第3話 葉月去りて、長月

 更紗を迎え入れた日の夜から、涼次郎はこの時期にしては珍しく毎夜喘息の発作に襲われた。

 夜は一晩中続く咳で眠れず、昼間は消耗した体力と酷い眠気で布団から起き上がれず。そんな状況下であっても常に金魚たちのことは片時も忘れたりしない。

 庭の金魚の世話を決して怠らぬよう、奉公人に事細かく指示し、自室にいる更紗の世話だけはなけなしの気力を振り絞り、手ずから行う。更紗の世話をするためだけに起き上がる日もザラではなかった。

 不思議なことに、弱っていた更紗が少しずつ元気になっていくごとに涼次郎の喘息発作も鎮静化していく。どんぶり鉢から曲げ輪の金魚鉢に移す頃には喘息の発作はほとんど治まっていた。


 鈍色の陶器と硝子でできた金魚鉢は信楽製の特注品。床の間に置いた高級な金魚鉢で水草の中を更紗は優雅に泳ぐ。餌を与えるときには水面をひらひら浮上し、ぱくぱくと催促する表情の愛らしさときたら!

 くりくりとした丸い瞳、瞼は朱を乗せたように朱く、しなやかな泳ぎには気品が感じられる。人であれば、あどけなさと妖艶さを兼ね備えた美女といったところか。

 弱っていた分、元気に泳ぐ姿は涼次郎の愛情をより深めていく。一昼夜眺めていられる。


「もうすぐ秋や。あんたもそろそろ婿はん欲しいやろ??」


 途端に、更紗はぷいっとそっぽを向き、くるりと尻を涼次郎へ向けた、ように見えた。


「なんや、怒ってるんか??あぁ、前に追うかけられて怖い思いしたさかいか。うーん、ほな、優しおしておとなしい婿はん探してきたる。な??僕、あんたの子、見たいんや」

「おい」


 不機嫌さを一切隠そうとしない声に、嫌な予感と共に聞こえないふりをする。


「おい、涼次郎。聞いてんのか」


 三度目にくるのは不機嫌な言葉か、拳か平手か、後者の確率の方が高い。手が出てきたら、否、自分じゃなくて、その手が金魚鉢へ向かったら──、困るどころの話じゃない!

 涼次郎は観念して振り返る。その視線の先には、室内に風を送り込むために開け放された障子戸に手を掛け、声以上に不機嫌な顔した男が涼次郎を見下ろしていた。


 柳のように細く、青白い顔の涼次郎とは違い、男は中肉中背、色は白いが溌溂とした健康な肌色をしている。涼次郎と揃って黒目の多い切れ長の目、鼻筋の通った顔立ちに面影はあれど、彼と血を分けた兄だと一見しただけでは判別し難い。


 抜け殻のように茫洋と生きてる癖に、金魚に関してだけこだわりの強さを見せる涼次郎に両親はほとほと呆れ果てつつ、何だかんだ放任し甘やかしてくれる。

 涼次郎自身もその甘さをごく当たり前のように享受していた。阿漕な稼業で幼い頃から肩身の狭い思いをさせられ、虚弱な身体に自分を産み育てたのだ。この程度の責任は払ってもらうべきだと思う。


 しかし、涼次郎の驕りとも取れる甘えを苦い思いで見ている者も少なくない。

 五歳年上の兄隆一郎はまさにその筆頭だった。


 涼次郎は怯えながらも、隆一郎の目から金魚鉢を隠すように床の間の正面で彼に向き直った。

 隆一郎は涼次郎など目もくれず、何日も敷きっぱなしの布団、畳に脱ぎ散らかされた寝間着、半分以上食べ残された朝食の膳をじろりと見渡し、最後に涼次郎を、涼次郎の背後の金魚鉢に視線を定めた。


「小耳に挟んどったが……、また増やしたのか。ええ加減にせえよ」

「か、家族には、迷惑かけてへんのや。別に……、ええやろ」


 手が出てくるかもしれない覚悟で、弱々しい語気ながらも言い返す。

 だが、隆一郎は手を出すどころか、障子戸の側から一歩も動かない。


「あんた、倒れると奉公人に魚の世話させるやろ。わしが知らへんとでも思たのか。皆せわしないんや。余計な仕事増やしな。父はんも母はんもあんたに甘おしてもわしは甘やかさへん。今度奉公人に頼んだりしてみぃ。あんたの魚全部鴨川へほかしたる。わかったか!」


『ほかしたる』の言葉に猛反発したいが、前半の言葉に反論の余地はない。が、不服は表情に出ていたらしい。


「なんや、その顔。わしがこの店引き継いだら、あんたなんかなんぼでも家から叩き出せるんやで」


 まずい、昼間なのに咳が込み上げてきた。説教中に咳き込んだりしたらまた何を言われるかわかったもんじゃ……。


「追い出されるのが嫌なら、だらだらせんとちょいとは役に立つ人間になれや。入ったばっかの丁稚の方がよっぽどあんたより使えるわ」


 咳は益々酷くなっていく。兄の目も益々冷たくなっていくが、別に狙ってしているわけじゃない。


「喘息だかなんか知らへんけど、甘えすぎなんやで。たかが咳くらい何や。皆、あんたを甘やかしすぎてる」


 説教と言う名の嫌味を吐き散らし、隆一郎は乱暴に障子戸を閉め、退室した。出て行きざま、聞こえるか聞こえないかの捨て台詞を吐いて。


『たかが喘息ごときで大学中退しやがって』


「……僕だって好きで辞めたわけちゃうんに」


 なかなか治まらない咳に噎せ込みつつ、閉め切られた障子戸を半分開け直す。

 しまい忘れた風鈴が風に流され、鳴いている。


 大人へ成長するにつれ、喘息は一旦は治っていた筈だった。慣れない土地、慣れない人々とも上手くやっていた筈だった。

 でも、どこかで無理をしていて、祟ったのだろう。

 帝都での暮らしが二年過ぎた頃、喘息再発の兆候が表れ、三年目を待たずに退学せざるを得なくなった。


 布団ではなく畳の上に大の字で寝転がる。

 今はもう何も考えたくない。いっそ、このまま閉じた目が二度と開かなければいいのに──、否、自分がいなくなったら、誰が金魚たちの世話をする??


 ごろり、寝返りを打ち、床の間へ方へと身体を向ける。

 金魚鉢を見つめれば、硝子越しに更紗がじっと見つめ返してきた。









※隆一郎は全世界の喘息持ちの方々を敵に回しますね……。

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