第5話

 気がつくと、僕は校庭のグラウンドを走っていた。


 かなり前方に、ジャージ姿のクラスメイト達が同じように走っているのが見える。僕もジャージ姿だ。さっき腹部を貫通していた槍の傷は消えているが、たとえようのない苦痛の記憶が僕の精気を確実に奪っていた。


(ど、どうして僕は今走っているんだ? 体育の持久走? って、これって、僕はビリってことか? まあ、それは、いつものことだけど)


 体育はN高の受験に何の関係もない。はっきり言って時間の無駄だ。僕はさっさとリタイヤしようと思って、先生を探した。しかし先生はおらず、かわりに背後からごろごろという鈍い音がして、僕は振り返った。球状の巨石が回転しながらものすごいスピードで僕に迫ってきていた。


「うわあああああああ」


 僕はあっという間に巨石に轢かれ、ぺしゃんこになった。うつ伏せに倒れた僕の顔は地面にめり込み、内臓が潰れ、体がばらばらになる。それでもなぜか死なずに、体を痙攣させながら呻いていると、頭上からクラスメイト達の笑い声がした。


「だっせえ」


「あ~あ、もっと体力つけないと、どこも受からないぜ」


「クラス一の落ちこぼれだよ」


 落ちこぼれ?


 僕は普通科を受験するんだ。なんで体育がそんなに関係あるんだよ。脳みそが筋肉の人間に、落ちこぼれ呼ばわりされる覚えは、ない、ぞ……。そこでまた意識が途絶えた。



 今度は給食の時間だった。


 僕の目の前にはコッペパンと、春巻きと、酢豚が並んでいる。正直、どれもあまり好きじゃない。とくに酢豚のピーマンと、玉ねぎが、僕は大嫌いだ。


「あーっ、ガリ勉、給食残してる! 」


「ホントだ! いけないんだ」


 突然クラスの誰かが叫んだ。ちょっと待て。まだ何も口にしていないじゃないか。


「給食残した奴は釜ゆで決定! 自分が給食になるんだぜ」


「釜ゆで、釜ゆで」


 気付けば釜ゆでコールがクラス内で巻き起こっていた。いつの間にか教室の前には大きな鍋が用意されており、たっぷり入った湯が、ぶくぶくと音を立てて沸騰している。


(いつ登場したんだこの鍋!? )


 そんな疑問を投げかけている間に、僕はとっととクラスメイト達に抱えられ、沸騰するお湯の中に「せえーの」で放り込まれた。


「ぎゃあああああああ、熱い熱い熱いいい」


 僕は熱湯の中から必死に這い上がろうとしたが、ケラケラ笑い合うクラスメイト達に押さえつけられ、逆に沈められた。


「給食残すなんて、落第だよ、お前」


「こんなダメなやつ、はじめて見た」


「負け組」


(ま、負け組……ぼく、が……)


 僕の意識は三度飛び、また場面が変わった。



 僕が通っている塾だった。熱湯に入った形跡は跡形もなく消えていたが、体を痛めつけられたという事実と、言葉で罵られたショックは大きく、僕の頭はすでに朦朧としていた。


(ああ、なんなんだよこれは。苦しみが絶え間なく襲ってくる。まるで地獄だ)


「さて、昨日やった模擬試験を返すぞ」


 講師が壇上で明朗に言った。僕は死人のような足取りで、テストを受け取りに前へ出る。そして、点数を見て、愕然とした。五教科とも零点だったのだ。五つ見事に並んだゼロという数字が、僕の心臓をえぐった。


「うそだろ……」


 僕の手から答案用紙が次々とこぼれ落ち、空しく床を滑ってゆく。名前の記入忘れなどではなく、正真正銘の零点だ。生まれて初めてとった。


「れいてーん」


 突然講師が大真面目な顔で、怒鳴った。


「れいてんは、八つ裂き、やあーつうーざあーきいい-」


 講師がそう言い終わるや否や、一瞬にして僕の体があちこち引き裂かれた。肉が裂け、体中から血が噴き出す。あまりの痛みに僕は声も出せず、ただただ紙きれみたいに裂かれていった。

 だんだんぼろぼろになっていく僕の周りで、講師と塾生が、れいてん、の合唱を繰り返していた。

 僕は苦痛の渦の中で、声にならない声を絞り出す。


 だれか、だれか助けてくれ。


 ここは地獄だ。


 たすけて、たすけて、たすけて。


 しかしここが地獄なら助けはこない。地獄は永遠の苦しみだ。僕は無意識にそれを理解しているのか、心のどこかで絶望していた。目はとっくに色を失い、灰色に濁っていた。死んだ魚だ。







 オレは、「開かずの間」と呼ばれている教室の前で、呆然と、立ちつくしていた。


今、その教室のドアは閉ざされている。鍵がちゃんとかかって、もとどおりの「開かずの間」だ。

 だけどさっき、このドアは開いていたんだ、確かに。ガリ勉の奴が中を覗いてたもんだから、オレも興味本位で覗いた。

 このドアの向こうは、地獄だった。

 地獄と呼ぶのがふさわしい。ガキの頃読まされた教訓めいた絵本の挿絵そっくりの光景だった。

 串刺し、釜ゆで、ぺしゃんこに潰される……そしてそれらは永遠に終わらないのだ。死ぬことはできない、永遠の苦しみ。たしか絵本にはそんな風に書いてあった。


 ガリ勉は、地獄へ行ってしまった。


 オレが止めるのも聞かず、あいつは、ドアの向こうへ。顔は無表情で、目はずっと地獄の方を見つめていて、少しもブレない。いつもはひ弱なもやし程度に思って、軽く見ていたが、あのときのガリ勉には戦慄ってやつを覚えた。ガリ勉が中に入ると、ドアが勢いよく勝手に閉まり、カチャリと鍵がかかった。それからはなんの音もしない。


 そのとき、進路指導室のドアが開いた。初老の男教師が顔を出す。


「なんだ、篠崎、来ていたのか、こっちは待ちくたびれたぞ。なんだか騒いでいなかったか、お前」


「先生、ここって、開かずの間って呼ばれてるよね? 地獄に続いてるって、ウワサがあって」


「ほう、たしかにあるな。そんな根も葉もない噂が。そこはただ鍵を紛失して開かないだけだがな」


「でも、今ここ開いてたんだぜ? 中は本当に地獄で、ガリ勉が、中に入って、出てこなくなった」


「誰だ? ガリ勉って」


「誰って、うちのクラスの……あれ? 」


 誰だっけ?


 オレは混乱した。思いだそうとすれば、思いだそうとするほど、頭にもやがかかったようになって、思いだせない。オレはさっき、誰と一緒にいたのだろう? いや、オレ一人だったか? そもそも、オレ、このドアの前で、何してたんだっけ?

 何かショッキングなものを見たような気がするが、なんだっけか?


「篠崎、下らない噂にかまってるヒマがあったら、受験するのか進学するのか、進路を決めろ。もう十二月だぞ。そのドアが地獄に続いていたら、なんだっていうんだ? 地獄見学でもするのか」


「わかってるよ、つまんねえ噂だってことは。ま、地獄があんなら気に食わないやつでも誰か、ためしに落としてみるか」


「やめておけ、篠崎。誰かを本気で地獄に落とそうとするような極悪人は、


 先生の目が一瞬鋭く光った気がして、オレは不覚にもちょっと怯んだ。まあ、オレはそんな卑怯なことはしねえで、イラつく奴には直接文句を言うがな。


「それもわかってる。ジョーダンだよ」


 とりあえずオレは、先生の前で肩をすくめて見せた。


 次の日クラスでなぜか突然机が一つ余り、ちょっとした騒ぎになったが、みんな受験が近いのですぐに忘れてしまった。


(BAD END)

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