第二一回


 文政六年九月末の、ある日の山青堂。


「とにかく読めばいい! 読みさえすればこの本の価値は判るのだ!」


 山青堂に押しかけてきているのは四〇手前の、貧相な侍である。身なりは貧しく、おそらくは浪人なのだろう。ただその態度だけは非常に尊大であり、この手の連中に慣れてきた達郎も閉口した。


「小説懸賞のご応募ですよね。ひとまずお預かりしますが」


 と達郎は言うが、その貧乏侍は「今すぐ読め」と強硬な姿勢を崩さなかった。


「今すぐ読んで今日にでも刊行に取りかかるのが当然だろうが! この私がわざわざ足を運んでやったのだぞ! この私が!」


 誰だよお前、と言いたいところをぐっとこらえて、達郎は商人らしい笑顔となる。


「刊行するかどうかは吟味方の諸先生とよくよく拝読した上でご判断いたします」


「無礼な! この本が売れないと申すか!」


「どんなに良い本でも売れるかどうかはまた別の話です。私どもも今回の小説懸賞を商売としてやっております。刊行するのに選ぶのはあくまで売れる小説、売れる読本で……」


「所詮は町人にこの本の価値は判らん! だがこの本は世に残さねばならんのだ! この私と巡り合ったことを天命と思い、本の刊行は天下のためと思うがいい!」


 自分の都合と要求しか言わない侍に達郎は途方に暮れる。それでも彼は商人らしい笑顔で、だが毅然と、


「お引き取りください」


 それを拒絶した。


「私どももご飯を食べるために売れる本を出さねばならず、売れない本を出す余裕はありません。それに言われるように私どもは所詮町人、天命も天下国家も荷が重いというもの」


「ええい、この道理がなぜ判らん!」


 その侍が地団駄を踏み、店先に何人か集まっていた野次馬が失笑する。その侍は怒りの矛先をその野次馬へと向けた。


「何がおかしいか!」


 侍が腰の剣に手をかけて威嚇し、野次馬は逃げるよりもさらに彼を挑発した。


「お? やんのかこのどさんぴん!」


「抜けるもんなら抜いてみろよ、その竹光を!」


 武士には「斬捨御免」という特権があるが本当にそれを行使してしまうと奉行所への届け出等の後始末が極めて面倒であり、また斬り捨てる側の正当性が必ずしも認められるとは限らず、実際に行使された例はごく限られる。また町人もそれを判っていて、度胸試しや粋を気取って武士を挑発する者がいたという。

 それでも、計算や理性よりも一時の感情を優先させる者はいつの時代でもどこにでもいる。元々この侍は自己認識が誇大妄想的で、侮辱への耐性が非常に乏しかった。その侍が剣を抜き――


「やめておけ」


 柄を抑えてそれを押し止める一人の男。柳亭種彦だ。硬直したその侍を一旦置いておき、彼は野次馬へと鋭い視線を向ける。


「士分への愚弄がそうそう大目に見てもらえると思うな」


 野次馬は蜘蛛の子を散らすように逃げていき、店先には種彦とその侍だけが残された。


「さて。今回の小説懸賞に何か書いてきたのなら」


 種彦がそう言って手を差し出そうとするが、彼は自分の小説を抱え込んで逃げるように去っていく。いや、実際に逃げたのだ。町人の達郎には何を言われても耳を閉ざせばいいだけだが、たとえ小普請組でも扶持持ちが相手では分が悪いと判断したのだろう。


「……助かりました、高屋様。ありがとうございます」


「いや、私も冷や汗ものだったよ」


 心底安堵する達郎に対して種彦はおどけるように言うが、あるいはそれは本心かもしれなかった。柳亭種彦が武芸に秀でていた、という話は欠片も残っておらず、伝えられるのは「体力がなかった」とか「病気がちだった」という話ばかりである。

 種彦が山青堂へとやってきたのは午前中。その後三々五々と人が集まり、関係者全員が顔を揃えたのは昼過ぎのことだった。

 まず、午前中にあったひと騒動について達郎が一同に報告。


「またですか」


 と頭痛を堪える顔となるのはお内である。


「戯作者を志すのはそんなのばっかりなんですか」


「ばっかりとは言わないが、そんなのが多いですなぁ」


 と笑うのは為永春水だ。


「士分でも食うや食わずの者は数知れないからな」


 と他人事のように言うのは実は士分出身の渓斎英泉。柳亭種彦が肩をすくめて、


「絵と違って文を書くのに技術は要らない。この程度のものなら自分にも書ける、そう思う者も多いだろう」


「実際想像以上に多かったわけですがね」


 とため息をつくのは、丸顔の三十過ぎの男。赤ら顔で鼻も大きくまるでアンパンマンのようで、目は笑ったそれのまま固定されている。困ったときも悲しいときも常に笑顔のこの男の名は涌泉堂美濃屋甚三郎という。初対面で挨拶をしたときに達郎は「そのまんまやないかい」と突っ込みたくて仕方なかった。本来の歴史において美濃屋甚三郎は涌泉堂の倒産後に戯作者となるが、そのときの筆名が「美図垣笑顔」なのである。


「それでいてまともに読めるお話が一つもないのは予想外でした」


 というお内のまとめに一同はそろって疲れたような顔となった。山青堂の居間にいるこの六人は今回の「小説懸賞」の企画実行委員兼審査員と言うべきメンバーであり、集まったのは小説の審査のためだった。ただあまりにも不作で審査にまで至らないのが実情なのだが……


「これなんて内容以前の問題です」


 とお内は応募作の一つをぞんざいに投げ捨てた。


「これは日本の文字ですか? せめて読める字で書いてもらわないと吟味もできないでしょうに」


「読める字であっても誤字脱字があまりに多いのは……自分で推敲しなかったんでしょうかねぇ」


「これは一体、何が書きたかったのだ?」


「筆名だけはむやみに凝っておりますな。内容が伴っておりませんが」


「『祓い屋三神』を真似るのはともかく、あまりにもそのまま過ぎだろう。登場人物の名前を変えただけじゃないか」


「他人のふんどしで相撲を取って、それで一人前に『戯作者でござい』ってつもりなんでしょうかねぇ」


「これとか『自分なら八犬伝をこう書く』って内容を延々と書き連ねているだけで、お話にも何にもなっていないです」


「こういうのを考えるのが楽しいのは判りますがね。読んで面白いのか、まで考えが至らないんでしょうか?」


 一同が応募作をこき下ろす中で達郎だけは、


「……どうしたんですか? 兄さん」


 流れ弾を一身に食らって部屋の片隅で失意体前屈となっている。達郎は「何でもない」とごまかし一同の輪へと戻った。


「ええと、今回は皆様にお手数ばかりおかけして実りのない結果となってしまって申し訳ないと言いますか……」


「一番面倒な目に遭っているのは山青堂うちなんですけどね」


 お内の愚痴に達郎は「面目ない」と恐縮した。


「確かにうちにはお話のようなおかしな手合いは押しかけてきませんな」


 と美濃屋甚三郎。春水が相槌を打ち、


「どうせ本を出すなら名の通った山青堂で、と誰もが考えるのでしょうな」


達郎はうんざりとした顔となり「ともかく募集は打ち切ります」と明言した。


「次の『祓い屋三神』にその広告を載せるとして……」


「ああ。それでも押しかけてくるような連中には青林堂うちを紹介してください」


 と春水が言い出し、達郎が「いいんですか?」と問い返した。


「構いやしませんよ。為永連にも入り銀先生は何人もいます。


『これは商売抜きでやります。最低限の必要経費さえ出してもらえるなら先生の作品を世に問えるんですよ!』


 ……なんて言えば、自惚れが強い奴ほど簡単に財布のひもを緩めますな!」


 春水はそう言って悪辣に笑い、「これとこれなんかが良さそうです」と応募者の何人かに目星を付けている。それが真っ当な出版者としてか、それとも自費出版商法の商売人としてかは……いや、いずれにしても達郎には関わりないことだ。


「入選作なし、佳作も努力賞もなし、で終わったか。それはちゃんと記載しないといけないけど」


 それは企画の失敗を公言するようなもので、体裁の良い話ではなかった。が、お内は「仕方ないでしょう」と冷たく言い捨てるばかりだ。


「出版に値するお話が集まらなかっただけのことです。それでも文句を言ってくる連中にはこう言ってやればいいんです。


『七兵伝より面白い話を書いてこい』


 ――って」


 達郎は目を瞬かせ、気の抜けたような吐息を漏らした。


「……まあ、今回は入選には至りませんでしたが将来性を感じさせるものもありましたよ」


 と美濃屋甚三郎が応募作の一つを取り上げる。どれですか?と訊ねるお内に彼がそれを手渡し、


「……あれ?」


 その応募作をぱらぱらと見、お内があることに気が付いた。


「金吉、金吉はいないの?」


 店の奥へと、丁稚の名を呼ぶお内。呼ばれた金吉はすぐに現れ、


「な、なんでしょうか」


 叱られることを覚悟した顔をお内へと向けた。お内はその応募作を示し、


「これ、あなたの字でしょう」


「は、はい。申し訳ございません」


 金吉はその場に平伏し、達郎が「別に怒っているわけじゃない」とその誤解を解いた。


「美濃屋さんは褒めてたぞ。将来性があるって」


「本当ですか?!」


 と顔を輝かす金吉に対し、美濃屋甚三郎は「このままでは本にはできませんがね」とまず釘を刺した。


「内容は悪くないと思うんですよ。ただ、これって『自来也説話』そのままでしょう? 今さら類板扱いされるとは思いませんが、感心はされんでしょうな」


 「自来也説話」は文化三年(一八〇六年)より刊行の読本で、作者は感和亭鬼武。主人公は蝦蟇の妖術と忍術を使う義賊で、盗みに入った屋敷の壁などに「自ら来る也」と書き残すことから「自来也」と呼ばれている。天竺徳兵衛以降、「蝦蟇の妖術」が悪役の使う技として定着するが、それを善玉の術として転換させたのがこの自来也である。

 その応募作を手に取った英泉が、


「『自来也説話』の新作か。登場人物や設定を借りただけならその辺を改めて書き直すのはどうだ?」


 要するに金吉が書いたのは「自来也説話」の二次創作ということだ。金吉は「うーん」と唸っている。


「ですが内容が『自来也説話』を真似たものだってことはすぐに判ることですし……」


「真似も感化されるのもよくあることでしょう。ですがそのままでは何か悶着が起きかねません。そうですな、主人公の名前の漢字を変えるとか……」


 と美濃屋甚三郎。達郎は目の前の展開に硬直しており、


「どうしたんですか? 兄さん」


「い、いや!」


 不思議そうなお内の問いについ過剰反応し、一同の注目を集めてしまった。一二の目に見つめられた達郎は何とかごまかそうとし、


「……ええっとですね。自来也の元ネタは宋の『諧史』に記されたある盗賊の話なんです。彼は盗みに入った屋敷の壁などに『我来たる也』と書き残したことから『我来也』と呼ばれたと言います」


 と二一世紀で仕入れた雑学を披露する。一同は「ほう」と感心した。


「じゃあ感和亭鬼武はそれを元に『自来也』を作ったと。初めて知りました!」


 と金吉は特に強く反応している。


「つまりは、要するに、『僕のヒーローアカデミア』(堀越耕平)のオールマイトのキメ台詞『私が来た!』です」


 と付け加えるが、それを理解できた人間はこの場には一人もいなかった。


「なるほど、我来也か。原点に返ってそれを主人公の名前にしてもいいかもしれませんな」


 と美濃屋甚三郎。達郎は「あれ?」と首を傾げた。


「『我来たる也』で我来也で、『自ら来たる也』で自来也なら、『馬で来たる也』で馬来也なんてのはどうでしょう?」


 とふざけて言う春水。一同それで興に乗ってしまった。


「それなら『美しく来る也』で美来也とか」


「『義によって来る也』で義来也とかどうだ?」


 そして達郎がまとめるように――つい口を滑らせて。


「五人そろってゴライヤー!……とか」


 それだ!と声を揃えたのは美濃屋甚三郎と英泉と金吉である。達郎は自分の失言に冷や汗を流すがもう遅かった。


「五人組の義賊って面白いじゃありませんか! なんかこう、むくむくとお話が頭の中で出来上がっていきますよ!」


「いや、最初から五人組となっているよりも初めのうちはそれぞれ敵対していた方がいい」


「そうですね! それに一人くらいは女の人もほしいです」


 美濃屋甚三郎と英泉と金吉の三人が活発に討議して「ゴライヤー」の話を組み立てていく。「自来也の漢字を変えて」なんて話はもう頭に残っていないだろう。

 ――美濃屋甚三郎改め美図垣笑顔が天保一〇年(一八三九年)から刊行した「児雷也豪傑譚」。このシリーズは作者を交替しながら明治まで続き、明治以降も講談や映画として人気を博し、さらにその後のエンタメにも「ジライヤ」の名前が使われる等、後世に大きな影響を与えた作品である。大百日鬘というリーゼントみたいな髪型でド派手な着物の男が巻物を咥えて蝦蟇の背に乗っている絵を、多分誰もが一度は目にしたことがあるだろう。彼が児雷也だ……が、その存在は達郎のせいで今、歴史の闇に葬られようとしていた。


「いや、この子は見所があるねぇ」


 と美濃屋甚三郎が金吉を指して言う。


「今すぐは無理としてもいずれはうちで本を書いてもらいましょうかね」


「はい、そのときはぜひよろしくお願いします!」


「でも戯作者になるにはちゃんと勉強をした方がいい。縁為亭未来先生に弟子入りするか?」


 英泉の言葉に金吉は「いや……」と非常に微妙そうな顔となった。


「あいにく俺は弟子を取るつもりはありませんので」


 達郎が助け舟を出すように言うがお内の機嫌が傾げていくのが感じられる。金吉は慌てて、


「いや、すごい人だとは思ってるんですよ! 俺、今から『金七』って名乗ります! 今度出す七兵伝に因んで!」


 ん?と首を傾げる達郎。金吉改め金七は柳亭種彦へと向き直った。


「あの、俺前々から柳亭門下に入りたいって思っていて」


「まあ、今すぐではないが先々に弟子とするのはやぶさかではない」


「名前はなんとしますか?」


「そうだな……種員たねかずとかはどうだ?」


「お前かー!!」


 いきなり立ち上がって絶叫する達郎に一同が唖然とする。我に返った達郎が「なんでもないです」とごまかそうとするがどうにもごまかしようがなく、その場は微妙な空気となってしまった。

 ――本来の歴史において「児雷也豪傑譚」シリーズは四代にわたって作者を交替しながら明治まで続くことになる。美図垣笑顔の次の、二代目作者は渓斎英泉。その次の三代目は柳亭種彦の弟子の一人、柳下亭種員。なお柳下亭種員が潰れる前の山青堂で丁稚をしていた等という話はどんな資料をひっくり返そうと一文字たりとも残っておらず、タイムスリップして初めて知り得た新事実であることは言うまでもない。


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