第3話 再会(3)酔っ払い

「んじゃ、早苗さなえ桜木さくらぎくんのこと、よろしくね」


 ほんのりと顔を赤くした加世子かよこが、早苗に向かってひらひらと手を振る。


 早苗の肩――というか首には、飲み過ぎて潰れてしまった桜木の腕が掛けられていた。


 今は歓迎会の一次会が終わって店を出てきたところ。


 先に店を出た前半組はすでに二次会会場に向かっていて、二次会に参加しない組も、捕まる前にとさっさと帰っていた。


 残っていたのは、出来上がってぐだぐだしていた部長を追い立てる役のメンバーと幹事、桜木と早苗だった。


皆瀬みなせさん、やっぱり僕が……」


 営業部隊の側の幹事の新入社員が、代わりを申し出て来る。


「えと、私は……」

「いいのいいの、任せとけば。早苗がいいって言うんだから。あんたは幹事なんだから。あたしたちを店に案内して」


 もごもごと断ろうとする早苗を、加世子がフォローする。相手は新人なのだから堂々としていればいいのに、と自分でも思いはするのだが、そう簡単なことではなかった。


「早苗はいつも二次会欠席だから、気にしないでいいってさ。ほらほら、開発の幹事が先行って待ってるんでしょ。早く行ってあげないと、人数集まらなかったんじゃないかって心配しちゃうよ」

「おーい、幹事ー、行くぞー」

「えっと、じゃ、じゃあ……。ありがとうございます」

「早苗、よろしくねー」


 部長から呼ばれた新人は、ぺこりと頭を下げて二次会組の待つ方へと走って行った。


 頑張ってね。


 早苗は心の中でエールを送る。


 部長はいつになく上機嫌だった。あの調子だと三次会は確実。下手したらそのあと朝までカラオケコースだろう。


 当然強制ではなく、帰っても全く問題ない。


 げんに、幹事役を割り当てられたのに、歓迎会自体の不参加を表明した新人もいる。


 ただ、仕事の査定には何の影響もなくとも、仕事をするのは人間同士。仲良くなっている方がいいに決まっている。


 顔と名前が一致して、ちょっと話したことがあるというだけで、仕事の頼みやすさが全然違うのだ。


 本当は少人数で飲む方が好きな早苗も、こうした理由で、できるだけ参加するようにしていた。


 今日は席を替える社員が多く、自チームのメンバーとはたくさん話ができたし、聞き役にしかなれなかったけれど営業部隊の話がたくさん聞けて良かったと思っている。


 桜木とは結局あれから話せなかったが、同じプロジェクトになるのだから、これから機会はたくさんあるだろう。


 というか、今もこうしてかついでいるわけだし。


「さて」


 早苗は足元に置いてあった桜木の鞄を持った。


「桜木くん、帰るよ。歩ける?」

「歩けます……」


 首に回されている腕をつかんで足を踏み出す。


 ふらふらとしながらも、桜木は早苗のペースに合わせて歩き出した。


 体重もそれほど掛かってはいないし、そこまで酔っているわけでもなさそうだ。


 これなら電車で帰ることもできるだろう。


 早苗は、新人幹事に教えてもらった駅の方面へと向かった。


 マップが見られないのは不安だが、どっち方面かさえわかっていれば、流れていく人についていけば駅には着く。


「もう、主役が潰れちゃうなんて。結構雰囲気変わっててびっくりしたけど、お酒飲み過ぎちゃう所は変わらないね」


 ふふっと早苗は笑った。


 以前一緒に働いていた時も、足元が覚束おぼつかなくなった桜木の面倒を見るのは、トレーナーである早苗の役割だった。


 よくこうしてかついで駅に向かったものだ。


 今日も、テーブルを回っている間に乾杯をしすぎて、加減を誤ったのだのだろう。


 乾杯と言っても、本当に杯を乾かすわけではないし、このご時世で無理に飲ませてくる社員もいないのだが、一口とはいえ挨拶あいさつするたびに飲んでいれば、早苗同様あまり強くない桜木には許容量オーバーだったわけだ。


 飲む振りでもすればいいのに。


 律儀というよりは、雰囲気にまれてしまってつい飲んでしまうのだろう。


 その気持ちは早苗にも分かる。


 つい先日の出来事もあって、早苗もいつもよりも飲んでしまった。


 桜木のペースに合わせてゆっくり歩きながら、二人は駅に到着した。


 居酒屋の看板の白熱灯のような黄色みがかかった明かりとは違い、駅の真っ白な明かりがまぶしい。


「着いたよ。桜木くんの家ってどっち方面? ちゃんと電車乗れる? 鞄ごと社員証なくしたりしないでよ?」


 社員証紛失の事故は、酔っ払って鞄を駅や網棚に置きっぱなしにする、というのが一番多い。


 ビルのゲートやオフィスのドアが社員証の集積回路I Cで開くようになっているのもあって、無くすとかなり面倒なことになる。


 始末書を書くのはもちろん、報告は本部長まで上がり、カードの再発行やらなんやら。


 無事に見つかったとしても、一度紛失したという事実があれば手続きは変わらない。


 桜木は、自分の胸の辺りをぽんぽんと叩いた。


 首から下げて内ポケットに入れているという意味だ。


「よし」


 身につけていれば、たとえ鞄や財布をなくそうとも、社員証は守られる。


 これは早苗がトレーナーとして最初に桜木に教えたことだった。春は歓迎会などで何かと飲む機会が多い。特に新入社員は同期飲みも多い。いきなり無くす新入社員も多かった。


 もちろん早苗も同様にしている。家に帰るまで社員証は外さない。


 実行する社員はほとんどいないが、早苗にしたら不思議だ。絶対無くさないのに。


 ちなみに最も無くしやすいのは会社から支給されている社用スマホだが、こちらは社員証のストラップにつけるルールになっている。社員証を首からぶら下げているのなら、社用スマホを無くすこともないだろう。


「無理……」

「え?」


 駅に入ろうとしたとき、首にずしっと桜木の体重がかかった。ずるずると崩れ落ちそうにすらなっている。


「ちょ、待って待って。ここじゃ駄目。えっとどこか座れるとこ……」


 改札の前で座り込んでは、迷惑以外の何物でもない。


 早苗は周囲を見回して、駅前にある、街路樹を囲う花壇かだんに目をとめた。


 そこのブロックの上になら座れそうだ。というかすでに、一人で座って首をれているスーツ姿がちらほらある。


 早苗はなんとか桜木を運んで花壇に座らせた。


 万が一にも忘れることのないように、鞄は桜木のひざの上に乗せる。


 桜木はその鞄に腕を乗せてぐったりとしていた。


「吐きそう?」

「そこまでは……」

「水買ってくるね」


 近くにあった自動販売機の明かりを目指そうと、身をひるがした早苗のジャケットのすそを、桜木がつかんだ。


「待って」

「いや、水飲んだ方がいいよ」

「行かないで下さい」


 桜木の頭は垂れたままだが、その心細そうな声と、新人の頃の不安そうな顔が重なった。


「でも水分取らないと。うーん……私飲みかけのお茶なら持ってるけど、それでいい?」


 こくり、と桜木の頭が揺れる。


 打ち合わせに行く前に暑くて買った烏龍ウーロン茶だ。


 飲みかけで、しかもだいぶ時間がたっているペットボトルを渡すことに抵抗があった。


 だが、背に腹は代えられない。


 早苗が肩にかけていたバッグから半分ほど残ったウーロン茶を出した。


 それを渡すと、桜木は顔を上げて、ごくごくとそれを飲んだ。


「ありがとうございます」


 ふーっと息を吐いて中身が減ったペットボトルを差し出しながら、桜木は逆の手で前髪をかき上げる。


 わ。


 色っぽいその仕草に、不覚にもドキリとしてしまった。

 

 そう言えば、桜木は大学卒がくそつだから、年齢でいえば早苗と一つしか違わないのだ。


 大人の色気が出てきてもおかしくない歳だった。

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