人質

 老人の手は震えていた。感情の昂りのせいか、単なる年齢による衰えなのか、女は判断しかねた。小さなメモには「札を全て出せ」と書いてある。深夜のコンビニでは、あっても五万に満たないくらいの金額しかレジには置かれていない。反対の手に握られた果物ナイフでは、老人の力では誰も殺すことなどできないのではないかと思う。それに、その老人の眉を寄せていかにも苦痛に歪むような表情を見れば、恐怖以上に同情を感じてしまった。

「はい。すぐにご用意しますね」

 女の丁寧な対応に、老人はかえって狼狽えた。動揺しているのは脅されている側ではなく、脅している側なのだ。あべこべになった関係性がまたおかしくて、女の口からくすりと笑いが漏れた。

「……はは」

 何故か老人も、女に同調するかのように笑った。乾いた笑いだった。他に客はいないし、来る気配もない。外の煌々と照るライトに虫が集まっているくらいで、駐車場には一台も車がとまっていない。

 女は二つ目のレジが空っぽであることを知っていた。老人の目にもそれは明らかで、中の黒い札入れの箱が、全開のレジの上にわかりやすく置かれていた。これも強盗対策のひとつなのだろうかと、日頃当然のことのようにやっていることの意味を、女ははじめて納得した。レジのロックを解除して一万円札を三枚取り出し、老人の前に並べた。

「今はこれしかないんですよ。深夜はあまり置いていないの。だから、今はやめてまたお昼にお越しになってはいかがですか」

 老人はぽかんと口を半ば開き、何を言うでもなくただ立っていた。

 女はさらに五千円札、千円札、小銭をトレーに入れて老人の前に出した。深夜のコンビニなど強盗する甲斐がまるでないことを、こうすれば理解してもらえると思ったのだ。女にとって老人は、脅威である以上に弱者であった。未来の自分の姿を重ねてなんとなく寂しい気持ちになる。独りなのだ。

「……もっと、あるだろう」

 老人の言葉を反証するように、空っぽのレジを見せた。納得して帰ってくれるとは思わなかったが、女は他に手段がなかった。現金をそのままにバックヤードに入った。防犯カメラに、女の背を最後まで視線で追いかけていた老人が、ぼんやりとバックヤードの扉を見ている映像が映っていた。まるでそれが、孤独を埋める最後の手段かのような、縋るような視線だった。

 女は緑色の買い物かごに積まれた廃棄の山から二、三弁当を取り、ビニールに入れた。カメラの映像には、レジの前に立つ老人の姿がまだ映っていた。レジ上のポップが換気の風に揺れているのに、老人だけが微動だにしない。蛍光灯の光がストロボ効果でちかちかと映像内で点滅して見える。明滅の一つひとつに、老人の表情が浮かんでは消えを繰り返しているものの、変化を拒むかのように、老人はただそこに立っている。そうしていつか終わりが訪れるものと期待しているかのように、立っている。

 女はしばらく様子を見ていた。老人の望むものが女にもわかる気がした。たとえ現金が二十万ほどあっても足りないのだ。一度は達成感に心が満たされる瞬間があっても、またすぐに不足してしまう。欠けている。それを埋めるのに、三、四万でも百万でも、老人や女にとっては同じことだった。

 金を取って去る様子もなく、バックヤードに入った女にさらに多くを要求することもない。女は店長の椅子に腰掛け、映像越しに老人と睨み合った。弁当をさらに一つ、かごから拾いあげると、レンジで温め、それを食べた。女と老人は長い間そうしていた。そうしてそのうち、終わりが来るものと信じていた。そして、実際に来た。

 エンジン音が駐車場から聞こえた。客だ。女は仮眠を取っているときでも、客が来ると店に入る前から大体はわかる。バックヤードから出ると、ちょうど客が入って来るところだった。

「いらっしゃいませー」

 女の声に、老人はビクッと肩を跳ねさせた。老人と女は向かい合っている。あらたな客はその奇妙な光景を気に掛けることもなく、雑誌の前を抜けて奥の冷蔵庫へと向かった。

「これ、食べていいから。今日は帰ってください。こんな金額を盗んでも仕方ないでしょう」

 女は袋に詰めた弁当やサラダを老人に差し出した。老人は黙って受け取った。トレーに置かれたままの金には手をつけようともしなかった。女は思う。

 ——ああ、きっとまた来るな。辞めなきゃじゃん。

 老人は店を出た。すぐに新しい客がペットボトルのカフェオレとパンを一つ買って、急くように店を出た。女はひとりだった。

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