第一四回


 文政五年六月の終わり。達郎はお内と二人で江戸の町を歩いている。夏の日差しにお内は辟易した様子だが達郎は平静のままだ。


「兄さんは夏が好きなんですね」


「そうですね。愛していると言ってもいいですね」


 いつもの軽口を返す達郎。


「冬が来るくらいならずっと夏のままでいいと思います」


「さすがに夏のままは勘弁ですが……」


 重い風呂敷包みを背負って歩くこと半時間足らず。やってきたのは御徒町の一角の武家屋敷だ。その屋敷に木戸口から入った二人は庭へと通される。屋敷の主人は縁側に座り、二人を待っていた様子だった。


「済まないな、呼び出したりして」


「いえ、とんでもない」


 二人の前にいるのは柳亭種彦であり、そこは彼の屋敷だ。山青堂ならともかく彼の武家屋敷では身分差を明確にする必要があり、二人はそのまま庭先で彼と商談をした。


「こちらがご所望の本となります」


 達郎が縁側で風呂敷包みを解き、「うむ」と頷く種彦がそれを確認する。そこに積み上げられたのは「源氏物語」「首書源氏物語」「湖月抄」等、源氏物語とその解説本の類である。

 元々山崎屋平八は貸本屋を出発点としており、板元となった今でも古くからの馴染の客には本を貸すことがある。これから山青堂で仕事をしてもらおうという柳亭種彦の依頼なら二つ返事でそれに応えるのが当然であり、


「源氏物語に関する本で、今うちにあったのはそれだけです。でも他の本をご所望なら知り合いをあたって集めてきますので」


「あ、ああ。それは助かる」


 いつになく商売熱心な達郎に種彦は押され気味だ。助け舟を出すようにお内が訊ねた。


「新作の合巻は源氏物語を題材に?」


「まだぼんやりと考えているだけだがね」


「その本は是非うちで、山青堂で!!」


 達郎が飛びつくように種彦に顔を寄せ、種彦はその分のけぞった。


「うちがそれを出します! 潤筆料も他の倍、いや三倍出しますから、絶対にうちで!」


 ちょっと兄さん、とお内が口を挟もうとするが、そんなことでは止まらない。


「いいから! この話を逃したら妹さん絶対に死ぬほど後悔するから!」


 今度はお内の両肩を掴んで強く揺すり、お内は目を白黒させた。


「……まあ、今他の仕事も抱えているし、これに取りかかれるのはおそらく何年も先になるが」


「それでも構いませんから!」


 達郎の気迫に圧された種彦は「……それでもいいのなら」と呟くように言い、


「本当ですね! 絶対ですよ、約束ですよ!」


 くり返し念押しし、半ば無理矢理種彦を頷かせる。承諾を得た達郎は「よし!」と飛び上がり、そのまま踊り出そうな勢いだ。お内と種彦は呆然とするしかない。

 ――柳亭種彦と源氏物語の組み合わせと言えば、彼の代表作「偐紫田舎源氏」以外にあり得なかった。文政一二年(一八二九年)より刊行されたこの本は売れに売れて発行部数は一万部以上、江戸時代最大のベストセラーとさえ言われている。本来の歴史での板元は仙鶴堂鶴屋喜右衛門、その時点でとっくに潰れていた山青堂ではもちろんない。


「ああでも内容には注意する必要があります。光源氏やそれに似た人物を主人公にしたら、今の大樹(将軍)を揶揄したとか言いがかりをつけられるかもしれません」


 本来の歴史では実際にそれが起こっている。第一一代将軍徳川家斉は幕政を側近に任せきりにして大奥に入り浸って漁色に耽溺し、作った子供の数は五十人以上。「オットセイ将軍」とか「種馬公方」などと呼ばれ、揶揄されていた。家斉の大奥では「『田舎源氏』の主人公は今の上様だ」と隠れ読む女中が多かったという。

 そして家斉の死の直後から、それを待っていたかのように天保の改革が始まり、綱紀粛正の嵐の中で「偐紫田舎源氏」は絶版の憂き目に遭うのである。確かにそうだな、と種彦も頷き、「そうだ」と何かを思いついた素振りをした。


「そのつながりで、同輩の同輩から聞いた話を聞かせてやろう」


「話?」


 首を傾げる二人に対して種彦がわずかに笑った。


「先日山青堂が遊女の錦絵を出して大評判となっただろう。『風紀を乱す』と、あの絵があるうるさい奴の目に留まったらしい」


 達郎とお内がそろって血の気を引かせるが、種彦は笑ったままだ。

 ――耕書堂蔦屋重三郎の名はこれまで何度か出しているが、彼もまた山崎屋平八と同じように貸本屋から身を立てて板元となった書肆である。山東京伝をはじめとする人気作者の本を刊行し、また喜多川歌麿や東洲斎写楽の浮世絵を企画し、世に出している。また若い頃の曲亭馬琴や十返舎一九が耕書堂で働き、蔦重の世話になっていたという。単に人気の本や浮世絵を刊行した大手書肆というだけでなく、この時代の文化史上でも独特の存在感を放った重要人物なのである。

 その蔦重は寛政の改革時に、出版した本が風紀を乱したとして身代半減――財産の半分没収という厳罰を受けたことがある。またそれと前後して耕書堂から出版された黄表紙本の何冊かが幕政批判を咎められて絶版処分となっている。その作者の一人の恋川春町は小島藩の藩政にも参与する高官だったが、この筆禍事件を受けて隠居し、まもなく病死。家や藩に迷惑をかけないよう自死を選んだ、とする説もある。

 恋川春町が亡くなったのは寛政元年(一七八九年)。三十年以上前のことだが、種彦がその名もその顛末も知らないはずがない。同じ人気作者として、同じ士分として、その運命に無関心でいられるはずがない。おそらく彼はアンテナを張り巡らせて幕府の言論統制の動きに神経をとがらせており、今回の話もその情報網に引っかかったものなのだろう。

 また達郎やお内にとっても蔦重の受けた弾圧は決して他人事ではなく、何としてでも避けなければならないものだった。特に身代半減など、そんな目に遭ったならお内は間違いなく憤死する。


「……近いうちにお叱りがあると?」


「いや、それはない」


 と種彦は断言した。


「そんな話も出ていたがそれを止めさせた方がいる。吉原風邪のために江戸の町は灯が消えたような有様だ、下々が遊女の絵に浮かれて景気が良くなるなら大目に見るべきではないか……と」


 ケインズ流の有効需要の拡大、という発想はこの時代にはあり得ないが、鋭い為政者なら感覚的にそれに近いことを体得していても不思議はない。市民の経済活動が活発となれば景気が良くなって失業が減り、社会不安がそれだけ低減するのだと。


「ついには大樹が『余計なことはしなくていい』と裁定を下された。それが覆されるのはあり得ない」


 お内は胸を撫で下ろし、達郎は内心で「徳川家斉が……」と呟いた。

 徳川家斉は政治には無関心だったが、それでも吉原風邪の蔓延を憂慮せずにはいられなかっただろう。儒教思想では天災や疫病の流行は為政者の不徳が原因と考えられている。日本にもその思想の影響があり、またパンデミックによる直接的な社会不安もあり、幕政に対する不信や不満は高まっていたはずである。その中で風紀の引き締めを図るのは庶民の不満を高めるだけで意味がない、と判断したのではないだろうか。

 しかし、徹底的な風紀粛正が強行される「天保の改革」はずっと先の話だ。それを主導したメンバーの中で今江戸にいるのは、


「……鳥居耀蔵」


「なんだ、知っていたのか」


 我知らずのうちに口からこぼれ出たその名前に種彦がそう言い、達郎は「はい?」と問い返した。


「うるさい奴の名前だよ」


 種彦は笑うが極限まで血の気の引いた達郎は倒れる寸前だ。


「な……名前を耳にしたことがあるだけです。大樹の側近で、風紀には非常に厳しい方だと」


「そうだな。私もあれがいなくなったと聞いてせいせいしている」


 本当にさっぱりした顔の種彦に対し、達郎は「……はい?」と大きく首を傾げた。


「いなくなったとは……」


「冬の吉原風邪の最中だ。手拭で口を覆うのが町人の間で流行ったが、『それで風邪を防げるのなら』と士分でも真似をする者が少なくなかった。が、それがあれの逆鱗に触れたのだ。『武士にあるまじき振る舞い』と」


 手洗い・マスクは最新の蘭学に基づく風邪予防、で押し通したことを思い出す。鳥居耀蔵と言えば蛮社の獄を主導した、大の蘭学嫌いとして知られている。マスクに対する強い拒絶反応は、それに蘭学が関わっているから、というのも理由の一つなのだろう。


「無理矢理口元を覆うのを止めさせたが、吉原風邪で死んだ者は士分や城内にも少なくはなかった。多くの者があれに恨みを持ち、白眼視していた……という背景がまずある」


 達郎は「はい」と相槌を打つ。マスクをしていれば死なずに済んだ、とは限らない。だが流行病で家族や同輩を喪った、やり場のない怒りの矛先が鳥居耀蔵に向けられるのも無理のないことだった。


「その上で、今回のやり合いだ。自分の主張を退けられたあれは大樹を逆恨みした。お世継ぎ様に接近して、代替わりしたあかつきには、等と言い出したのだ」


 ああ、それは、と達郎が感嘆する。それは今の将軍の死を望んでいるも同然であり、


「切腹を命じられてもおかしくはない……」


「そこまでは行かなかったがね。大樹は寛容な方だし、騒ぎを大きくせずになるべく内々で済ませたかったのだろう」


 結局処分は、肥後人吉藩預かりの蟄居、つまりは幽閉だ。もうこの先一生、日の目を見ることはないだろう。こうなると天保の改革はどうなるのか? この時期の水野忠邦は、


「浜松藩の殿様で、確か寺社奉行兼任の……」


「水野左近将監殿か? あの方なら吉原風邪でとうに亡くなっているよ」






 夕暮れの中、達郎は江戸の町を歩いている。柳亭種彦の新作の出版権を勝ち取ったときのはしゃぎようが嘘のように、達郎は沈黙したまま歩いていた。お内は数歩後ろからその背中を見守っている。意気消沈……に似ているがやや違う。何かの考えに囚われて他に気が回らない様子だった。

 実際、達郎はある一つの考えに取り憑かれている。夜、布団に入って横になってもそれが頭から離れない。

 ――歴史が変わっていく。

 何を今さら、という気もなくはない。山青堂を倒産から救ったり、この時代に萌え絵を持ち込んだりと、達郎は自分の意志と行動でもう歴史を書き換えているのだから。が、それは文化面での影響に過ぎない。教科書レベルでの歴史改変がここまで明確となったのは今日が初めてなのだ。

 主導者たる水野忠邦がインフルエンザで死に、天保の改革はもう歴史通りには進まない。そもそも起こるかどうかも定かではない。もしそれがなかったなら歴史はどうなるのか? 天保の改革の失敗は幕威をさらに低下させ、明治維新の背景の一つとなった。それがなければ明治維新は起こらないのだろうか? あるいは幕府が権威を保ち続け、討幕派と勢力を拮抗させてそのまま内戦となる、とか……。

 そもそも吉原風邪の大流行の時点で歴史は否応もなく書き換わっているのだ。幕末維新で活躍する討幕派・佐幕派(及びその親)の中に吉原風邪の犠牲者がいても何の不思議もない。例えば近藤勇は天保五年(一八三四年)、土方歳三は天保六年(一八三五年)生まれ。彼等はまだ生まれてもいないが、あるいはその父親や母親が吉原風邪で死んでいるかもしれない。または本人が風邪で死なずとも親兄弟の死が影響して本来の歴史通りの縁談が結ばれず、近藤勇も土方歳三も最初からこの世に生まれないかもしれない。

 もしそうなった場合、幕末維新史はどうなるのか? 新選組が存在しなければ池田屋事件が起こらず、さらにそれを原因とした長州征伐も起こらず、幕府軍が後退して幕威を地の底に落とすこともなく、薩長同盟も成立せず、明治維新も起こらず……

 もちろん、大筋としては本来の歴史通りとなる可能性が一番高い。幕威の低下も諸外国の脅威も、何をしようとまず絶対に変えられない前提条件であり、それがある以上幕藩体制を一新して諸外国の脅威に備えるのは必須なのだから。ただ、それが本来の歴史通りに比較的少ない犠牲で達成できるとは限らず、必ず成功するとも断言できない。中国や朝鮮のように長々と内紛が続き、列強によって半植民地とされてしまうことだって充分あり得る未来の一つなのだ。

 仮に大筋に変更はなくとも、細かい点での変更はもう修復不能である。吉原風邪により多数の犠牲者が出、本来の歴史で生まれるべき人間が生まれなくなる。また、その埋め合わせをするために本来の歴史で生まれなかった人間が生まれてくる。最初は小さな差異でもそのずれは次第に大きくなっていく。百年を経て、二百年後には達郎の知っている同時代人は一人も存在しなくなっているかもしれない。仮に今、達郎が二〇二二年に帰還できたとしても、それは達郎の知る「現代ミライ」ではないのである。


「つまりは俺の知っている未来はもう全部消え去っているんだよな。手塚治虫、藤子不二雄、横山光輝、永井豪、石ノ森章太郎、宮崎駿、富野由悠季、押井守、庵野秀明、那須きのこ、虚淵玄、吾峠呼世晴……もう誰も、一人も生まれてこない」


 そして彼等が生み出した漫画も、アニメも、ゲームも、歴史改変の陰に消えもう生まれてくることはない――いや、完全に消えたわけではない。その残照は今、ここにある。達郎の記憶の中に。


「それをもう一度、この世界に送り出す。たとえどれだけ不完全な形であっても」


 それが歴史を変えてしまった俺の、未来に対する責任だと思うから――


「……よし、理論武装終わり」


 と、ここまでの九九・八九パーセントは単なる建前だ。実際の本音は、


「健康で文化的な、最低限度の生活を……!」


 つまるところ、それがほとんど全てだった。この時代の庶民としては決して悪くない生活水準の達郎だが、それでも二一世紀のそれとは比較にもならない。逆立ちしたってそこまで手が届くはずもないが、それでも先立つものがあれば今よりも大分マシな生活が送れるのだ。そして、その金を稼ぐ手段が頭の中にある。それをできる立場にあり、ホームレス同然だった達郎を助けてくれたお内や左近、山青堂の面々への恩返しにもなる。本来の著作権者はもう来たり得ない未来の彼方の存在、誰に迷惑をかけるわけでもない――それを選ばない理由が何かあるだろうか?


「本を書きたいと思います、八犬伝よりも面白いものを。打倒曲亭馬琴です!」


 達郎がお内と左近の二人に対し、高らかに宣言したのは翌日のことである。






参考文献

岡崎守恭「遊王 徳川家斉」文春新書(Kindle版)

今田洋三「江戸の本屋さん―近世文化史の側面(NHKブックス 299)」日本放送出版協会

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