第21話 文字通り身体を張って幼馴染の決断を止めようとしたのですが

 祖父さんが帰った暗闇の中で、どれだけ時間が過ぎただろうか。

 いつのまにか、うとうとしていた俺は、夏の夜にしては冷ややかな風に目を覚ました。

 扉に閂をかける音がしたかと思うと、長い衣を脱ぎ捨てるときのような、さらりという音がする。

 拝殿の窓を照らしていた裸電球の、ほの赤い光はいつの間にか消えていた。

 思い切ったような荒い息遣いと共に、豊かな胸の感触が、俺を拝殿の床で押し潰していた。

「さ……咲耶?」

 苦しい息の中で呻くと、闇雲にもがいていた裸の身体は静まり返った。

 耳元で、驚くように囁く声がする。

「……克衛?」

 熱いものが、俺の頬を伝わって流れ落ちた。

 涙だ。

 俺も囁き返した。

「着ろよ……その服」

 咲耶は頬を俺の顔に擦りつけながら、よけいに強くしがみつく。

「いやだよ。このまま……」

 身体の中で、何か熱いものが蠢き始める。

 まずい。

 拝殿の扉が破られたのは、そのときだった。


 星明かりに黒く浮かんだ影の背格好には、見覚えがある。

 だが、それが誰だったか考える余裕はなかった。

 脱ぎ捨てた衣で身体を隠そうとしたのか、床を探った咲耶が拾い上げたものがある。

 祖父さんが置いていった懐中電灯が照らしだしたのは、親父の後釜に据えられた、あの養子だった。

 それで、あのSNSと祖父さんの話がつながった。 

 こいつ、そういうつもりだったのか……。

 怒りが全身を駆け巡ったが、金縛りのかかった手足は動かない。

 咲耶は悲鳴を上げた。

「……いや!」  

 叩きつけた懐中電灯は、そいつの眉間を打ち割るかとも見えた。

 だが、そこから血があふれることはなかった。

 代わりに聞こえてきたのは、獣の唸り声だ。

 懐中電灯が割れて消える瞬間に見えたのは、白い毛に覆われた、巨大な猿のような生き物だった。

 相手が人外の獣だと分かると、咲耶の声は急に落ち着いた。

狒狒神ひひがみ……」

 床から長い衣を拾い上げると身体の前を隠し、祭文を唱え始める。

 

  うめ

  もも 

  さくら

  いずこにありや

 

  やなぎ

  がまのほ

  すすきのほ

  ただこれにあり

  などゆかしきや


  しずまれ

  おしずまりあれ……。


「イヤだ! やめろ!」

 衣を引き裂く音と共に、咲耶の悲鳴が上がった。

 かつて羅羽の動きを封じ、鬼の世界から来た巨大な狼を幻惑した祭文が、この狒狒神には通じない。

 身動きの取れない俺の前で、咲耶は腕から掴み上げられる。

 夏の星明かりの中、その裸身が、起伏のはっきりした影となって浮かび上がっていた。

 咲耶の豊かな胸に、深い毛で覆われた狒狒神の手が伸びる。

 その先端が、節くれだった大きな掌に隠れそうになったときだった。

 星々の彼方から飛んできたかのような澄み渡った声が、拝殿の中の夜闇を切り裂いた。

「そこまでよ!」

 狒狒神の身体がぐるりと回転したかと思うと、のけぞった腹の向こうに、その頭が消えた。

 咲耶の身体は、穢れのないままに床へと投げ出される。

 だが、狒狒神の肉体も強靭だった。

 すぐに跳ね起きた身体は、両脚で首を挟みこんでいた華奢な影を、拝殿の天井に叩きつける。

 それが誰だか、俺はすぐに気が付いた。

 羅羽だ。

 天井の梁に両手をつくと、俺の目の前に、ひらりと舞い降りる。

「ついてきたんじゃなくて……ちょっと遠出したくなっただけ」

 そんな強がりを言っている間に、狒狒神は羅羽を両脇から抱え込んでくる。

 しなやかな腕が大きく広げられると、小さな掌が狒狒神の手を押し返す。

 だが、そこまでだった。

 いかに足を踏ん張ろうと、身体のつくりが可憐すぎる。

 あっという間にパワー負けして、そのまま床に押し倒されかかった。

「お兄ちゃん!」

 羅羽の叫びに、俺は背を向ける。

 別に、怖気づいたわけではない。

 咲耶が、俺を抱き起してキスしながら、床に横たわったのだ。

 その謎かけは、すぐに解けた。

 俺は手探りでスマホのストラップを引きちぎると、犬型の藁人形を後ろ手に投げた。


 ……ぐうううおおおおおおん!


 振り向けば、狭い拝殿の隅という隅、角度という角度から、光る狐たちが幾筋にもなって飛び出してきていた。

 あるものは狒狒神の身体を押し返し、またあるものは床に集まって、羅羽のクッションとなる。

 だが、多くのものは四方八方から狒狒神に食らいついて、床の上をのたうち回らせた。

 それは、真っ白な長い毛に覆われた、巨大な猿だった。

 光が静まるにつれて、狒狒神も次第に動かなくなっていく。

 やがて、暗闇が戻ってきたとき、その苦悶の声も消えた。

 そこでしがみついてきたのは、裸のままの咲耶だった。

「いやだ……やっぱり、克衛でなきゃ、いやだ」

 俺も、咲耶を抱きしめる。

「無茶すんなよ……お前の力、捨てるなんて」

 狒狒神を倒せなかったのは、そのせいだろう。いや、あの折り鶴のストラップが使えなかったのも、たぶん、そうだ。

 泣きながら俺の顔に頬をすり寄せてくる咲耶の、らしくない甘い囁きが耳元で聞こえた。

「戻ってくるんだ……退魔師の力。鬼に身体を捧げるって決めたら、消えるんだけど、誰かを守りたいって、強く願えば」

 だから、光の狐を放つこともできたのだろう。

 そこで聞えたのは、羅羽の声だった。

「じゃあ、どうする? お兄ちゃん……嫌いなんでしょ? 鬼も、退魔も」

 こんなときに、憎たらしい屁理屈を言う。

 ちょっとは黙ってろ。

 そうたしなめようと思って振り向いたとき、羅羽の影の後ろでふらりと立ち上がった者がいた。

 だが、その影は、さっきの狒狒神のものではない。

「いい気なもんだな、人間……答えてやったらどうだ、羅羽はもう、用済みだと」

 聞き覚えのある声と共に、暗闇の中でぼんやりと浮かび上がった姿がある。

 その名を、羅羽が不安げにつぶやいた。

「鵺笛……」

 その美しい顔が、俺に向かって皮肉っぽく笑う。

「狒狒神の姿でも取らねば、お前の母親の目はごまかせなんだのよ」

 そこで鬼たちの新たな実力者らしき若者は、自信たっぷりに羅羽を誘った。

「我がものになれ。そのうえで、おぬしを捨てたこの男が許せぬのなら、我が手で……」

 なぜか羅羽は、いつものように鬼の爪を伸ばしもしない。

 それをいいことに、鵺笛は無防備な腕を掴んで引き寄せる。

 抱かれるままになっている羅羽を、俺は苛立ちのあまり叱りつけた。

「何してるんだ! それでいいのか!」

 羅羽は答えない。

 代わりに、鵺笛が言った。

「何なら、羅羽の気持ち、この場で確かめてくれよう」

 その手で服の胸元を引き裂かれても、抵抗される様子はない。

 鵺笛は、俺を嘲笑する。

「我が子を望めば、羅羽にとってもお前を殺すのは造作もなかろう。お前の子を望むなら、交わるのをこの場で見届けてやる」

 その歪んだ欲望と物言いが、俺の感情に火をつけた。

「いい加減にしろ……」


 怒りに身を任せて立ち上がると、咲耶は手で胸を覆ったまま、首を横に振る。

 だが、その気持ちに応じてやることはできなかった。

 俺は鵺笛に向かって歩み寄る。

 鵺笛はというと、抱えた羅羽に、からかうような声で囁きかける。

「選ぶがいい。我が子か、あやつの子か」

 羅羽は答えない。

 もちろん、俺を殺したくはないだろう。

 だが、俺を殺すまいとして交わることを選べば、退魔師の力を取り戻した咲耶と、鬼の力で闘わなければならない。

 それをするまいとして、羅羽は意地を張っているのだ。

 闘って、勝つしかない。 

 俺は、後ろ手に布人形を投げた。

 現れた鎧武者が、後ろから装着される。


 ……この力、余すことなくお貸し申そう。


 肘から伸びた刃を、下から斬り上げる。

 だが、鵺笛が片手で腰から引き抜いた三つ又の短剣で、あっさりと受け止められてしまった。

 もう片方の肘の刃を振るおうにも、羅羽が邪魔になって斬れはしない。

 鵺笛は、そんな俺を挑発するように高笑いした。

「そんな及び腰で、我は斬れんぞ」

 そう言うなり、短剣を高々と放り上げる。

 俺は思わず、その行方を目で追った。


 ……なりませぬ、それは罠!


 鎧武者の声で俺は我に返ったが、そのときはもう、遅かった。

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