第三〇回(文政六年一〇月)



「どうもどうも。お邪魔しますよ」


 馴れ馴れしい笑顔をぶら下げて山青堂に姿を現したのは、為永春水だ。店先でお内と訪問客が何やら悶着しているのを横目で見つつ、


「縁為亭未来先生はご在宅かな?」


 春水がそう問うたのは丁稚の少年で、彼は最近金吉から金七へと名を改めている。金七はちょっと困ったような顔で口を濁し、視線をわずかにお内の方へと向ける。釣られて春水もまたそちらへと目を向けた。


「兄も何かと忙しく弟子に物を教えているような時間はないと言っていますし、それでもどうしてもというのならやはりこのくらいは……」


「さすがにそれは無体だろう! 謝儀については出世払いで……」


 弾いた算盤を示すお内と、それに抗議する若い男。なるほど、押しかけ弟子か、と春水は理解する。その弟子志望者はさらに粘るがお内という鉄壁を崩すことは敵わず、肩を落として帰っていった。


「……はあ」


 と疲れたようにため息をつくお内。その後にようやく春水の存在に気付いたような顔をする。そこに達郎が少しだけ襖を開けて顔を覗かせた。


「もう帰ったかな」


 お邪魔していますよ、と春水が改めて挨拶をし、達郎が「どうも」と簡単に返す。お内は両腰に手を当て、見下ろすような目を達郎へと向けた。


「次からは自分で断ってくれませんか。わたしだって暇じゃないのに」


「いや、ごめん。恩に着るから」


 達郎はひたすら恐縮するしかない。


「やはり多いんですか? 今のような押しかけ弟子は」


「ええ。先日の『懸賞小説』がきっかけになったみたいでこのところ急に増えてきて」


 ときは文政六年一〇月。山青堂・青林堂・涌泉堂の三書肆合同企画「小説懸賞」が実施され、企画倒れで終わってしまったのは先月のことである。この企画のときに自筆の小説を携えた戯作者志望者が山青堂に殺到。企画が打ち切りになった今になっても小説の持ち込みが後を絶たず、また縁為亭未来への弟子入り希望者も現れている。


「絵の方ならともかく、物書きの方で弟子入りして何を教わることがあるっていうんでしょうね」


「いやあ、何かを教わるつもりで弟子入りするわけじゃないでしょう。師匠の後押しを得て本を出すこと、弟子入りの目的はそれ一つです」


 ああ、なるほど、と達郎は納得する。そう言えば井上ひさしの小説でもそんなことが書いてあったと指を順に折りつつ、


「ええと確か……戯作者になる方法は四つあって、まず一つは入銀先生。二つ目は有名な先生の後押しを得ること。三つ目は板元と縁を結ぶこと。四つ目は弟子が師匠の名号を襲って二世何某と名乗るやり方」


 一つ目の「入銀先生」とは書肆にお金を払って自分の本を出版してもらうやり方、二〇世紀・二一世紀なら「自費出版」と呼ばれる方法だ。読本ではないが鈴木牧之の「北越雪譜」はこれに該当しそうである。


「あたしなんかまさしく四つ目の口ですなぁ」


 と笑う春水。この時期「為永春水」なる者はまだ存在せず、戯作者としての彼は「二世南仙笑楚満人」として世に知られていた。


「曲亭馬琴は二つ目になるかな」


 曲亭馬琴は蔦屋重三郎の耕書堂に勤めていたことがあり、三つ目の要素もあるがそれよりずっと重要なのは山東京伝とのつながりの方である。山東京伝に弟子入りしようとして、弟子入りは断られたがその仕事を手伝うようになり、彼の後押しを得て戯作者としてデビューしたのだ。


「そして兄さんは三つ目ですか」


 そうなるかな、と頷く達郎。なお自分の人情本を自分の書肆で出版している春水も、ある意味三つ目と言えるかもしれなかった。


「何にしても、落語や歌舞伎ならともかく戯作者の名跡を継ぐのはなあ」


 例えば歌舞伎なら市川猿之助、中村勘九郎。落語なら林家正蔵、桂文枝。江戸時代から始まる名跡を二一世紀まで受け継いでいる例は数多い。だが歌舞伎や落語に限らず、名跡の継承は江戸時代ならごく一般的な慣習だったのだ。

 例えば池波正太郎の小説で有名な火付盗賊改長谷川平蔵の、父親の名は長谷川平蔵。子も、その子供もまた長谷川平蔵を名乗っていた。これは武家だけではなく農民や商家にも同様の事例が無数に存在する。何より誰より達郎自身が、山青堂の店主としては「山崎屋平八」という名を初代から引き継いで名乗っているのだ。

 後の時代に「襲名慣行」と呼ばれるこの習慣は社会が安定してきた一七世紀以降にほとんど無意識的に「そういうもの」として社会に定着したという。また実際的な意味としては、名前の襲用はその名前の人物が築き上げ、積み重ねてきた功績・信用の継承、あるいは人物にあやかろうとする意識が根源にある。より具体的には、百姓の源左衛門が代々源左衛門を称するのはその代々の地位・家産の継承者たることを襲名により他者に顕示・認識させる目的があるのである。

 襲名慣行は明治維新によって一般には廃れてしまったが歌舞伎界や落語界では生き残り、二一世紀まで受け継がれている。先に挙げた「林家正蔵」という名前は林家一門の最高位の名跡であり、これを名乗る者は一門を率いる地位にあることを、またその名に相応しいだけの実力・実績があることを世に示しているのである。

 そして戯作者もまた襲名慣行の例に漏れず、その名跡が引き継がれることがある。だが「二代目何某」という戯作者が大成した例が、果たして一つでもあるだろうか? 為永春水にしても、デビューは「二世南仙笑楚満人」としてでも、歴史に残したのは「為永春水」の名前である。「東海道中膝栗毛」と十返舎一九の名前は二一世紀に至っても非常によく知られている。特別読書好きでなくとも誰もがその名を一度は聞いたことがあるだろう。だがその二代目、三代目のことなど、一体誰が知っているだろうか? その作品どころか、ほとんどの人が「いたんだそんな人」と驚くに違いない。

 この差が何に由来するかといえば「その場限りの芸である落語や歌舞伎と違って戯作は形としてずっと残る」ということがあるだろう。ごく端的に言えば、落語や歌舞伎と違って、初代と同じ小説を書いて出版したところで誰も読みも買いもしないのだ。先人とは違うことをやる、違うものを書く必要があり、それが「名跡を引き継ぐ」というあり方と相性が悪いと言えるかもしれない。


「弟子を取ったところで教えることはありませんし、『縁為亭未来』の名を誰か譲るつもりもありませんし」


「仮に譲るとしても何十年も先のことでしょうし」


 お内の補足に達郎が頷く。春水もまた「なるほどなるほど」と大仰に頷きながら、


「それでは草生ル萌としては? これまで何人かに奥義を伝授しているでしょう」


 その問いに達郎は全く気が進まない響きで「うーん」と唸った。


「正直言って面倒です」


 ときっぱりばっさり、身も蓋もない物言いをする。


「先々ものになる、歴史に名を残すと判っている人ならともかく……」


 これまで萌え絵の奥義を伝授した相手は、葛飾北斎、葛飾応為、渓斎英泉、歌川国芳。奥義だろうと何だろうと喜んで伝授する……と言うよりはこちらから土下座してでも「後生ですからこれを知ってください」と懇願するべきメンバーだ。


「気持ちは判りますけどね。弟子入りをいちいち断るのも面倒なんですよ」


 お内の小言に達郎が気まずそうな顔となる。そこに春水が「ああ、それなら」と良案を得た顔をした。


「北斎先生が『北斎漫画』を出しているでしょう。ああいう絵手本を出したらどうですか?」


 その提案にお内は目を丸くして感心した。「北斎漫画」は文化一一年(一八一四年)に初編が刊行、完結編の第一五編刊行は実に明治一一年(一八七八年)。六四年もの年月に渡って出版され続けた、江戸時代のベストセラー・ロングセラーなのだ。「絵手本」とは絵の教科書のようなものだが、「北斎漫画」は北斎門下や他の絵師だけでなく一般庶民から大名まで広く読まれ、非常に人気が高かったという。また海外での評価も高く、一九世紀後半のジャポニズムを生み出す契機の一つとなったのだ。

 なお緒形拳主演で同名の映画が一九八一年に上映されているが正直言って……いや、そんな話はどうでもよかった。お内が目を銭色に輝かせて達郎へと詰め寄り、


「兄さん、描きましょう! 『萌え漫画』を!」


「萌え漫画て」


 つい呆れたように言ってしまう達郎だがお内はそれを一切気にしなかった。


「『北斎漫画』は売れに売れまくっている本です、うちでもああいう本を出さない手はないです!」


 と固めた拳を突き上げるお内。怪気炎を上げるお内に対して置いてきぼりの心境の達郎だが、


「兄さんならそれが描けますし、売れるに決まってるんですから!」


 お内が強引に執筆・刊行を決定事項としてしまう。だが、展開にちょっとついていけなかっただけで気乗りしないわけでは決してない。「萌え漫画」によって弟子入り志願者が少しでも減るのならむしろ望むところである。


「まあ、ちょっと考えてみようか」


 呟くようにそう言う達郎の脳内では、既に何を描くかのリストアップが始まっている。そんな達郎の横顔をお内は満足げに、また頼もしげに見つめていた。






 さて。まずは「北斎漫画」のことである。

 「北斎漫画」には人物だけでなく、動植物・風景・建物から妖怪幽霊まで、ありとあらゆるものが描かれている。実際に門人の臨本(手本)としても使われ、それを元絵とした浮世絵は数多い。また習画のためだけでなく眺めているだけで楽しめ、読みながら様々な知識を得ることもできたのだ。時代も洋の東西も問わず、高く評価されている北斎の画業の一つである。

 「北斎漫画」は文政二年(一八一九年)の第一〇編で一旦完結している。達郎はまずはその第一〇編までを手元にそろえ、じっくりと読んだ。元の時代でも復刊されたそれを見たことはあるが、北斎の同時代に和本のそれを読む……と改めて考えると感慨もひとしおである。そしてそこに描かれた全てのものに、讃嘆の想いを抱かずにはいられなかった。一日中眺めていても飽きないくらいだ。


「さすがにこれにはかなわないな」


 北斎に対抗しよう等という小賢しい考えは即座に捨て去り、自分にできることを考える。元々達郎は人物の描写には熱心だがそれ以外はわりとおざなりだ。元の時代で絵画を専門としていたわけではなく、限られたリソースを人物画だけに集中していた、とも言える。それに、達郎がこの時代で切り開いた浮世絵の新境地「萌え絵」は人物画の新しい形である。「北斎漫画」のように森羅万象の全てを描くことはできないし、その必要もない。描くべきは「人物画の絵手本」なのだ。


「絵手本……漫画の描き方と言えば、『サルでも描ける漫画教室』(相原コージ・竹熊健太郎)」


 一番参考にならない、参考にしてはならないものを思い出してしまった。達郎は頭を振ってそれを脳内から追いやる。いや、でも「サルまん」は漫画教室漫画のパロディだった。何も難しく考えることはない。

「普通に漫画教室漫画を描いたらいいんじゃ?」

 大枠の方向性が決まり、具体的に何を描くかもほぼ自動的に決定する。漫画教室漫画のフォーマットを使って萌え絵の描き方を解説していくのだ。


「まずは人物画、顔の描き方から……」


 輪郭のあたり線を描いて、顔の中に十字の線を描いて、目鼻を配置し――漫画家を志したわけでなくとも、漫画好きなら誰でもそういう人物画の描き方の解説を読んだことがあるだろう。達郎が描こうとしているのもそれである。さらには男と女の顔の違いを解説し、子供から大人、老人になるまでの推移を描いていく。

 次に説明するのは全身の描き方だ。骨格を意識した描き方を図解し、さらに男と女の違い、子供と大人の違いを解説する。

 そういった基本の次は応用である。顔であれば表情の描き方。同じ顔の喜怒哀楽をそれぞれ描き、さらに同じ「怒り」でもその度合いによる表情の違いを緻密に描写する。さらには人物のアクションを、着物を脱がせた状態の素描により判りやすく解説。また蹴りなどの見栄えのする動きを、アニメのコマ送りのように細かく分解して連続して描いた絵も載せた。


「うんうん。いい感じの絵手本になっている」


 「北斎漫画」でも人物の描写だけをここまで細かく解説などしておらず、「北斎漫画」とは棲み分けた需要が充分見込めることだろう。だが単なる解説だけでは面白くない。もっとお遊びの要素も必要だ。

 例えば人物画のデフォルメ。まず写真に近いくらいに緻密に顔を描き、それを段階的に簡略化。最終的には「丸かいてチョン」となる。

 例えば頭身のデフォルメ。人気作「祓い屋三神極楽始末帳」のキャラクターを題材とし、まずはリアル頭身のそれから始まってどんどんデフォルメを加えて、最後には二頭身のSD(スーパーデフォルメ)キャラとなる。

 あるいは動物の擬人化。まずは猫なりの動物そのものから始まり、ディズニーアニメのような動物の擬人化、ミュージカルの「キャッツ」のような人間の動物化、猫耳と尻尾が付いただけの萌えキャラと、段階を踏んだ擬人化を描いたもの。

 さらにはネットで見たことのある面白イラスト、「うんこ」という文字がだんだんと人の顔になっていく絵なども入れており、眺めるだけで笑える、楽しめるものとなっている。時間と労力はかけたがそれだけの内容を詰めた込んだつもりである。

 これなら妹さんも満足するだろう、と達郎は内心大威張りで描き上がった草稿の束をお内へと差し出した。例によってお内の横に左近が並び、二人同時にそれを読んでいく。

 左近が一枚一枚に大いに感心し、また時折吹き出したりするのは想定通りの反応だ。が、お内はただの一回も、くすりともしなかった。まるで紙面の裏まで見通そうとするかのように草稿の一枚ずつを見つめている。

 長い時間をかけてようやく全てを見終え、お内の真剣な眼差しが達郎を射抜いた。兄さん、と呼ばれて達郎は背筋を伸ばす。


「本当にこれを世に出すつもりなんですか?」


「はい?」


 達郎にはその問いの意味が理解できなかった。


「いや、そのつもりで描いたんだけど」


「世が世なら虎の巻にして一子相伝で伝授するべきものですよ、これ」


「世が世なら子供でも知っている内容だよ」


 達郎は苦笑してそう言う。実際それは二百年先なら奥義でも極意でも何でもない。いくらでも市販されている、ありふれた漫画教室漫画でしかなかった。


「それより問題はこれが売れるかどうかだけど」


 お内と左近が呆れたような目を達郎へと向け、達郎は首を傾げるばかりだった。


「そんな心配は無用です。それより兄さんはこれの第二編を描いていてください」


「この絵手本、書題はなんていうんですか?」


 左近にそれを問われ、「決めてなかった」と達郎はその場で考え込む。


「『萌え漫画』でいいんじゃないですか?」


 とお内が言い左近も頷くが、達郎は首肯しなかった。


「いや、さすがにそれは……『萌え漫画往来』でどうだろう」


 寺子屋などで使用される初級教科書が「往来物」と呼ばれており、それに因んだ命名である。もともと往復の手紙文を例文としたことから「往来」の名がつけられたという。また達郎的には英語の「All right」にもひっかけた名前だった。

 その名前にお内と左近にも異議はなく、「萌え漫画往来」と呼ばれる本の刊行準備が始まったのはそのとき、文政六年の年末。刊行は翌年九月のことだった。






 文政七年九月、西暦なら一八二四年一〇月、草生ル萌の「萌え漫画往来」が刊行。この本は即座に大評判となり、初版五百部がほんの数日で完売。今は追加の五百部を増刷しているところである。

 一般に対しては「ベストセラーとなり江戸中の話題を席巻した」の一言で済む話だが、この本が画壇に、浮世絵の業界に及ぼした衝撃に、達郎はあまりに無理解だった。


「裏太郎! 裏太郎はどこでい?!」


 山青堂に突然やってきて店先でそう怒鳴るのは、誰あろう葛飾北斎だ。その声に達郎がおっとり刀で奥から駆け出してくる。


「先生、何かあったんですか?」


「何かもくそもあるか!」


 罵声を上げながら北斎が達郎の頭を掴み、その髪を力任せにかき回す。さらにその背中を平手で何度もばんばんと叩き、達郎は目を白黒させた。


「この野郎、これで勝ったと思うなよ!」


 そんな捨て台詞を残し、肩を怒らせて大股で立ち去る北斎。達郎はぐしゃぐしゃとなった髪のまま、呆然とそれを見送るしかなかった。


「一体何だったんでしょうか」


 翌日、入れ替わりのように訪れた渓斎英泉に達郎がそう問い、英泉は困ったような顔となった。


「もしかして覚えのないところで何か先生に迷惑をかけるような真似を……」


「いや、それは気にしなくていい」


 英泉がまず断言し、それよりも、と続ける。


「今さらだが本当に良かったのか? こんな絵手本を出して。俺はこれを隅から隅まで読んで、くり返し真似をして、自分のものとするぞ。俺だけじゃない、これを読んだ大勢の絵師がそうすることだろう」


「どうぞどうぞ」


 そのために描いたんですから、と達郎は屈託なく言う。


「だがそれでお前を上回る絵師が……」


 達郎の不敵な笑みに英泉は言葉を途切れさせた。


「仮にそんな絵師が出てきたなら挿絵はその人に任せて俺は話を書くのに集中しますよ」


 達郎はそう言って肩をすくめる。もっともそれは、この時代の絵師がそう簡単に萌え絵の極意に至れるわけがない、という確信があっての言葉だが。


「また来ていますよ。そんな絵師になるかもしれない人が」


 いきなりお内が襖を開けて現れてそう報告。達郎は辟易した顔となり、


「俺はいないと……」


「嫌ですよ。自分で断ってください」


 つれない言葉に達郎がすがるような目を向けるがお内はそっぽを向いてしまう。達郎は途方に暮れた顔となった。

 昨年の「小説懸賞」の企画から約一年。戯作者志願者や弟子入り希望者の訪問もさすがにまれとなっていたのだが、ここ最近また急増しているのだ。今回の弟子入り希望者は絵師ばかりであり、その理由は言うまでもない。「萌え漫画往来」の影響である。


「弟子入りを断るために描いたはずなのに」


 そうため息をつく達郎に、お内は白けた目を向けるばかりだった。






「トヨスケ! トヨスケはどこだ!」


 一人の白人男性が「トヨスケ」という名前をくり返している。そこは日本で唯一ヨーロッパ人の滞在が許された場所、長崎出島、その商館。


「お呼びでしょうか」


 何度も呼ばれてようやくやってくる一人の男。年齢は三十前後で、この時代の日本人としてはごく普通の体格。だが堂々とした巨体のその白人男性の前に立つと、まるで大人と子供が並んでいるかのようだった。


「見ろ、これを見ろ! ようやく手に入れたぞ!」


 白人男性が登与助とよすけの胸へと一冊の本を突き付け、彼がそれを受け取ってぱらぱらとめくった。


「『ホクサイマンガ』も素晴らしかったがこの『モエマンガ』もまた素晴らしい! この絵はヨーロッパの絵により近い!」


 白人男性が手を振り回して熱弁するが登与助の耳にはほとんど入っていなかった。彼はその本に、その絵に心を奪われている。


「その絵を見て学べ、そしてそんな絵を……いや、違う。描いてほしいのはそんなウソの絵ではない。その絵はウソの絵だ、だが素晴らしい絵だ! その絵に、その本に学べ! そしてホンモノを描くのだ!」


 未だ拙い日本語だが言いたいことは把握する。要するに技術的な点だけ盗んで写実的な絵を描け、と言っているのだろう。言われるまでもない、と登与助は思う。その目は達郎の絵以外の何物も見ておらず、その手は無意識のうちに動き出している。


「一冊だけでは足りない。もう何冊か手に入れて本国に持ち帰らなければならない」


 登与助の姿に満足する彼は一方でそう決意を新たにする――彼の名前はフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト。史実において「北斎漫画」を最初に海外に紹介したヨーロッパ人である。




参考文献

浦上満「北斎漫画入門」文春新書

尾脇秀和「氏名の誕生~江戸時代の名前はなぜ消えたのか」ちくま新書

井上ひさし「戯作者銘々伝」ちくま文庫


【後書き】

31回からはまとまった話をやりたいと思います。まとめて書いてまとめて更新するために時間をもらいます。

どうか気長にお待ちください。

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