夜の演奏会

"われわれはほかの名を求めるにはおよばぬ。歌うものがあればかならずそれはオルフォイスだ。彼は去っては来る。彼が咲ききったバラの花に幾日か足をとめることがあるならそれでもう充分ではないか。"

R.M.リルケ『オルフォイスへのソネット』


 竪琴たてごとが森に静かに響き渡ったのは、二千年以上も前のことだった。

 オルフォイスのかなでる美しい旋律せんりつに、森に住む人や動物は魅了された。

 生き物だけではない。

 心の内にじかに触れて震わすような甘い響きは、数百年生きる森の木々や、数万年もの長いあいだ眠る森の岩にまで、新たな命を吹き込んだ。

 風に葉擦はずれが鈴のように軽やかに鳴り、大地が揺れれば岩が身をおののかせて低い声でうたった。

 神々を魅了したオルフォイスの竪琴の音に、この世のありとあらゆる魂が、豊かな生の喜びを享受きょうじゅしたのだ。


 だが、それも今は昔、神代かみよのことだ。


 彼の死後、森は変わった。

 いつしか岩や木々は再び深い眠りに落ち、人や動物たちは共に音楽に耳を傾けることもなくなり、散りぢりに孤独を生きるようになった。

 森は荒れ、秋の実りは減り、風や川のせせらぎが豊かに語らうこともなくなった。限られた自然の恵みを人と動物は奪い合い、憎み合い、傷付け合った。

 そして誰もが歌を忘れ、音楽を忘れ、踊ることも祈ることもなくなり、やがて森から幸福が失われたのだった。


 

*


 

 森を一周してフクロウが降下した先に、おあつらえむきの切り株が並んでいた。

 フクロウは切り株の縁に爪を噛ませてとまると、両翼をはためかせて水滴を飛ばしてから、大きな翼をたたんだ。

「ホー」

 と、フクロウのくちばしから湿しめっため息がれた。

 朝の空気は冷え、翼を濡らして重たくする。森を一周回るだけでも老いたフクロウには一苦労なのだ。

「どうしたっていうんですか、溜め息なんていて」

 カワガラスに尋ねられると、フクロウはさっきよりも僅かに高い声で「ホー」と鳴いて、よくぞいてくれたと言わんばかりに、一気呵成いっきかせいにしゃべりはじめた。

「どうしたもこうしたもあるかい、カワガラスさんよ。森からオルフォイスの竪琴の音が失われて二千年以上、誰もがうたうことを忘れてしまったんじゃ。かつてこの森は豊かな実りと心地良い風、爽やかな香り、そして動物たちの歓声に満ちていたではないか。オルフォイスの音楽が失われただけで、これほど荒廃こうはいしてしまうものだろうか。天上の神々だって、この森のありさまにあきれかえっているだろうよ。なあカワガラスさん、わしらのちからでどうにかできないものかね。森に音楽を取り戻すことができんものかね……」

 勢いよく話し終えると、フクロウは「ホー」と三度目の声をあげた。オルフォイスの歌とは似て非なるそれは、森にたゆたう闇のような、悲哀に満ちた声だった。

「……いかんせん私はただのカワガラスなものでして。どうにも歌は苦手なのです」

 カワガラスは視線をそらし、暗い森を見た。

 木々の葉や枝の成すざわめきと共に、動物たちの息遣いが感じられた。彼らは朝のまだ暗い森から、ふたりの様子をうかがっていた。

「わしも歌は苦手だ。と言っても、わしらには立派な嘴と爪があるではないか。どうにか楽器を弾くくらいのことはできよう」

「おっしゃるとおり、森の動物たちの力を借りれば、やってやれないことはないかもしれませんが……それで本当に、森に平和が戻るというものでしょうか」

 カワガラスは疑心暗鬼だった。

 竪琴の音が森に平和をもたらしていたのは二千年以上も前の神代かみよの話、カワガラスや他の動物たちにとってはもはや伝説だった。

 自分の目で見たことのない幸福な日々を、フクロウの言葉だけで思い浮かべる方が難しい。神代。いかにもきらびやかで喜びに溢れた世界なのだろう。そんな時代がこの世界にあったということですら、カワガラスには想像し難い事柄なのだった。

 フクロウは翼を大きく広げてはためかせると、銀の雫をきらきら散らした。

 フクロウにも神々の一端を成すものとしての矜持きょうじがある。

 神代の終わり、オルフォイスの音楽の喪失とともに、数百年で平和が崩れてしまったとなれば神の名折れだ。二千年以上経った今でもなお、フクロウは神代の名誉を挽回したいと願っていた。

「ああ。音楽が戻ってくれば、平和だって戻ってくるさ。オルフォイスが生きた、神々と人々、そして動物たちの入り混じる、あの幸福な時代のようにな」

「ええ、そうですね。音楽さえあれば……」

 カワガラスは躊躇ためらいがちに、同意の言葉を口にした。心の奥底では、オルフォイスの竪琴の音を、人々を幸福にする音楽を、一度くらいは聞いてみたいと思っていたのだ。


「噂は聞いたよ、カワガラス。なんだって、フクロウが音楽隊を結成しようとしているって話じゃないか」

 猿の声はひどく甲高く、うたうにはあまりに耳障りだった。

「そうなんです、猿さん。あなたはとても手先が器用ですよね。なにか楽器ができませんか。私たちのように嘴がないのだから、管楽器だって演奏できるんじゃないかと思うのです」

 ケッケッケッと、猿はカワガラスをさげすむように笑った。

「そりゃあできるだろうよ。だけどなあ、フクロウに手を貸してやるってのは面白くないだろう。まあ他の動物をあたってくれや」

「そうですか……」

 カワガラスが声を掛けたのはもちろん猿だけではなかった。

 鹿しかうさぎ羚羊かもしかいのししにも声をかけたが、誰もが二つ返事で引き受けるような軽挙を慎んだ。

 ——せめて雲雀ひばりでもいれば、歌をうたってくれただろうに。

 寒くなってからは、彼女はより南の温かい土地へと移ってしまった。

 このままでは森の平和どころか、音楽を取り戻すことすら難しい。カワガラスはフクロウがホーホーと嘆く声を思い出し、寂しくなった。

 立ち去りかけていた猿が、ふと立ち止まった。かと思えばすぐに振り返ると、にやりと嫌な笑みを浮かべた。

「あるいは人間にでも頼めばいいんじゃないか。フクロウお得意の人間へのおべっかでさ」

「……なるほど!」

 猿は皮肉のつもりでそう言ったが、カワガラスは悪くない考えだと思った。

 太古から長きにわたり共存してきた人間と動物の関係にも、この千年で大きな亀裂が生じた。

 両者はかつて共に与え合い、奪い合い、生きていた。人間たちは自然から奪う対価として、神々に酒を捧げた。それがいつのまにか、自然や動物から奪うだけになっていった。

 原因は人間にある。

 動物たちは誰もがそう思ったが、フクロウだけが違った。オルフォイスの竪琴の音を失ったのだから、それも仕方がない。フクロウはいつもそう言うのであった。

「猿さん、ありがとう。なんとか人間たちに協力してもらう方法を探してみるよ。宴を催すことになったら是非とも招待しますね。本当にありがとう」

「ああ、せいぜいやってみることだ。酒が飲めるってんなら、俺だって協力してやらないこともないぜ」

「ええ、ありがとう」

 カワガラスは早速、人間のいる街の方角へと嬉々として飛び立った。


「チッ。馬鹿なカワガラスだ。人間たちが今さら動物の味方になってくれるものか」

 猿は苛立ちをおさえるように、手に持っていた林檎の実を、固く握りしめた。

「かつては林檎だって、こうして人間から盗む必要なんてなかったってな」

 小高い丘から街を見下ろしつつ、自分の知らない遠い過去を思った。

 フクロウのいう神代のことだ。神も人も動物も、互いが互いの領分を守りながら、共に生きていた。幸福な時代だった。とフクロウが懐かしむようによく言った。誰もが笑い、歌い、踊り、あらゆる生きる喜びを享受していたのだ、と。

「そんなわけあるかってんだ。そんな虫のいい話があるんなら、人々はどうして音楽を忘れちまったってんだ。オルフォイスが死んだからって、音楽まで捨てる理由はなかっただろうに」

 ガリっと、林檎をかじった。猿の歯形がくっきりと残る林檎は、太陽の光に艶やかな赤をはじいていた。

 ——うまい。人間はこんなにうまい林檎を作るというのに、どうしてそれを少しばかりも動物には分けてはくれぬのか。

「そんな虫のいい話があるわけ……」



*



 一般的に、鳥の鳴き声は意味を持つものの、単語対応はしていないと言われるのは事実だろうか。一対一対応の関係でシニフィアンとシニフィエが結びつくこと自体は記号性を持つことの証明にはなるものの、配列によって新しい意味を付与できないことを鑑みれば、言語としての文法規則を持つとは言えない。だが、例外もあるという。四十雀が言語を並べてあたらしく文を作り出すという研究は、一つのブレイクスルーになり得るはずだ。恣意的な音の並びと意味が一対一対応を超えて文章を作れるならば、四十雀は言語を持つと言えるのではないか。言葉や単語、ではなく、言語だ。ならば、コミュニケーションも可能なのではないか。人と鳥という種の隔たりを越えての、異種間のコミュニケーションが……。

 などと男は、思案しながら森を歩いていた。

 フィールドワークは男の日課だった。

 森に十箇所以上、小鳥のための餌箱を置いていた。それを一つずつ確認していく。減っていたら足し、汚れていたら掃除をする。

 冬が近く、鳥の数は多くなく、減りが遅かった。腐ればさらに鳥が寄り付かなくなる。一日でなくなる量に調節した。

 栗鼠や狐、猿などに荒らされることもあるが、巧妙な仕掛けで、簡単には掻い潜れないようになっている。一定のサイズより小さな小鳥だけが、餌箱から餌を取れるよう、かえしがつけられ、おまけに入り口も数センチの幅だ。

 男が落ち葉を踏むと、くしゃっと乾いた音がした。

 フィールドワークが直接男の研究に役立つことはない。森を歩きながら鳥の声だけではなく、自然の語りかける音に耳を澄ませるのが好きだった。

 風が吹き、梢でさやさやと鳴る葉擦れの音、遠くで鳴く異性を求める鹿の声、近くの沢を流れる水の音、木が地中から養分をたっぷりと吸い上げる音。

 たくさんの生命に満ちている。と同時に、たくさんの死が隠れている。生まれ、死に、生まれ、死ぬ、循環が大地に堆積し、やわらかな地面を作る。

 男は毎日その地面を踏みしめながら、鳥の言葉について考える。鳥だけではない、動物たちは人間と近い形で言語を用いることができるのか、と思案するのが、ただただ男の楽しみだった。

 時に森からインスピレーションを得ることもある。

 先日、フクロウとカワガラスがすぐそばで互いの声を聞かせ合っていた。異種間でのコミュニケーションというのも、あり得るのではないか。種を守るために互いに利益を与え合うような相互依存的関係はあらゆる生態系において特別に珍しいことではない。そこにはある種のコミュニケーションが生じているはずだ。だが、それは言語と言えるほど緻密で精確な規則を備えたものではない。それでもなにか新しい可能性がそこにある気がする。

 と、男は森から日々学んだ。森は男にとって師であり、教えを乞う対象だった。森は常に男に与え続けた。男はいまだに、森に対してなにも返すことができなかった。

 ——でも、なにかできるんじゃないだろうか。

 男は森の途中で立ち止まった。

 木が切り倒され、開けた空間があった。地元の猟友会が休憩所として設けた場所だ。

 沢から水が引かれ、簡易的な東屋と水場がある以外は、切り倒された木の株がそのままの形で残されている。そこに一羽のカワガラスが止まっていた。以前見た、フクロウと一緒にいたカワガラスのような気がした。

 カワガラスは男の方を見やると、ピッピッピッと短いテンポで鳴いた。なにか伝えようとしている。もう一度、今度はピー、ピーと伸ばして鳴いた。

 男は器用に指笛で音真似をしてみせた。するとそれに応じるように、さらにカワガラスは鳴いた。

 ——コミュニケーションを試みているようではないか。

 気のせいだとはわかりながらも、男はカワガラスの声に合わせ、しばらく指笛を鳴らし続けた。



*



「フクロウさん、フクロウさん。人間たちが集まっているようですよ」

 カワガラスは期待に胸を膨らませ、ピッピッピッと鳴いた。音楽の始まりを予感させるような軽やかな響きは秋の木々の梢をするりと抜け、澄んだ空へと昇った。藍が空を染め、西に残る微かな夕暮れだけが昼の名残を惜しんでいるかのようだった。

「案外彼らも、さみしく思っていたのじゃろうよ」

 開けた森の広場に人々が集い、思いおもいに歓談し、美食を堪能していた。

 カワガラスはそこに、一人の男を見出した。ひょろりと伸びた日陰の雑草のごときその姿には見覚えがある。先日、思いの丈を存分に伝えた人間だった。伝わったのだ。カワガラスの思いが人間と通じ合ったとわかり、にわかに胸の高鳴りを感じた。

「やっぱり人間も求めていたのですよ、フクロウさん。音楽を、森を、自然を、見捨ててなどいなかったのですよ」

「ホーホー。そうかもしれんなあ。食事のもてなしだけでなく、楽器までも用意してあるではないか。器用な人間たちのことだ、わしらが奏さずとも、彩豊かな音色を奏でてくれるじゃろう」

 フクロウは首をぐるぐる回して周囲を見渡すと、最後にホーっと上機嫌な声で鳴いた。

 カワガラスは一度、驚いたようにフクロウを見た。広場に集った人々を射抜くかのようなその鋭い眼差しは、不思議とどこか温かな光を宿していた。思わずハッと息を飲むと、フクロウと同じ場所に視線を落とした。

「……はい。期待しましょう」

 カワガラスは万感の思いで、うんと深く頷いた。


 林道を通じて搬入した大きなピアノにチェロやバイオリン、フルート、オーボエ、トランペット、ホルン、チューバ——どれもフクロウの知らない楽器ばかりだった。オルフォイスの奏でた竪琴は、どうやら残されてはいないらしい。たとえ竪琴があったとしても、それを奏すオルフォイスはもうどこにもいないのだ。

「これで平和が、戻るものだろうか」

 フクロウは闇に目を凝らしていた。

「わかりませんが、音楽はきっと戻るでしょう」

 カワガラスはどこか遠く、宙空をぼんやり見ていた。



*



 演奏会をしようという男の思いつきは、案外大きな広がりをもって人々に受け入れられた。

 男の所属する研究室の主宰するサイエンスカフェに、ほんの気まぐれで提案してみただけのことだったが、動物と人間のコミュニケーションを音楽を通じて試みるというやや突飛な発想が面白いと、バイオリンが趣味の学長が同調したことで、またたくまに学内全体へと広がったのだった。

 ——これはまた、大変なことになったぞ。

 主に研究者たちで形成されたオーケストラは二十人、室内オーケストラほどの規模だが、ちょっとした余興にしては大袈裟なほどに本格的だった。

 男が不思議だったのは、研究者仲間に音楽が趣味の者が多いことだった。生物学から医学、基礎物理や工学など、学問分野は理系に限られていたものの、幅広かった。もちろん研究者だけではサイエンスカフェにはならない。客を三十人から五十人以上も招くとなれば、最大で七十人規模の集まりとなる。

 男にはいくつか懸念があった。

 まず、それだけ多くの人々が訪れて、動物たちが恐れないわけがないということだ。ほんのささやかな楽隊で、暗い森でひそやかな演奏会を試みるつもりだったのに、幸か不幸か、男の算段は見事に外れてしまった。

 そして、人々が訪れることで森の自然が脅かされるのではないか、とも考えた。繰り返し人が森へと足を踏み入れるようになれば、草花を摘んだり、動物をとらえようと考えるものもいるかもしれない。道がなかった場所に、人の足で新しい道ができることも考えられる。そうすれば動物はよりつかなくなるだろう。

 さらには、もしこの演奏会が成功したならば、あるいはもっと大きな演奏会を催そうと考える人がいるかもしれない。木々を切り倒し、空を広げ、光を招き入れて、森の静謐を壊してしまうかもしれない。

 男はそれらが杞憂であることを願いながらも、陰鬱な気分になった。集まった人々がますます盛り上がり、西の微かに残していた橙の空も沈み、暗闇が森の奥からあたりを飲み込み始めていた。

 人のとりかこむ十箇所以上のストーブだけが、森をわずかに照らしていた。


 男は切り株の壇上に立った。

「本日はお集まりいただきまことにありがとうございます」

 男が話し始めると、人々の歓談の声は次第におさまり、穏やかな静寂があたりを占めた。

「勝手ながら私のささやかな実験といいますか、学問とも言えぬほどの趣味にお付き合いいただきますことに、とても感謝しております。こうして音楽を通じて森と関わろうというアイディアは、一羽のカワガラスがきっかけでした」

 マイクで喋る男の声に応じるかのように、ホーと森の暗闇からフクロウの低い声が聞こえた。男がちらと視線を向けると、一本の高い針葉樹の天辺付近にフクロウとカワガラスらしき鳥が留まっているのが見えた。

「以前一度その鳥と出会ったのは、森のちょうどこの場所だったと思います。ピー、ピーとカワガラスが鳴きました。しばらくしてもう一度、同じように鳴きました。私に語りかけるかのように鳴くので、これも一興だと思い、私もそれに応じて指笛を吹いてみせました。ちょうど、こんな風に」

 ピューっと高い音が森に響いた。余韻に重ねるように、微かにピッピッというカワガラスの声が聞こえた。観衆はざわめき、男は一層と注目を集めた。

「あははは。まさしくです。あの時と同じですね。これを単なる偶然とすべきか、それとも、人間と異種のコミュニケーションの萌芽とすべきか。荒唐無稽と笑う人もいるでしょうが……。今日は演奏会、理系研究者の論理性ではなく、少しばかり詩的な感性に心をなびかせてみましょうではありませんか。それでは、演奏者の皆様、お集まりの皆様、夜の演奏会の開演です!」


 手に持ったワイングラスを指揮棒に持ち替えると、指揮者はすぐそばの切り株に座るバイオリニストに目配せした。

 彼女もまた、ジョッキを弓に持ち替えた。高く掲げられた指揮棒が下りると同時に、風が吹き抜けるような爽快な音が人々の間を抜けた。

 パーカッションのリズムに合わせて、大地が微かに震えている。バイオリンの響きと共鳴して、木々がさやさやと葉擦れで囁き、管楽器の高音とともに鳥が鳴き、地中で水の流れが音楽を求めて今にも湧き出しそうだった。

 男がふと闇に目を凝らすと、そこには夜の星の輝きのようないくつもの輝きがあった。動物たちが集まっていたのだ。

 音楽もまだ鳴り止まないのに参加者の老女がひとり唐突に立ち上がると、そばに座っていた青年の手をとり軽やかに踊り出した。青年ははじめいくらかの戸惑いを見せながらも、老女の意外なほど軽やかな足取りに合わせ、若々しいステップを踏んだ。二人を嚆矢に、誰もが立ち上がった。歌をうたうものもいた。音の響きの広がりと共に、理由もわからず泣き出すものまでいた。

 誰もが半狂乱に陥りながらも、顔には恍惚とした表情を浮かべた。平和には程遠い。音楽はある種の悦楽の極地へと人々をいざなっているらしかった。

 森の奥から動物たちの声が聞こえてきた。

 歌だ。ケーンという闇を劈くような鹿の鳴き声や、フガフガという拍を打つかのような猪の低い息遣い、猿のキーという威嚇するかのような高い叫びなど、動物たちも共に音楽に興じた。

 一羽のフクロウが広場の上空を飛んだ。闇をさくように鋭い翼を大きく広げ、金銀の砂を散らすかのように、時々その翼から雫がきらきら散った。

 人々は演奏しながら、歌いながら、踊りながら、空を仰いだ。星の瞬きとフクロウの散らす雫の輝く様とが、まるで天が涙しているように見えた。

 懐かしさに似た感慨とともに、人々は互いの顔を見合わせた。

 音楽があったことを、自然があったことを、動物たちが生きていることを思い出した。

 その笑顔とともに、瞳には真珠のように澄んだ涙が輝いていた。



*



「これで森に平和が戻るかもしれませんね」

「……そう、うまくはいかんじゃろうな」

 フクロウは半ば恍惚とした表情のまま、黄色い瞳で遠く明ける空を眺めた。

「音楽が戻れば、平和も戻ると言っていたではないですか。そのために私たちは人間たちを森の奥深くまで招いたのではないですか」

「ホーホー。わしはそんなことを言ったかのう。いずれにせよ、ほら」

 フクロウの視線の先には、人間からの森への捧げ物で宴を催す動物たちが、楽しげに歌い、踊り、酒に溺れている姿があった。とりわけ猿ははじめ悔しそうに嘆いていたのに、いつの間にか鹿の背に乗り、角をつかみ、その首を前後に揺らしながら、なぜか涙を流していた。

「……わしらにできることは、今日のこの幸福を、喜びを、長く歩むことだけじゃろう。森の平和は、作るものでも成すものでもないのじゃろうて」

「……そういう、ものですか」

「そうじゃ」

 ホーホーというフクロウの朗らかな鳴き声が、微かに明けた森にしんと響いた。

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