。


「そのうち人をよこす」


 その役人が山青堂を後にしようとし、達郎は店先まで出てそれを見送ろうとした。その帰り際、


「ああ、そうだ」


 と彼が思い出したように、


「――オランダ人から預かった書物はあの二つだけなのだな」


 何気ないその問いに、達郎は首筋に刃を押し当てられたような思いをした。


(どうする、どちらが正解だ? このまま黙っているか、それとも正直に言うべきか)


 達郎は逡巡し、決断を下せないでいる。長い時間迷い続け、その役人は辛抱強くそれを待つかのようだった。


「あ……あのですね」


 意を決して本当のことを言おうとした瞬間、それを狙ったかのようにその役人が背を向け、どんどんと遠ざかる。追いかけてまで白状するだけの勇気は持てず、結果として達郎は沈黙することを選択させられることとなった。

 精根使い果たした達郎が覚束ない足取りで店の中へと戻ってくる。兄さん、というお内の心配そうにな呼びかけにも応える気力を持たなかった。


「大丈夫、心配いらないから」


 それでもそんな気休めを口にし、お内を振り払うようにして物置に、自分の部屋に閉じこもる。一人になって即座に達郎はぶっ倒れた。ともかく今は何も考えたくなかった。可及的速やかに心と身体を休め、気力を取り戻すことが先決だった――問題は何一つ解決していないのだから。


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