偽りの花
木場のその一言で、室内の空気がたちまち変わったように感じられた。腹の探り合いから一転、好戦的な雰囲気が辺りに漂う。
「け……刑事様! あなたは……先生が嘘をついたと仰るのですか!?」
立ち上がって叫んだのは若宮だった。普段の慎みも忘れて柳眉を逆立てている。
「はい、あなたがその時間に見たという花荘院さんの姿は、本物ではなかったんです」
「ですが……私は確かに拝見いたしました! 私がお休みの挨拶をしに先生の私室へ伺った後、先生はずっと書き物をされておられたんです! 私はそのお姿をはっきりと……!」
「はっきりと見た、本当ですか?」、
木場が鋭く尋ねた。若宮が虚を突かれたように身を引く。
「若宮さん。あなたは21時と22時、トイレに行くために部屋の前を通った時、2回とも花荘院さんの姿を見たそうですね。そこで一つお聞きしたいんですが、その時、先生の部屋の障子は閉まっていましたか?」
「障子? ええ、もちろん。ただでさえも和室は冷えますから、障子を開け放したままでは10分と過ごせませ……」
皆まで言えず、若宮がはっとして顔を上げた。切れ長の目を見開き、まじまじと木場を見つめている。木場の言わんとしていることに気づいたのだろう。
「そう。障子は閉まっていた。つまり若宮さんは、障子越しに花荘院さんの姿を見たことになります。
でもそうなると当然、疑問が出てきます。若宮さんが見たのは、本当に花荘院さんの姿だったのか? 花荘院さんとよく似た、別の何かだったのではないか?もしそうなら、21時と22時に家にいたという花荘院さんのアリバイは崩れることになります」
「いったい……何だったというのですか? 私が見た、その先生とよく似たものというのは……」
若宮が唇を震わせながら尋ねた。木場はだんだん彼が哀れになってきた。証明に必要だとは言え、やはり彼を同席させるべきではなかったのだろうか。
「その答えは若宮さん、やはりあなたの証言の中にありました。あなたは21時に部屋を通る前、19時と19時半、それに20時にも先生の部屋を訪れたそうですね」
「え、ええ……。19時には夕食をお持ちし、19時半後にお下げいたしました。その後夕食の片づけを済ませた後、20時頃にお休みのご挨拶をしに伺ったのです」
「その時、先生は何をされていましたか?」
「先生は……そう、花を生けておられました。18時に稽古が終わってから、私が夕食をお持ちするまでの間と、19時半頃に夕食を終えられてから、私がご挨拶に伺うまで……。時間にして1時間半ほどでしょうか」
「先生は、普段もそういう合間の時間に生け花をされるんですか?」
「いえ……そのような機会は少なかったと存じます。。大抵は他にご予定のない時に、ひねもす自室で作品と向き合っておいでですから。あのような細切れの時間で生けられることはまずないと……」
若宮がそこで言葉を噤んだ。その顔が見る見る色を失っていく
「まさか、あなたは……」
「はい」木場が重々しく頷いた。「花荘院さんは事件当日、普段の習慣を変えてまで作品を作っていた。その理由は何か? 若宮さん。先生が作った作品の特徴を、もう一度教えてもらえますか?」
若宮はすぐには答えなかった。引き結んだ細い唇が、制御の利かない機械のように震えている。
「……使用されていた花は、
若宮が呟いた。
「大ぶりで……非常に存在感がありました……。特に雪柳のしなやかさは……人間が頭を垂れているよう……」
「そう、それが答えです」木場がきっぱりと言った。
「あなたが障子の外から見たのは、花荘院さんではなく、その生け花だったんです。雪柳が垂れているシルエットが、机に向かって書き物をしている人の姿のように見えたんでしょう。障子越しで、しかも時間帯は夜ですから、シルエットもぼんやりとしたものだったんでしょうが、それがかえって、人間のような何かがあるという事実を強固にしたわけです」
若宮は答えなかった。拳を握り締め、無言で畳の床を睨みつけている。
「花荘院さんがどこまで意図していたかはわかりません。もし若宮さんが障子を開ければ、部屋にいないことはすぐにばれてしまうわけですからね。ですが若宮さんは、師匠を疑うことなど考えもせず、結果として花荘院さんのアリバイが証明されることになった。
でも今お話した通り、若宮さんが21時と22時に目撃したのは生け花だった可能性がある。つまり花荘院さんには、20時に若宮さんと会って以降のアリバイがないことになります」
「一つ……質問をさせてもらっても構わないだろうか?」
口を開いたのは花荘院だった。バリトンの声には微塵の揺らぎもない。
「君の言う、私のアリバイとやらが疑わしいことはわかった。だが、それが何だ? 君は私に、事件の真犯人について説明すると言ったのだ。私の行動を長々と述べ立てて、それが真犯人にどう繋がると言うのだ?」
「真犯人を証明するためには、どうしても今の話が必要だったんですよ」木場が臆さずに答えた。「アリバイを主張して逃げられたら困りますからね。先に退路を断っておく必要があったんです」
「ちょっとお待ちなさい」若宮が口を挟んだ。「あなたの口ぶりでは……まるで……先生が犯人だとおっしゃっているようではありませんか。そのような愚にもつかぬことが……」
「あるはずがない。そう信じたい気持ちはわかります」木場が同情した視線を若宮に向けた。「自分が若宮さんだったら、同じように否定したと思います。
でも……これは真実です。自分は刑事として、真実から目を背けるわけにはいきません」
木場はそう言うと、若宮から視線を外し、その隣にいる人間を見つめた。背筋を伸ばし、その不動明王のような顔に向かって、まっすぐに人差し指を突きつける。
「花荘院総十郎さん。あなたを、黒川伊三雄殺害容疑で告発します」
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