第32話 デート(6)最後の夜

 早苗はステーキとフォアグラを堪能たんのうした。


 大きすぎるのでは、と心配したフォアグラも、途中からくどく感じるようなこともなく、最後まで美味しく頂けた。


「美味しかった……!」

「美味しかったですね。ここにして良かったです」


 食べている間はどちらも夢中になって黙々と食べてしまったので、二人であれがよかったこれがよかったと盛り上がる。


「……それで、この後なんですが」


 桜木が言いにくそうに視線を下げた。


「デザートを、とも思ったんですけど」

「ううん、私、もうお腹いっぱい」


 途中でアイスも食べているし、少し早い夕食なのもあって、フルコースでなくても満腹だった。


「なら、もう少し付き合ってもらえませんか。隣にバーがあるんです」

「うーん……」


 早苗も桜木も食前酒と一杯ずつしか飲んでいない。


 でも、これ以上は……。


 結局値段は最後まで分からなかったし、先ほどうっかりお手洗いに行ってしまったので、きっとまた桜木はもう支払いを終えているだろう。


「お願いします。もう少しだけ早苗さんといたいんです。お願いします……!」


 まだ時間は遅くない。ここまでしてもらったら、逆にここで帰るのも悪いような気もする。


 早苗は条件をつけることにした。


「私に払わせてくれるならいいよ」


 うぐ、と桜木が言葉に詰まる。


 うーん、うーん、と悩んだ挙げ句に、桜木は観念した。


「……わかりました。ごちそうになります」

「よし。じゃあ行こうか」


 意気いき揚々ようようと店を出ると、桜木が早苗の腰にそっと手を回した。


「こっちです」


 ぺしりと叩き落としてもよかったが、エスコートも男性が格好つけたいポイントか、と思い直してそのままにした。



 

 バーでも窓際に通されたが、今度は横並びの席だった。


 こちらの眺めも素晴らしく、店の中が薄暗いのもあって、夜景が良く見えた。ビルの窓の白い明かりと、マンションやホテルの窓の温かい明かりが入り交じっている。


 静かにジャズが流れていて、カウンターの中でバーテンダーがカシャカシャとシェイカーを振る音が聞こえた。


 テーブルに置いてあったメニューにはちゃんと値段が書いてあって、早苗はほっとした。


 相場よりもずいぶん高かったが、非常識ではない。二人で二、三杯ずつ飲んでも大丈夫だった。当然カードは使えるだろうし、現金も一応ある。


 早苗はまたカシオレを選び、桜木は「ごちそうになります」と言って、ウィスキーのロックを頼んでいた。つまみにはチーズの盛り合わせを注文した。


「ウィスキーも飲むんだ?」

「勉強中です。バーで飲んだら格好いいかな、っていう不純な動機ですけど」

「モテそうだね」


 苦笑した桜木にそう言うと、また桜木はぎくりとした。


「いや、別に誰彼構わずモテたいわけじゃないですよ」

「はいはい」

「本当ですってば」

「わかったわかった」

 

 早苗はくすくすと笑いながら、バーで誰かを引っかけたりするのかな、なんてことを考えて、胸の痛みをこらえていた。


 おつまみと飲み物が運ばれてきた後、チェイサーでくるくると氷を回しながら、夜景を眺める。


 ビルの屋上には赤色灯が共り、そのはるか上空を飛行機が飛んでいるのが見えた。さらにその上には少し欠けた月が浮かんでいる。

 

 ロマンチックだなぁ。


 こんな関係じゃなければ最高の夜だったのに。


 二人で黙ったままグラスを傾ける。


 カラン、と氷が鳴った。


 黙々と飲んでいるうちに、頭がぼーっとしてきた。


 ちょっと酔っちゃったかな……。


 まだ三杯目だが、昼間にたくさん歩いたから疲れているのだろう。アルコールの回りが早かったとしてもおかしくない。


「早苗さん」


 早苗がぽわぽわした気分でいると、桜木が耳元でささやいてきた。テーブルの上の早苗の手にそっと手が重なる。


「実は……部屋を取ってあるんです。行きませんか?」


 そういうことか、と早苗は思った。


 だから桜木は早苗をバーに誘ったのだ。


 そりゃそうだ。ホテルのレストランでディナーを食べて、バーでお酒を飲んで。


 いい大人なら、そういう流れにもなるだろう。


「明日は仕事だよ」

「まだ時間はあります」


 早苗は迷った。


 行ってはいけない。もう終わらせなければならない。ここでやめると言わないと。


 でもあと一度だけ。一度だけぬくもりを感じたい。


 頭の中で天使と悪魔がせめぎ合う。


「早苗さんに触れたいんです」


 見上げると、目元を赤く染めた桜木が、熱っぽく早苗を見ていた。早苗が欲しいと訴えている。


「……いいよ」


 早苗は悪魔の誘惑に負けた。




 桜木がリーダーにカードキーをかざし、ドアを開ける。


 キーを壁のスロットに差し込むと、パッと部屋の明かりがついた。


 ダブルの部屋だった。


 だが、思っていたよりも広い。普通よりもランクの高い部屋なのだろう。セックスをするだけなのに、桜木はとことん雰囲気にこだわるタイプらしい。


 桜木がパチンパチンとスイッチを切り、部屋の明かりを壁の間接照明だけにする。


 この部屋からも夜景が綺麗に見えたが、桜木は窓に歩み寄るとシャッとカーテンを閉めた。


「早苗さん、こっちに来て」


 ベッドに腰掛けた桜木が、両腕を広げて早苗を誘う。


 早苗がその隣に座ると、桜木が両手で早苗の腰を引き寄せた。


「早苗さん……」


 髪にキスを落としてから、桜木が早苗のあごをつかみ、優しく上を向かせた。


 目を伏せた桜木の顔が近づいてくる。


 唇に触れるだけのキス。角度を変えて、二度三度。


 これから与えられる快楽を想像して、早苗の体が熱くなった。


 だが桜木は早苗の唇に何度もついばんでくるだけだ。


 それがもどかしくて、早苗は自分から口を開けた。


 桜木が舌に吸い付く。


「ん……」


 舌が絡め取られ、吸われ、甘みされる。


 決して激しいキスではないのに、早苗の息はどんどんと上がっていった。それに呼応するように、桜木も声を漏らす。


 早苗は桜木のひざの上に置いた手を、ぎゅっと握りしめた。


 桜木の口づけは、首へと落ち、耳に移っていく。


「ふぁっ」


 耳の弱い早苗の反応を楽しんだあと、桜木は早苗にささやいた。


「ねえ、早苗さん、一緒にシャワー浴びませんか?」

「え……」


 明るいところで裸を見られるのは恥ずかしい。


「駄目? 俺、早苗さんとイチャイチャしたい」

 

 耳をめながら言われ、早苗は正常な思考能力を失っていた。頭がふわふわしていて何も考えられない。


 桜木が早苗の口をついばむ。


「いいですよね? いいって言って?」


 ちゅっ、ちゅっと、音を立ててキスをしていく。


 その時――。


 ブーッ


 スマホの振動が鳴った。


 桜木は一瞬動きを止めたあと、再び早苗にキスを落とす。


 しかし、スマホがブーッ、ブーッ、ブーッと鳴り続ける。

 

 早苗は桜木の口を手でブロックした。


「電話じゃない?」

「今それどころじゃないです」


 桜木が手を下げさせる。


 プッと着信は切れた。


「俺に集中して」


 桜木が早苗の顔を両手ではさむ。


 ブーッ、ブーッ、ブーッ……


 再度の着信だった。


「……」

「……」


 ブーッ、ブーッ、ブーッ……


「あーっ、くっそ。切っときゃよかった」


 観念した桜木が早苗から体を離し、鞄の中を漁る。


「真奈美かよ……」


 ぽつりと落ちたその呟きを、早苗は聞き逃さなかった。


「出た方がいいんじゃない?」


 桜木の手の中のスマホは、なおも振動を続けている。


「えぇ? ここで? あー、いや……うーん……」


 迷っているうちに、着信は切れた。


 ほっとした桜木がスマホをしまおうとした時。


 ブーッ、ブーッ、ブーッ……


「急ぎじゃないの? 出た方がいいよ」

「すみません……」


 早苗の勧めに従って、桜木はスマホを手に部屋の隅へと歩いて行った。


「何」


 地をうような不機嫌な声だった。


「――駄目。今日は無理。マジで無理。本気で無理」


 会いたい、とでも言われているのだろうか。


「――だから無理なんだって。どうやっても今は無理。――そう仕事。仕事だから無理」


 仕事――。


 その言葉が、早苗の心をえぐった。


 桜木は、早苗といることを誤魔化そうとして、早苗のことを仕事だと言っている。


「――いや、仕事とどっちが大事って……。そりゃあ、そっちだけどさ……」


 仕事わたしよりも真奈美さん――。


 本命は真奈美さん。私はただのセフレ。わかりきっていたことじゃないか。


 私、何やってるんだろう……。


 恋人のいる人を好きになって、あと一度だけ思い出が欲しい、だなんて。


 急にむなしくなってしまった。


「――でもとにかく今日は無理。ごめん。埋め合わせはするから。ごめん」


 桜木は電話を切ると、スマホを鞄の中にしまって早苗の隣に戻ってきた。


「すみませんでした」

「真奈美さんでしょ? 行ってあげたら?」

「いいんです。もう電源切りました」

「でも……」

「俺は早苗さんといたいんです」


 桜木が早苗のうなじに手を添えて、キスを再開しようとした。


 早苗は桜木の胸を両手で押し、顔をそむけた。

 

「どうしました?」

「桜木くん、あのね、話があるの」

「話なら後で聞きます。今は……」


 桜木がまた早苗の顔を自分に向けさせようとするが、早苗はそれに抵抗した。


「待って。先に聞いて欲しいの」

「後で話しましょう? 今日は早苗さんのこといっぱい気持ちよくします。その後ゆっくり聞かせて下さい。一緒に入るのが嫌ならこのままでいいですから」


 キスを諦めた桜木が、早苗の耳に的を変えた。


 ピアスの穴の横をめられて、ぞわりと背筋に快感が走った。


「桜木くんっ、お願い。聞いて」


 早苗は手で桜木をはばんだ。


「嫌です」

「大事な話なの」

「嫌です。聞きたくないです」


 これはもう言い切るしかない、と早苗は思った。


「桜木くん、私ね――」

「早苗さん、俺――」


 二人同時に言う。


「セフレやめたいの」

「別れたくないです」

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