地獄へ落ちろ

ふさふさしっぽ

第1話

「一号棟の三階にある、開かずの間って、地獄に続いてるんだって」


 そういう噂が、僕の中学にはある。馬鹿げた怪談話だと思う。


 確かに一号棟の三階に鍵を掛けたまま放置されている教室があるが、たんに鍵がどこかへいってしまっただけで、十年くらい前は普通に使っていたと、あっさり担任がホームルームで教えてくれた。

 というより、どうでもいいんだ怪談話なんて。怪談なんて、夏季限定で盛り上がるだけじゃないか。

 十二月の今、僕はとても忙しい。なんたって、受験生なのだから。

 名門N高合格。それが今の僕の目標だ。

 両親も口には出さないが僕にはとても期待していて、その証拠に僕の受験のためなら投資を惜しまない。一流塾に通わせてくれ、勉強のために必要なものはなんでもそろえてくれる。勉強の邪魔は絶対にしない。

 とにかくN高合格が輝かしい未来のための第一歩なんだ。僕の家は一般の中流家庭だから、小学校から私立には通えない。中学も同様だ。だけど天下の偏差値を誇るN高に入りさえすれば、一流大学への道が開かれる。一流大学に入れば、一流企業への道が開かれるというわけさ。なんと単純明快な公式だろう!

 そう、単純だからこそここで失敗するわけにはいかないのだ。いまここで遊んだり、下らないことに熱中したりして、あとで後悔しても遅い。僕のクラスにはそれがわからない愚かな連中がたくさんいるが、結局彼らは僕と違って一生兵隊で終わる運命、それだけの人間だということだ。


 まったく、学校にいる時間がもったいないなあ。凡人にあわせて勉強しているヒマは僕にはないんだよ。学校が終わったらそのまま塾に直行して、特進コース(少人数制)で四時間みっちり勉強して、家に帰ったら夕飯のあとに塾の復習をして、そのあと予習して……。


篠崎しのざき、HR中は音楽を聞くんじゃないと、何度言ったら分かるんだ」


 僕がそんなことを考えていると、帰りのHR中である担任は、突然教室の隅に向かって怒鳴った。ああ、またあの馬鹿だ。


「聞いているのか、篠崎」


「へいへい」


 篠崎と呼ばれた生徒は、窓際の一番後ろという不良の定位置に、だらしなく軟体動物のように着席し、けだるそうに答えた。僕はいらいらした。このHRがはやく終わればそれだけはやく塾へ向かえるのに。塾が始まる前に講師に聞きたいことが山ほどあるから、一分一秒でもはやく塾に行きたい。そんな僕の思いをよそに、篠崎は、ネクタイを緩めに結び、足を机の上に投げ出して、椅子を傾けてバランスをとって座っていた。そのまますっ転べと僕は念じた。


 結局篠崎に対する先生の小言でHRは通常よりも長引いた。なんということだ、十二分の時間を無駄にしてしまった! 数学の証明問題がこの間に一問は解けるはずだ。篠崎め、僕の勉強時間を奪いやがって!


「おい、睨むなよ」


 帰り際、篠崎は僕の行く手を阻むように立ちはだかり、わけのわからない難癖をつけてきた。


「おいガリ勉、なんだってさっきはオレのほう睨んでいやがったんだ? ガンつけてんじゃねえよ」


 僕は無言。こんな奴の相手をするのは馬鹿馬鹿しい。


「おい、なんとか言えよ、この陰気野郎が。おいっ聞いてんのか」


 こいつは「おい」しか言えないのだろうか。生活態度が乱れてだらしがなく、その上ボキャブラリーが貧困と、程度の低さもここまでくると救いようがないというものだ。

 僕はあきれてものも言えないので、篠崎の脇をすり抜けて教室を出ようとした。すると、篠崎は素早く僕に足をかけてきて、僕は顔面を打ちつける格好でべしゃりと転んでしまった。


「あはははは! だっせえ、なにこいつ、カエルみたいにのびてやがる。ガリ勉く~ん、もうちょっと反射神経をなんとかしたほうがいいんじゃないですか~、あったらの話ですけど~」


 床にうつぶせている僕には周りの様子は見えなかったが、クラスのみんなの視線が後頭部に嫌というほど突き刺さっているのが感じられた。そして篠崎ブラス篠崎の低レベル仲間一行の嘲笑がふりそそぐ。


「いつまでそうしてんだよ、ガリ勉! 」


「立ち上がり方を忘れたのかな~? 」


「おべんきょばっかしてるからだよ」


 ああ、塾に遅れる。ただでさえHRが伸びて時間を無駄にしたというのに、またしても、こいつのせいで。こいつは僕の邪魔をする。どうせろくに将来のことも考えていない馬鹿のくせに。馬鹿のくせに!


 僕はよろけながらなんとか立ち上がり、そのまま後ろを見ずに教室を出た。あんな奴らと話す価値などない。僕は塾に行かなければならないのだから。


 喉と鼻に違和感があると思ったら、鼻血が大量にでていた。手は血でべとべと、学生服は汚れ、頭はふらついている。ああ、くそっ。なにもかも、あいつのせいだ。

 ひどい有様になっているだろうが、もうどうでもいい。塾に行ってから洗おう。塾に遅れるわけにはいかない。


 僕は頭を切り替えて、昇降口に向かった。今日塾でやる予定の範囲を頭の中で確認する。今日やる分は昨日きちんと予習してあるから、完璧だ。自然と自信の笑みを浮かべて、意識を目の前に戻す。

 そこで思わずぎょっとした。僕は昇降口に向かっていたはずなのに、まったく違う場所にいたからだ。 どうやらここは三階の廊下のようだった。しかも、特別教室が多いということは、一号棟の三階だ。


 一号棟? 三階?


 僕のクラスは二号棟の二階だ。僕はいつ渡り廊下を渡った? 階段を上がった?  記憶にない。僕はただ、自分のクラスの昇降口に向かって、下に階段を下りて行ったつもりだったのに。

 頭がふらふらしていたし、塾のことを考えていたからかな、僕としたことが、つまらないミスをしてしまった。

 そう思って、引き返そうとした。そのとき、


 開かずの間が、開いてる……。


 「開かずの間」と呼ばれている教室は、階段を上がって左側一番奥、非常口手前にある。他の教室のように引き戸ではなくて、ドアノブを回して手前に開けるドアで、それがたった一つの入り口だ。その入り口は、今現在鍵の紛失により閉ざされたままになっているはずだ。しかし、そのドアが、なんと開いているのだ。


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