第7話 水泳

 準備体操を終えると、水に入ることになる。

 意識していなかったが、楓は震えていた。

 風呂の時に意識が飛び、気づけば布団に入っていたのは下着姿や一糸纏わぬ姿が問題ではなかった。

 その証拠に更衣室を前にしても、楓の意識が飛ぶことはなかった。

 楓の意識を吹き飛ばしたのは恐怖だった。水への恐怖が、拒絶反応を起こしたのだ。

 楓は、いざ風呂よりも大きな水の入れ物を前にして自覚した。自らの死んだ場所に近いものに怯えていることを。

 しかし、意識は飛ばなかった。

「もしかして、水怖いの?」

 向日葵は楓の震えに気づくと手を握って隣に立った。

「うん。色々あってね」

「でも、大丈夫。溺れても私が助けるから」

 今の楓には隣に向日葵がいた。

 背中を撫でられると、気持ちの昂りが収まり、震えもやんだ。

 人よりもゆっくりではあったが、シャワーなどの行程で水に体を慣らす間も意識は飛ばなかった。向日葵は近くで楓を見守っていた。

 一通り終え、足をプールへ入れると、日差しにより火照った体全身に水の冷たさが伝わるようだった。

 緊張により心拍は上がっていたが、楓は決意を固め、教師の指示のもとプールに身を沈めた。

 入ってからの動きはぎこちないものだった。

 向日葵と比べると余計にそれは目立った。

 水の抵抗をものともしないように、移動する向日葵はまるで人魚のようだった。

「ほらね。これなら助けられそうでしょ」

「そうだね」

 あの時も居てくれたらと思うほどの滑らかさに、楓は吐息を漏らすと肩からも無駄な力が抜けた。

 楓もまた水にも慣れ、泳ぎも元の通りこなし、泳ぎ切ることができていた。

 そつがなくこなす楓とは対照的に、何本か泳いでいると、向日葵は次第に注目を集めていった。

 噂の転校生。目立つ頭髪。それだけでも充分話題の的だったが、泳ぎもまた人の目を引きつけた。

 ただの移動ですら抵抗を感じないように見えたが、泳ぎでもそれは健在だった。

 滑るように進むとあっという間に泳ぎ切った。

 それはクラスの中にいる水泳が得意で、すでに泳ぎ方をマスターしている子達にも引けを取らない速さだった。

 向日葵のすごさにぽかんと口を呆けていると後ろから、親指を立てた拳が現れた。

「ここまで早ければ溺れる前にたどり着くから、プール程度ならどこで溺れても大丈夫だよ」

「さすがにわかったよ。溺れたら、助けてね」

「もちろんだとも」

 口だけとは言わずとも、あくまで安心させるためのセリフにすぎないと思っていた楓は、向日葵の桁違いさに引いていた。

 実力の差に引け目を感じていたわけではなく、単純に実力に感動していて、他に言葉が見つからなかったのだ。

 あまりのすごさに、更衣室ではあれだけ警戒し、大袈裟なリアクションをとってしまったボディタッチを気軽に許した挙句とがめることすら忘れていたほどだ。

 また、機会をうかがい、楓が何か褒める言葉をかけようとすると、向日葵はスッと立ち去って、すでに泳いでいるのだ。

 言いたいことは言われ、言いたいことを言えない歯がゆさを抱きながら、楓は泳いだ。


 しばらく泳いでいると、笛の音が響いた。

 泳ぎ終えると、生徒逹はプールから出て、教師の前に集まっていく。

 向日葵だけは授業の進行をわかっていないようで、構わずもう一周泳ぎに行こうとしていたので、楓が事情を話し、手を引っ張って教師の前に連れてきた。

 これまでは準備運動のような練習だった。

 これからはクラス対抗のレースが始まる。

 実践で練習を試そうというわけらしい。

 今までの結果では勝敗は五分五分。実力は拮抗していた。

 別に勝ったからと言って、何かがもらえるわけではない。

 だが、競争となるとやる気に火がついてるように見えるのが楓には不思議だった。

 楓のクラスは新戦力である向日葵の追加で勝利への機運が高まっていた。

「アンカーは任せたよ」

「がんばってね」

 などと口々に言われている。

 とうの向日葵自身もまんざらではなさそうだった。

 そして、レースの順番が決まるとぞろぞろと並び出した。

 体育祭といい、こういうものは女子の方がやる気があるよなと楓は思った。

 男子はスカしているのか、頑張りすぎない方がかっこいいと思っているのか、乗り気でない印象が強かったた。

 もちろん女子にもやる気のない人はいたし、逆にやる気を出す男子もいたが、楓が努力はするもあまり乗り気ではなかったため、男子のやる気のなさがよく目についたのかもしれない。

 今の楓はというと、みなぎっているというほどではないがやる気があった。

 こういう協力というのも、死んでしまえばもうできないのだ。と思ったからだ。


 レース直前、

「楓ちゃんは何も言ってくれないの?」

 向日葵が甘えた声で楓に話しかけた。

「えーと、がんばって」

「そんな、みんなとおんなじのじゃなくてさ。もっと特別なの」

「例えば?」

「私を甲子園に連れてって! みたいな」

「これ、そんなたいそうなことじゃないよ?」

「え? インターハイ目指さないの?」

「目指さないよ?」

 向日葵の実力なら出られそうだが、授業の結果はインターハイやら甲子園やらとは関係がない。

 それに、甲子園は野球だろう。

「何かないの? あー何もないなら勝てないよー」

「いや、でも負けても問題ないよ?」

「あるよ。悔しいよ? あーこうしてると始まっちゃうよ? ほらほら、何かちょうだい」

「え、えーと、じゃあ、勝ったらご褒美とか?」

「言ったね? わかった。じゃあ勝ったら……」

 たかだか授業のレースなのに、本格的な空砲が鳴った。

 準備のために確認しているようだ。

「……をもらうね。がんばっちゃうよー」

 空砲の音により、向日葵の言葉はかき消された。

「え、何? なんて言ったの?」

「聞こえなかった? それじゃあ、お楽しみってことで」

「大丈夫だよね。とんでもないものじゃないよね」

「大丈夫大丈夫。誰でも持ってるものだから」

 そう言って向日葵はいたずらっぽく、とても楽しそうに笑った。

 向日葵とは裏腹に、楓はプール開始時とは別の意味で緊張と興奮、さらには不安の渦の中だった。

 どうしたらいいかわからず、楓は空を見上げた。

 太陽はまだ高いところにあり、雲ひとつない青空が広がっていた。

 周囲に耳を傾けると、ミンミンとセミががんばって鳴いていた。

 この世界でもセミはうるさかった。

 セミの声を聞いていたせいで何を言ったのか楓は聞き取れなかったが、教師のかけ声により生徒逹は静かになった。

 世界がセミの声に支配されると、うるさかったはずが、楓には静かに感じられた。

 パンッ。

 空砲の音が世界に再び音を取り戻した。

 水を蹴る音。応援の声。

 レースがスタートした。

 言い出したのは楓だったため、不安はあれど、今の楓に手を抜くという選択肢はなかった。

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