第2話 あとは悠乃くんが名前書いてくれたらそれで大丈夫ですよ?

 突然の伊吹の訪問から数時間。素晴らしい映画を見終わった後のようななんとも言えないふんわりとボーっとした時間を過ごしていると、窓の外から差し込んでくる太陽の光が夕陽に切り替わっていた。


 そろそろ晩ご飯の心配をしないとなあと思い、ダラダラし尽くしたベッドから起き上がって、冷蔵庫の中身を確認する。

「……なんもねえ」


 が、ここ最近買い物に行ってなかったので、当然中身は寂しいもので、飲みかけの紙パックのオレンジジュースと、残りひとつの卵、強いて言えばちょっぴり残った生姜くらいだ。これじゃせいぜい卵かけごはんしか作れない。いや、それでもいいんだけどね。卵かけごはん美味しいし。


「……買い物行くか」

 しかし、今日はそれで良くても明日の朝何も食べるものがなくなってしまうので、勉強机の上に置いてあった財布と春物のパーカーをひったくって、僕は近所のスーパーに出かけようとした、その瞬間。


 ピンポン、と玄関から呼び鈴が鳴り響いた。

 ……今度は誰だろ……。

 首筋を掻きながら玄関横に置いてあるシャチハタに意識を向け扉を開けると、


「あっ、悠乃くん、晩ご飯作ったんで……って、悠乃くん、ハンコ押してくれる気になったんですねっ。今婚姻届持ってくるのでっ」

 制服の上に可愛らしい猫が描かれたエプロンを身に纏った伊吹が、タッパー片手に玄関先に立っていた。


「ちょいちょいちょいちょい。別にそういうつもりじゃないって」

 が、しかし、僕がシャチハタを持っているのを都合よく解釈した彼女は、踵を返して自分の部屋に戻ろうとする。このままだと本気で署名押印までさせられそうなので、慌てて彼女の両肩を掴んで引き留める。


「……え? ち、違うんですか?」

「違うから。っていうかシャチハタじゃ駄目だから。というかそもそも僕ら未成年だから保護者の同意が必要なんじゃ……」

 って、去年履修した私法概論っていう授業で習った気がする。


「? 私のほうはもうお父さんからハンコ貰ってるので、あとは悠乃くんが名前書いてくれたらそれで大丈夫ですよ?」

「…………。……はい?」

 今、なんて?


「なので、私のほうはもう埋まっているので、悠乃くんが二十歳になって署名してくれたら、私たちを遮る障害は何もないですよ?」

 ……色々ぶっ飛んではいませんかねえ、伊吹のお母さん、お父さん。いや、地元にいたころからなんとなく適当なご両親だなあとか思ってたけどさ。まさかここまでとは思わないじゃん?


「……それで、そのタッパーは?」

 もう話を逸らすしか方法が見当たらないので、とりあえず僕は伊吹が持っているそれに話題を逃がす。


「あっ、はいっ。晩ご飯、ちょっと作りすぎちゃったので、お裾分けしに来ましたっ。どうぞ、肉じゃがですっ」

「……あー、それは真面目にありがとう」

 冷蔵庫空っぽだったから、晩ご飯が転がり込んでくるのは助かる。助かるんだけど。


 僕が伊吹から肉じゃがの入ったタッパーを受け取ると、

「あ、あの……そ、その、もし悠乃くんが迷惑じゃなかったら、ご飯とお味噌汁も作りすぎちゃったので……わ、私の部屋で……晩ご飯、食べていきませんか……?」

 まあ、そうなりますよね。


 昔から、伊吹はどこか尽くしたがりなところがあるというか、甘やかしたがりな一面が強いというか。

 それは幼稚園のときから片鱗を見せてはいたけど、中学生になるとますます強くさせ、今では……まあ、見ての通りというか。


「……え、えっと」

「悠乃くん、晩ご飯まだですよね? ひとりで食べるよりふたりで食べたほうが楽しいですし美味しいですし、いいことずくめですよ? ね? いいですよね?」

 くい、くいっと伊吹は一歩二歩僕に歩み寄っては、僕の顔を上目遣いで見やる。


 目鼻立ちが整っているゆえ、至近距離でそんなことをされてしまうと、幼馴染とは言え正直少し心臓がドキっとしてしまうし、断ったら断ったで「……ですよね、迷惑でしたよね、すみません、ミジンコの私はこれで失礼します、お邪魔しました……はぁ……」とかなんとか言って部屋に素直に帰って行くだろうし、そのときの罪悪感が半端ないだろうしで、あまり気分は良くない。


 となると、僕に残された選択肢はひとつだけで、

「……わかった、食べる、一緒に食べるから……」

 力なくシャチハタを置き、代わりに部屋の鍵を手にして伊吹の後を追うだけしかなかった。

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