焔の獣と移譲の御子2/3(短編として移植済み)

「この時間なら、まだコダルトは起きていないはず……」


 翌朝、わたしは誰にも見つからないように誰よりも早く起きて、家を抜け出した。

 雪がすっかり溶けて、昼の日差しも暖かだけれど、太陽が昇りきる前は空気も冷たくて、吐く息は少しだけ白い。

 きっと、森に行くなんて言ったら心配性なコダルトはわたしを止めるだろうから……。

 大角鹿トナカイが寝ている納屋へ向かうと、見張り番の夫妻がこちらに気が付いた。あやしまれないように、顔にはめいっぱいの笑顔を浮かべながら二人へ近付いていく。


「おはよう! 今日は神殿に捧げ物を持っていきたくて……。ミルクをもらえないかしら?」


「カヤールちゃん、こんな朝早くから精が出るねぇ。いいよ、そこの壷を持って行きなさい」


 人の良さそうな笑みを浮かべた老婦人は、なんの疑いを持つこともなくミルクが入った壷を指差してくれた。

 ミルクはこの時期毎日絞らないといけないらしい。飲めない分はチーズなどに加工するのだけれど、余ってしまったら捨てなければいけないから、結構簡単にわけてくれることを知っていた。

 さすがに、壷をまるまる一つ分ももらえるとは思わなかったけれど。

 両腕を捲って「よいしょ」と壷をもちあげると、老婦人の隣で座っていた旦那さんの方がこちらを心配そうに見ている。


「あんたの細腕じゃあ重い物を持つのは大変だろう? じいやが手伝ってやろうか?」


「ううん、大丈夫。ありがとう」


 それだけいって、わたしはそそくさと森へ向かった。

 コダルトはまだ起きてきていないみたい。今のうちに森へ行ってしまおう。

 昨日の場所に、あの獣はいてくれるのだろうか。

 夕暮れに見たあの毛皮も綺麗だったけれど、朝の柔らかい光に照らされたあの獣の毛皮はもっともっと綺麗なんだろうな……そう思うと、少し重いミルク入りの壷を持っていても足取りは軽くなる。

 壷の上に被せてある蓋は、あの獣がミルクを飲むときの器として使えそうだし、今日はとってもついてる日みたい。

 どんなことを話そう。わたしの名前を話して……それから……爪も返す? でも、返しても迷惑かな? あと、名前があるなら聞いてみようかな。教えてくれるかな?

 森に入ってから、そんなとりとめもないことを考えていると森の中を歩く大きな赤い影が見えた。

 昨日の獣が、急に立ち止まったあとにその場でごろりと横たわりはじめたので、わたしは慌てて声をかける。


「よかった。まだ森にいてくれたのね」


 獣は何も答えないけれど、わたしを避けるわけでもなさそうだったので、そのまま駆け寄った。

 それから、ほんの少し勇気を出して壷を置いた後に、獣の濡れた鼻先に手を伸ばしてみた。

 一瞬、目を見開いた獣だったけれど、わたしが気にしないで鼻を撫でた後に頭もわしわしと撫でると、呆れた様に溜め息を吐いてから、目をゆっくりと閉じる。それが心地良さそうだったのでホッとしながら、体を離し今日の用件を伝えることにした。 


「昨日のお礼に、ミルクを持ってきたの」


 蓋代わりに被せていた浅い容器を獣の目の前に置いて、壷をもう一度持ち上げる。

 こぼさないように徐々に壷を傾けながら、器の中をミルクで満たす。

 まだ朝は肌寒いというのに、体が熱くなって額にポツポツと汗が浮かんでいるのがわかる。

 訝しげな様子でわたしとミルク入りの器と女性を見比べてい獣だったけれど、お腹が空いていたみたい。獣は服の袖で額の汗を拭っているわたしを上目遣いで見ながらも、おとなしくミルクに口をつけた。

 あっというまに、器を空にした獣が急にこちらに近付いてくる。スッと長い鼻先がわたしの左頬を掠めて、ふわふわした自慢の髪の内側へ入って行った。

 そこで止まるかと思ったら、背中の方に、獣の体が通り抜けていって、右肩に獣の顎がそっと乗せられる。ふわりと温かくて太陽と小麦の匂いで包まれて、なんだか夏に干し草の中で寝転んでいるみたいな気持ちになる。

 肩に体重を少しかけられたせいで尻餅をついてしまいそうになったけれど、お尻の下にはふわふわでしっかりとした大きな尾が待ち構えていた。

 まるで、抱きしめられているみたい。


「……俺が怖くないのか?」


 そんなことを思っていると、耳元で低くて柔らかい声がそっと聞こえてくる。

 こんな大きくて強そうな獣から放たれているとは思えないくらい、気弱そうな響きの声で、思わず笑い声が漏れてしまう。


「全然。あなた、私に噛み付いたりしてこなかったし、こうしてお話できるんだもの」


 獣は、わたしの頬に濡れた鼻を押し付けてきた。冷たくて、でも嫌な気持ちはしない。

 こうして体をくっつけてくれているのなら、わたしのことを嫌ったり、避けたりしたいわけでは無いはず。

 少し深めに息を吸ってから、真っ赤に燃える大きな瞳を見つめると獣は「どうした?」と首を傾げた。


「あのね、わたしは、カヤール。この村と神を繋げる御子の一族よ。あなたのお名前は?」


「……ヤフタレク。炎を司る神の獣だ」


 しばらく考え込むように黙ったあと、ヤフタレクと名乗った獣はそう答えてくれた。あまり聞いた響きのない言葉で、遠くから来たのらしいことだけがわかる。

 それに……。


「……神の?」


「……あんたが繋がっている神とは、多分ちがう。俺の言う神は、俺の父や先祖のことだから」


 どことなく言いにくそうにそう話すと、ヤフタレクはわたしから少し視線を逸らす。それがなんだか可愛らしくて、思わず腕を伸ばして彼の狭い額をそっと撫でた。


「もしかして、あなた……とっても神聖な獣さんだったのね」


「すごくは……ない。故郷から離れた今の俺には、悪心に満ちた同族を殺す役目しかない。ただの獣以下だ」


「同族って? あなたみたいなすごい獣がたくさんいるの?」


 少しだけ声が上擦ってしまったのかもしれない。今こうしてそばにいてくれる温かな獣は、わたしに対して一切敵意を感じないけれど”悪心に満ちた”ということは、昨日出会った黒いお化けのように、わたしや、他の人たちに危害を加えるということだろうと予想がついてしまったから。


「昨日……、ちょうどあんたと会う前に……最後の同族を殺したところだ。これで俺の役目も終わった」


 ホッとしてからすぐに、彼がつらそうな表情をしていることに気が付いた。

 同族ということは、彼の仲間や友人だったかも知れない。それを、彼は自分の手で殺さなければならないなんて、つらいことにちがいない。


「実はさ、あんたはもう一度、ここに来ると思ったんだ。だから、ちゃんと別れの挨拶をしようと思って」


 寂しそうに「クゥン」と鼻を鳴らすヤフタレクの鼻先を、わたしは両腕で抱きしめていた。


「別れの挨拶なんてしない」


「は?」


 戸惑った声を上げたヤフタレクが、体を起こそうとするので全力で体重を掛けてみる。きっと彼からしたらなんの抵抗にもならないだろうけど、優しい彼はわたしの意図を汲んで立ち上がるのを止めてくれた。


「わたし、あなたのことが気になるみたい」


 言葉を口にしたけれど、ヤフタレクにわたしの真意は伝わっていないみたい。ただ静かに燃える炎を閉じ込めたような真紅の瞳がわたしを見つめている。


「ええと、一目惚れしたということ! 好きなの」


「はぁ?」


「蝋燭の火よりも強くて、轟々と燃えさかる大きな炎みたいに揺れる、あなたのゆるく波打つ落陽色をした毛皮がとても好き。それに、どうでもいいわたしを助けてくれたり、わたしをただの人間として見てくれたことも、あと、めんどくさそうにしてもわたしを突き放さないところも、すごく、好き」


「俺は、狼……獣だぞ?」


「でも言葉を交わせるし、あなたは優しいじゃない」


「……村のやつらはお前を大切にしている。化け物なんかと……」


「化け物なんかじゃない。あなたは神様の子供なんでしょ?」


「……それはそうだが、お前の信仰する、深緑の匂いがする綺麗な神とは違う」


 ふいと目を逸らしたヤフタレクの瞳は、なんだか愁いを帯びていた。

 わたしに話せないような、つらい過去があったのかもしれなくて、自分の事ではないのに胸が痛む。


「俺は……破壊と戦を司る血生臭い神の子だから」


 ぽつりと漏らしたその言葉を聞いて、わたしは自分の力を彼に全て伝えることにした。

 移譲の御子と、わたしがなんで呼ばれているのかを。


「わたしの力はね、誰かの力や能力を他人に移すことで譲るものなの。誰かを守る力じゃない。誰かを守る為に自分の手を血で汚す覚悟も、能力も無い。誰かのために、痛い思いをしてもいいという気概も無い」


 わたしの力は、村の役に立っている。

 鍛冶屋のおじいさんが亡くなる前に、息子さんに鍛冶の能力を譲り渡したり、領主が代替わりするときに、領主が持つ記憶の一部を次の領主に譲り渡したり……。そうやって小さな村でも発展することが出来た。

 わたしたち神の御子一族が……神様と繋がり、御子として愛されることで成り立っている平和と発展。


「ねえ、あなたは……ヤフタレクはわたしのために爪を授けてくれた」


 御子としてではなく、その日会った無力な小娘としてわたしを見てくれたから。

 それが、神の子であるあなたの習性なんだとしても、わたしは、とてもうれしかったの。


「それだけで、わたしは貴方の虜になってしまったの」


 ヤフタレクは、何も言わなかった。でも、彼が長くて分厚い舌でわたしの頬を舐めてくれたことが応えの代わりなんだと思う。

 拒絶されなかっただけ、今日は上出来! そう考えることにする。


 しばらく二人で寄り添いながら、色々なことを話した。

 何を食べるのが好きかとか、彼の故郷のこと、この森には「森の貴婦人」と呼ばれる隣人精霊も時々現れること……。


――カンカン……カン


 乾いた鐘の音が響いてきた。そろそろお昼になるみたい。

 長い時間、村にいないとみんな心配するだろうな……。気が進まないけれど、しかたなく体を起こした。


「今日は帰るね。また明日」


「……わかった」


 来るなとは言われなかった。

 よかった。

 恋をするって、こんなに胸の奥が騒がしくて、気持ちが浮つくものなのかしら。母さんが生きていたら、相談が出来たのにな。

 コダルトは、わたしが別の人と結ばれることになればホッとするかしら? 神の御子と結婚が決められているけれど、彼はとてもモテるから、きっとわたしが御子じゃなければ他の子と結ばれていたに違いないし……。


 村に戻ると、案の定、下がり眉をさらに下げて困ったような顔をしているコダルトがわたしを迎えてくれた。

 どこにいっていたと聞かれていろいろはぐらかしたけれど、優しい彼はそれを厳しく問い詰めたりはしない。

 ただ一言「あやしいやつらが村の周りに出たし、昨日の黒いお化けのこともあるから、遠くにいかないように」という注意だけで終わった。


「そうね、御子がいなくなったら大変だもの。気をつけるわ」


「……ああ。頼むよカヤール。心配させないでくれ」


 わたしは移譲の御子だから、こうして大切にされて、心配をされている。だから、わたしは、誰かと子供を成さなければいけない。

 弾んだ気持ちが少しだけ沈んでいく気がして、考えを切り替えたくて頭を振る。


「今日は一日家にいるつもりだから、大丈夫よ」


 明日も家にいるとは言わないけれど。

 何か言いたそうなコダルトに気が付かないふりをして、わたしは彼に背を向ける。


 家に帰ったら、ヤフタレクから貰った爪を入れる袋でも縫おうかな。そう考えると少しだけ元気になれる気がした。

 明日は何を持っていこう。でもミルクの壷を置いてきちゃったから……何も要らないかな? 大角鹿トナカイ用の櫛でも持っていけば、あの綺麗な毛皮を更に綺麗にできるのかしら?

 そんなことを考えながら、わたしは自宅へと戻った。

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