これ文章違う。うまく言えないけど違う。観念の説明文にしかなってない。(説明文と描写は違う)五感使った皮膚で感じる触覚のような文で書けば完璧だった。素晴らしいチャレンジだったのに惜しい!そして男の子にはこれが限界なのかとも思う。それは女の専売特許かもしれない。(今回の芥川賞候補は全員女でした)ちなみに、私は66歳。それだけ生きてた経験者としての言葉です。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
おっしゃる通り、ここが今の私の限界なのかもしれません(男女関係なく、私の実力の問題です。強いていうならば、私のうちにある男性性と女性性の問題、と換言できるかもしれませんが)。
これを書いた時に、そもそもの出発点が論理的批判にあったのだと思います。それゆえ、肉付けしていく過程で説明的な文章が先行し、描写が甘く、薄くなったのでしょう。
私は書いているとき、「論理」が走ることもあれば、「感覚」が走ることもあり、その時の自分に任せるままにしております。とりわけ、この掌編集においては。
なんだか言い訳がましくなってしまいましたが、どうかご容赦ください。
源公子様のコメントにより視野がひらけ、作品を改善する余地が大きく広がったような気がします。
お読みいただきありがとうございました。
例えば、賞レースに勝ったら、その主催者が
連続出版を約束してくれるかも知れない。
第02話の「もっともっともっと」にも通じる所があって
一作の受賞と、無冠の凡人の差は大きい。
受賞してからが地獄だよって声も聴こえて来るけど
いわゆる書き溜めた原稿が活きて来るのは受賞後の世界です。
一つの目的を果たしたらその件は終わり。
そう言う筋書きの話でしたね。
独りの死刑囚と、男の妻娘が死ぬ話。
僕は不殺の誓いを立てています。
話の成り行きであっても、人を殺さない。
吹雪斬と言う少年がコロナウイルスで絶命する描写しましたが
一年の内、四十九日ほど生き返られる特例を敷きました。
黄泉の短冊と言う冥界の道具を使用します。
不殺の誓いは守れませんでしたが
斬少年はその短い期間を謳歌しています。
作者からの返信
不殺の誓いですか、面白いですね。(一時期私は、必ず作中で誰かを殺す、というのをやっていました)
生を描くには死の側から見てみるのが手っ取り早いので、私はそのための道具としてすぐに死や自殺に手を出してしまいます。
とりわけ小説において死はすぐに持ち出したくなる道具です。
そもそも、そのくらいに死は必然的でありふれているわけなのだと思います。
ただ、その安易さに寄りかかってしまうと、肝心の死そのものを忘れて書けなくなる、と同時に、生も書けなくなるのかもしれません。
最近、自分で書いているものに「生」と呼べるものが希薄になっているような気がしています。
その希薄さを、さらに書けないものだろうか、などと考えています。
薄い生でも、私たちはおそらく生きていけるだろうから。そうした希薄さ、軽さ、平凡さ、つまらなさ、そういうのを、書きたいのかもしれません。
とても話がそれました。
お読みいただきありがとうございました!