アリバイ

「18時頃に全ての稽古が終わり、弟子達を帰しました。私は稽古の後片付けをした後、夕食の支度にかかりました。その後19時頃、先生の私室に夕食をお持ちしました」

「その時、花荘院さんには会ったんですか?」

「ええ、先生は私室で、新しい花を生けておられました。筒型の白い陶器に、竜胆りんどう、菊、それに雪柳ゆきやなぎが生けられ……、まるで絵画のような美しい眺めでした」若宮が陶然と息を漏らした。

「は、はぁ、そうですか……」木場が当惑しながら答えた。「稽古の後に自分も練習とは、熱心なんですね」

「それで、夕食の後はどうしたんですか?」茉奈香が話を戻した。

「はい。19時半頃、もう一度お部屋に伺いますと、先生はすでに夕食を済まされ。生け花の制作に戻っておいででした。私はお邪魔にならないよう、夕食を下げてすぐに台所に戻りました。食事の後片付けが終了したのは、20時頃だったかと存じます」

「18時から19時まで生け花をして、夕食を食べてすぐにまた生け花をして……。うーん、さすが家元、常に修行を怠らないってわけだね」茉奈香が感心したように言った。

「それで、20時以降は?」木場が尋ねた。

「はい。私は再度私室にお邪魔し、先生にお休みの挨拶を致しました。先生は机で書き物をしておいでで、先ほど生きられた花は傍らに置かれておりました。夕食の前にお見かけしたよりも大ぶりなものになっており、非常に存在感がありましたね。特にあのしなやかな雪柳は、まるで人間が頭を垂れているようで……」

「あ、あの若宮さん。花のことはわかりましたから、先生の行動だけを教えてもらえますか?」

 木場が慌てて言った。いちいち花の講釈を挟まれていたのでは、アリバイを聞き出すだけで日が暮れてしまう。

「……これは失礼致しました」若宮が咳払いをした。「その後、私は自分の部屋に戻って休みました。22時頃に就寝しましたが、その前にお手洗いに行くため、二度ほど先生の私室の前を通りました。先生はその時も書き物をされておられるようでした」

「その、お手洗いに行った正確な時間ってわかりますか?」木場が身を乗り出した。

「そうですね……。あの夜は随分と冷え込みましたから、1時間ほど時間を置いて行った気がします。部屋に戻ってから一度、就寝直前にもう一度。時間にすると21時、22時頃でしょうか」

「ってことは、結局若宮さんは、1時間ごとに花荘院さんを見てるってことか……」木場が手帳に視線を落として呟いた。「19時に夕食を持って行った時と、20時に挨拶に行った時。その後は、21時と22時に部屋の外から花荘院さんの姿を見た。ここから自然公園までは車で約40分、電車だと行くだけで1時間はかかる。行って帰って来るのは無理だな」

「ご理解いただけたようで安心しました」若宮が表情を緩めた。「先生は高名なお方です。何があろうと、殺人などという低俗なことに手を染めるはずがありません」

 木場は手帳から顔を上げて若宮の顔を見た。若宮は揺るぎのない瞳で木場の顔を見返している。たとえ動機があったとしても、師匠を疑う気持ちは微塵もないのだろう。

「お話、ありがとうございました。とても参考になりました」木場が手帳を閉じた。「花荘院さんは夕方に戻られるんですよね。その時に、直接お話を聞かせてもらうことは出来ますか?」

「そうですね……。何しろ御友人の事件ですから、拒否されることはないかと存じますよ。私から御一報を入れておきましょう」

「助かります」

 木場は頭を下げた。ただ、これで事態はまた振り出しに戻ってしまったようだ。渕川から話を聞いた時点では、花荘院が最有力容疑者に思えたのだが――。

「しょうがないね。とりあえず、別の場所を調べに行こうか」茉奈香が気を取り直すように言った。「じゃ、あたし達は一旦引き上げますんで、お話、ありがとうございました!」

 茉奈香が元気よく頭を下げた。そのまま若宮に背を向け、両手を広げて飛石を渡っていこうとする。

「あ、少々お待ちください」

 若宮に呼び止められ、茉奈香が片足を突き出した状態で立ち止まった。身体が前後に揺れたが、やじろべえのようにバランスを取って何とか足を下ろす。

「あぁ危なかった。どうしたんですか?若宮さん」茉奈香が安堵の息を吐きながら振り返った。

「失礼。御髪おぐしに葉がついておりましたので……」

「え、どこですか?」

「帽子の縁の辺り。あなたから見て左側の方です」

 茉奈香が言われた辺りに手をやると、確かに1枚の黄色い葉っぱがついていた。木場から見ると反対方向だったので気がつかなかった。

「やだ、全然気づかなかった。ありがとうございます」茉奈香が取った葉っぱに視線を落とした。「あれ? これって紅葉もみじ……じゃない。楓ですか?」

 茉奈香が不思議そうな声を上げた。手には6枚の切れ込みが入った葉が握られている。確かに楓の形だが、黄色の葉というのは珍しい。

「あぁ……イタヤカエデですね」若宮が言った。「楓の一種ですが、葉が大ぶりで、秋になると黄色く染まるのが特徴です。ちなみにイタヤカエデという名前は、折り重なった葉が板葺き屋根のように見えるところから命名されたそうです」

「へぇ、楓ってみんな赤いと思ってましたけど、別の色もあるんですね」木場が感心した声を上げた。

「ほとんどの楓は紅葉しますので、珍しいことには違いありませんね。色が加わることでより絢爛けんらんな眺めになりますから、この庭園でも数本イタヤカエデを植えております」

 若宮に言われ、木場は改めて庭園を見回した。確かに赤に彩られた木々の中に、数本黄色い木が交じっている。てっきり銀杏の木だと思っていたが、あれも楓だったのだ。

「……先生は、楓お嬢様を本当に大事にされておられました」

 若宮がしんみりした様子で言った。

「この庭園の木々は、お嬢様との思い出を忘れないようにという、先生の御心の表れなのです」

 大切な思い出――花荘院から聞いた花言葉が木場の脳裏に蘇る。この庭園は文字通り、楓との思い出が詰まった場所なのだろう。

 かつて、この庭園を駆け回っていたであろう少女の姿が浮かび、木場は胸が絞めつけられる思いがした。

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