第8話 神無月(三)

(1)


 事の後、気が落ち着くまでに涼次郎は時間を要した。

 ゆっくり、ゆっくり、時間をかけて落ち着かせる。ようやく落ち着いた頃にはもう、女はとっくに身支度を整え、涼次郎の支度が終わるのを座ってじっと待っていた。その白いかんばせに浮かぶのは苛立ちではなく、菩薩のような微笑みだった。


「早う戻って。またおにいの雷落ちますえ」


 仏の笑みとは裏腹に、軽妙なからかい口調で掌をひらひら。やわらかくもはっきりと追い立てられ、名残を惜しむ間もなく涼次郎は舟から降りた。


 闇が晴れるどころか益々深まる真夜中。鴨川沿いを再び歩きながら、あの辻君への疑問が膨らんでいく。


 こちらは女について何も知らない。たったの二回まぐわっただけの関係に過ぎない。

 なのに女は、涼次郎に兄がいること、兄の支配下に置かれていることまで知っていた。加えて意味深な言葉の数々。お代はいらないと一切の金銭を受け取ろうとしない。

 自分の素性は店の娼妓に彼女の顔見知りでもいれば聞き出せる、と思う。何のために──??


 涼次郎は初めてあの辻君に対して恐怖心を覚えた。

 あの女は何が目当てで自分と関わるのか。否、実際は涼次郎が自ら関わりにいっているのだが。


 急な寒気に襲われたまま、曙屋へ、そのまま自室に戻る。襖を開け放し、室内に差し込む月の光を頼りに布団を静かに敷く。寝る前に、と金魚鉢を覗いてみる。案の定、暗すぎてよく見えない。見えないが──


「おや」


 曲げ輪の金魚鉢の底、眠る金魚の影がひとつ、だけ──??

 たしかに数日前までは更紗が産卵で体力消耗したため、一時的に雄を別の鉢に隔離していた。しかし、今はまた元の鉢へ戻した筈。

 水草の影にでも隠れているのか、と心配になり更に覗き込むがどう見ても一尾の影しか見え──


「あ……」


 突如強すぎる眠気が涼次郎に襲いかかった。今すぐ眠る以外のすべてに興味をなくし、布団へ倒れ込んだ。そして翌日の現在に至る訳で……。


 未だすっきりしない頭を抱え、這うように布団から出て金魚鉢を覗き込む。いつも通り、二尾の金魚は並んで水面の気泡を、底砂利をつつき、その上を行ったり来たりとを繰り返している。

 やはり気のせいか。仲良く泳ぐ二尾をほほえましく眺めていると、涼次郎は雌の腹に卵が糸を引いてくっついてるのに気がついた。







(2)


 喜ばしき出来事あれば、嘆かわしき出来事もやってくる。


 更紗が二度目の産卵を終えると間もなく、庭の金魚たちはすべて露と消え、地へ還っていった。

 中には京都の厳しい夏と冬を耐え抜き、何年も生きたものもいた。庭の隅、小さな土の盛り上がりが増えるごとに涼次郎の気落ちは日に日に大きくなっていく。


 水から引き揚げた躯は病気をしているようにも見えず、外敵や金魚同士の争いにより外傷を負っているようにも見えなかった。痩せ細りもせず、生きていた頃と変わらない、丸々とよく太ったままの躯たち。

 最後の一尾を埋め終わったら、池は潰してしまおう。鉢もきれいに洗って天日に干し、娼妓たちの仕置き部屋、もとい、物置部屋に片付けておこう。


 途端に自室の二尾と稚魚を見に行きたくなった。親の金魚たちはともかく、お世辞にも可愛らしいとは言い難い、四ツ目に見える人面模様の稚魚まで可愛らしいと思えてきてしまう。


「さて戻ろか」


 踵を返し、庭を後にする。

 廓の一階が楼主家族の生活場所に当たる。涼次郎が部屋へ戻るには家族の他に、一階へ下りている娼妓の支度部屋や厨房等を通り抜けなければならない。

 今は夜の支度に向けて娼妓たちが動き始める時間帯。あの、化粧を含む女くさい空間を通らないといけないのかとうんざりしてくる。今までなら女たちの身支度を終える頃合いを見計らっていたが、待ち時間に眺める金魚たちはもういないし、単純に肌寒い。こんこん、と軽い咳を何度もしながら、縁側を上がる。


 自室へ戻る途中、玄関を横切りかけて、両親、兄隆一郎、他にも遣り手婆、若衆が集まっていた。

 ただならぬ空気に巻き込まれたくない。誰にも気づかれないようわざと俯き、足早に去ろうとして──、流瑠の悲鳴を聞きつけ、つい足を止めてしまった。


「このっ売女が!」


 この声は先日盃を交わした金魚愛好家。あの時の鷹揚さは鳴りを潜め、薄い頭頂部から湯気が昇り立ちそうな程怒り狂っていた。


「お客はん、うちのに無体は困ります!改めて後日じっくりお話聴かせていただくさかい、今日はお帰りください」

「なんやとぉ?!」


 玄関先で仁王立ちする客が隆一郎の言葉に更に激高し、若衆が必死で抑え込む。

 押し合いへし合い、力は拮抗していたが、客は若衆を押しのけ、流瑠へ突進しつつあった。

 若衆に続き流瑠と客との間の盾となるため、父母までが式台から土間へ駆け下りる。が、客はそれすら押しのけ、隆一郎に庇われている流瑠の髪を鷲掴んだ。


「いややぁっ、やめとぉくれやすっ!!」

「何してるんや!早う離せっ!!」


 隆一郎の一喝に若衆の手が次々と客の巨体へ伸びていく。肩へ、腕へ、胴へ。

 先程は勢い任せで振り切ったものの二度目はなく、客はあっと言う間に若衆に取り押さえられてしまった。


「おいっ!あの化け物金魚、どうすりゃええっ!」


 若衆に引き立てられ、追い出されていく際の捨て台詞に思わず玄関へ飛び出しそうになった。代わりに、やれやれと肩を叩きながら廊下へ上がってきた母へ詰め寄る。


「母はん、化け物金魚って……どないなこと」

「あらやだ、あんた、いつからここにおってん。嫌やわぁ」

「母はん!」

「あぁ、なんや、流瑠からもろうた稚魚がいきなりしゃべりかけてきたやら。お疲れやったんや、って言うたら、わしはたしかにこの目で見て、耳で聴いたんや!幻覚でも幻聴でもあらへん!、って」

「はぁ??そないな阿保な」


 平素の口調で言ったつもりが、強く吐き捨ててしまった。

 母の表情が一瞬固まり、でもすぐに宥めるようにへらり、だらしなく笑いかけてきた。


「涼一郎。そない怖い顔しいひんで、ね??気が昂ったりしたら咳出てまう」


 母の年甲斐のない媚と名前の呼び間違いが涼次郎の腹立ちに拍車をかける。適当に笑ってへりくだり、上辺だけ取り繕う。中身なんて伽藍洞。大嫌いだ。

 苛立ち紛れに無言で母に背を向け、自室へ向かう。黙っていても廊下を進む足取りが自然荒く速くなる。あいつは何を不貞腐れとるんや、と呆れたように母と話す兄の声が耳を掠めていく。お前らに僕の怒りがわかるものか。


 自室の障子戸を乱暴に開け放せば、鉢の中、長い尾鰭をたなびかせ、更紗がすいーっと近寄ってきて出迎えてくれた。犬猫と変わらぬ人懐こさに怒りは解け、頬が、口元が緩んでいく。

 更紗、と声を弾ませて呼びかけ、鉢を覗き込むと同時に涼次郎は言葉を失った。

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