Ⅰ.殺人鯨とクラゲの魔女

1.チェック・イン

「……思っていたよりずっと静かだ」


 キーラの囁きは、彼女がまたがる大型バイクの排気音に掻き消された。

 黄金色の陽光が山々を照らし、底辺に横たわる湖を輝かせていた。

 赤、青、黄、緑――湖岸に並ぶ家々は鮮やかで、まるで絵本の世界のようにみえる。しかし今はいずれも色褪せ、静まりかえっていた。

 信号が赤に変わる。

 街はがらんとしていて、車はおろか人の気配すらない。それでもキーラのバイクと――その前を走る一台の黒い車は、律儀に信号に従った。

 停車中、一枚の看板がキーラの目に留まった。

 すっかり色褪せているが、どうやら水着で泳ぐ男女を描いたものらしい。ほとんど白くなっている太陽の側には、茶褐色の文字でこう書いてあった。


『アメリカに残された最後の楽園――幸福の街サンセットレイクにようこそ!』

「……本当にそう思ってる?」


 思わず呟いたところで、信号が青に変わった。

 キーラはそこからしばらくバイクを走らせ、目の前の車に続いてある駐車場に入った。

 専用のスペースにバイクを止めると、キーラはヘルメットを外す。

 緩く首を振ると、肩に触れる程度の長さの赤髪が零れる。

 柔らかな日差しの下に晒されたのは、無機質なほどに整った女の顔だった。表情はなく、それが氷の彫像めいた美貌をいっそう際立たせている。

 切れ長の瞳は深海を思わせる群青色で、光を吸い込んでいるようにさえ見えた。

 黒いライダースジャケットの襟元を開けつつ、キーラは振り返った。

 湖岸の家々と雄大な湖とを眺め、彼女は小さくうなずいた。


「……悪くない」


 言うが早いか、キーラは荷物から一冊のスケッチブックと鉛筆とを取り出した。

 そうしてざかざかと音を立てて、一心不乱に湖を写生し始める。


 キーラ・ウェルズ。二十四才。

 しがない画家だと、周囲には自称している。


「ちょっとちょっと! キーラ!」


 女の声に、キーラはスケッチブックからちらっと視線を上げた。

 先ほど前を走っていた黒い車のドアが開く。

 そしてそれとほぼ同時に、小柄な女がそこから飛びだした。スカル模様のTシャツの上にオレンジと黒のジャンパーを引っかけつつ、まっしぐらにキーラへと駆け寄ってくる。


「一体全体なにしてんのさ! ここ駐車場だぜ!」

「そうだよ、駐車場だ。だからあんまり騒ぐんじゃないよ、シドニー」


 淡々と答えるキーラに、バイクの傍に立ったシドニーは「まったく!」と頬を膨らませた。

 シドニー・ダーウィン――年齢はキーラとほぼ変わらないはずだ。

 しかし、童顔のせいでどうも全体的に幼い印象の女だった。

 さらりとしたキャラメルブラウンの髪といい、大きくくりっとしたオレンジ色の瞳といい――溌剌とした言動も相まって、十代の少年のようにさえ見える。


「それで? なにしてるんだ?」

「写生だよ。見てわからないのか」

「おいおい……数秒前にも言ったがここは駐車場だぜ、画家センセ?」


 黒い手袋を嵌めた両手を広げ、シドニーは大げさにジェスチャーをとってみせる。


「せめてチェックインを済ませてからにしなよ」

「わかってないね、シドニー。この景色はね、今この瞬間しか――」

「写真を撮って後からそれを元に描けばいーじゃん」

「……わかってないね、シドニー」


 キーラは一瞬だけ唇の端を下げると、スケッチブックを閉じた。

 シドニーはきょとんとした顔で首を傾げる。


「え、なんで? スマホ持ってるだろ? それで写真撮ってさ、あとで時間がある時にゆっくり描けばいいだけだろ? 僕ならそうするな」

「私ならそうしない。――それでシドニー、運転手はどうしたんだ?」


 スケッチブックを片付けつつ、キーラはシドニーの乗っていた黒い車に視線を向ける。

 シドニーは反対側に首を傾げて、同じように車を見た。


「あれ……どうしたんだろ? レティ、降りてこないな」

「君がうるさすぎて自害したんじゃないか?」


 言いながらキーラはバイクのキーを抜き、荷物を背負った。


「まっさかー。僕、今日はほとんど寝てたぜ? そんなにうるさいはずがないよ。今日の僕はいわばマナーモードだったよ。いや、本当に静か。オリンピックの種目に『沈黙』とか『静寂』とかがあったら間違いなく金メダルを取れるくらいには――」

「それ以上喋ったら喉を掻っ切るよ」

「うわ、おっかなっ。――じゃ、僕は先にチェックインしてくるよ」


 わざとらしく肩を震わせつつ、シドニーはキーラを追い越して駆けていった。

 その後ろ姿を死んだ目で見送り、キーラは黒い車の傍に立つ。そして身を屈めると、静まりかえっている運転手側のウィンドウをこんこんと叩いた。


「……レティ。大丈夫?」


 一瞬、間があった。

 やがてゆっくりとウィンドウが下がり、げっそりとした運転手の顔が現われた。


「……ねぇ、キーラ。あんた、確か車持ってたわよね?」


 レティ――レティシア・ミュリナスは抑揚のない声でたずねた。

 まず目を引くのは、見事な黄金色のウェーブヘアだ。緩く波打ち、腰まで届くそれには、ダークグリーンやライムグリーンの様々な色合いの緑のメッシュが混ざっている。

 長めの前髪から覗く気怠げな瞳は、美しい翡翠色をしていた。

 珊瑚色の唇、長い金の睫毛、すっと通った鼻筋――いずれも、見事な黄金比をなしている。

 そんな美女が、今は死んだ顔でハンドルに体を預けていた。


「持っているよ」

「お願い……次からあんたがあの子を載せてよ。もううるさくてたまらない」

「……シドニー、今日はほとんど寝てたんじゃないの?」

「寝てたわ。寝てるけど寝言がうるさいの。しゃべるし、けたけた笑うし。起きててもうるさいのに眠っててもうるさいって気が狂ってるの?」

「あいつに運転させればいいじゃないか」

「ハッ、冗談じゃないわ」


 レティシアは吐き捨てるように言って、体を起こした。

 エンジンを切り、ダークグリーンのダッフルコートを羽織りながら車の外に出る。


「あの子、信じられないくらいに運転が荒いの。それに運転中もずっとしゃべってるし……」

「それは困ったものだね」

「……ねぇ本当にお願いよ、キーラ。次はあんたがシドニーを載せ――」

「冗談じゃないよ。おことわり」


 車のトランクから自分の荷物を降ろすレティシアをよそに、キーラは歩き出した。


「それに君とシドニーは同僚だろう。あいつが店長兼バーテンダーで、君はウェイトレス。同じバーで働く仲間じゃないか。部外者の私があいつを載せるのは変な話だ」

「あんたはあたし達と同僚でしょ。ぜんぜんおかしくないわ」


 キーラに追いすがりつつ、レティシアがなおもしつこく言葉を続ける。


「……『元』同業者だろう」

「なんだっていいわよ。面倒くさいわね。ねぇ、ちょっと。なんだったら、次からドリンク代サービスしてあげるから。だから今度はあんたが、あのうるさいのを――」

「――おーい、二人とも!」


 まさにその時、『うるさいの』の声がした。

 キーラとレティシアは、まったく同時に声の方向に視線を向ける。――キーラは死んだような無表情で、レティシアはうんざりしきった表情で。

 駐車場の先で、シドニーが手を振りながらぴょんぴょんと跳ねていた。


「全員揃ってたほうがスムーズみたいだ! だから早く来てよ! ほら! 早く早く!」

「……ったく。せわしない子ね」


 小さく舌打ちしつつ、レティシアが軽くシドニーのほうを顎でしゃくった。


「行きましょう。早くゆっくり過ごしたいわ」

「そうだね」


 キーラはうなずきつつ、シドニーの背後に目をやる。

 そこには、どっしりとした落ち着きのある建物がそびえている。去年リニューアルしたばかりだというその場所は、古さと新しさとを織り交ぜた瀟洒な佇まいをしていた。

 玄関には、このホテルの象徴の一つだという太陽を模したブロンズ像が掲げられている。

 そしてその下には黒い看板があり、金文字でこう記されていた。


『レッドサン・パレスホテル――太陽のようなぬくもりをあなたに』


「ぬくもりより、画題が欲しいな」


 寂れた街には不釣り合いなほどに輝くホテルを前にして、キーラはすっと眼を細めた。


「きれいで、激しくて……そう、私の心を動かすような……」

「――ねー、せっかくだからあの太陽像を前にして写真撮らない?」


 シドニーの言葉に、我に返る。

 見ればシドニーはさっそくスマートフォンを取りだし、カメラアプリを起動させていた。


「……こんな場所でセルフィー? あんたも好きねぇ」

「好きだよー。だから撮るんだ。滞在中もじゃんじゃん撮って、店のイントログラムとグリッターにあげまくるから! 二人とも覚悟しといてね」

「いつものことでしょう。まったく……たまにはスマホを置いたら?」

「諦めたほうがいいよ、レティ」


 かつかつと靴を鳴らすレティシアに、キーラは淡々と口を挟む。


「自撮りが原因で仕事を一つクビになった奴だよ。今さら何を言っても無駄さ」

「もー! なんでもいいからさぁ! ほら! いいから並んで、並んで!」


 両手をせわしなく動かし、シドニーは急き立てる。

 レティシアは心底うんざりとしたようにため息を吐きつつも、それでもシドニーの傍に寄った。なんだかんだシドニーには甘いようだ。

 キーラはというと、そのまま動こうとしなかった。

 なので、シドニーとレティシアが彼女の傍に寄る羽目になった。


「こんの……! ちょっとは屈んでよ! 少しは映ろうとする努力をしろって!」

「やだね。私は映る気はない」

「もー、この画家センセときたら! ほら、レティ! 頑張って! キーラも映すよ!」

「……耳元で怒鳴らないでくれる? あと押さないで」


 シドニーとレティシアが、ぎゃんぎゃんと喚きながら押し合いへし合いする。

 その声にやや眉を寄せ、キーラは小さくため息を吐いた。


 ――視線。


 とっさに振り返る。

 三階の角部屋――その窓辺で、誰かが自分達を見つめていた。

 一瞬だけ、目が合った。直後、相手は慌てた様子でカーテンを引いた。

 窓が隠される。相手の姿が消えてなおも、キーラはしばらくその窓を見つめていた。


「…………あの子」

「――あ、行けた! 行けたよ! やったよ、レティ! この距離ならレリーフもキーラもいい感じにフレームに入るぞ! いやぁ、遠近法は偉大だね! かわいい弟のジョシュアにも見せてやりたい神がかった構図だ! 見てよレティ! やっぱり僕って天才じゃないか?」

「いいからとっとと撮りなさい……面倒だわ」


 シドニーとレティシアがぎゃんぎゃんと喚きながら、写真を撮ろうと苦心している。

 それを無視して、キーラは窓をじっと見つめ続けていた。

 この距離では、はっきりと姿は見えなかった。しかしキーラの鋭い目は、窓硝子の向こうにいたのが女だということはどうにか見抜いた。


 妙に青ざめた顔をした、若い女性だった。

 黒髪か、茶髪か――恐らく暗い色の髪をしていた。恐らくはゴシックロリータ風の装いをしていたと思う。そのせいで、一瞬だけ人形のようにも見えた。

 印象的だったのは、その瞳。

 色こそわからなかったが、不安げなまなざしがどうにも印象的だった。


「キーラ! こっち向け! 笑え! 写真を撮るぞ!」

「やだね。金取るよ」


 振り向きもせず、窓を見上げたままシドニーは答える。

 妙にふわふわとした心地だった。三階の窓越しに見た女の顔が、何故だか忘れられない。


「……興味深い」


 キーラは一つうなずくと、上の空のまま玄関ポーチに向かって歩き出した。


「あー! こら! キーラ! ちょっと――!」

「もういいから撮れ! 殺すわよ!」


 背後で怒号とともに、シャッターの音が微かに聞こえた。

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