すれ違っていたあの頃の僕ら

「あれ? そういえば真美さんってどうしてちーくんが私のファンだって知ってたんですか?」


 ひとしきり頭を撫でられて機嫌が良くなったのか……それとも恥ずかしさが臨界点を突破して吹っ切れたのか、なーちゃんが会話に参加してくる。


 俺は日本酒を片手にそんななーちゃんを見ながら────けれど思考はここにはなく、遥か遠くを飛行していた。


「…………」


 ────こおりちゃんが、目の前にいる。


 この一年…………間違いなく俺の生活の中心だった。それしかなかった。


 氷月ひゅうがこおり。


 こおりちゃんのお陰で、何とか現実に絶望せずに生きてこれた。こおりちゃんを推すことが俺の生きる意味だと思っていた。


 だから活動休止だと聞いた時は…………本当に辛かった。


 なーちゃんが居てくれたから何とかなったけど…………本当は心が張り裂けそうだった。恥ずかしながら、涙で枕を濡らした夜もあった。どうしても「さよなら」を見たくなくて最後の配信は観ることが出来なかった。


 ────恋心では無かったかもしれない。


 だけど、それでも。


 本音を言えば…………今だってこおりちゃんロスは続いているんだ。


 なーちゃんが俺の彼女になってくれて、確かに俺の生活は劇的に変化した。無縁だと思っていたドキドキをたくさん経験した。間違いなく、人生で一番楽しかったし、幸せだった。


 でもその間も…………心のどこかが傷んでいた。

 わざと見ないふりをしていたけど、あれがこおりちゃんとの別れの痛みだってことは分かっていた。


 そのこおりちゃんが…………今、俺の隣にいる。

 そして、俺のことが好きだと言ってくれている。


「…………」


 堪らなくなり、グラスを思いきり傾ける。喉に焼けるような痛みが走り、次第にお腹がポカポカしだした。栗坂さんとなーちゃんが何かを話しているが、ただ耳を通過するだけだった。


「────くん? …………どうしたのちーくん、さっきからぼーっとして。…………もしかして、酔っちゃった?」


 なーちゃんが首を傾げながら俺の顔を覗き込んでくる。


 ────その瞬間。


 なーちゃんに、こおりちゃんのモデルが一瞬重なって視え…………俺は気付けば涙を流していた。


「えっ────どうしたのちーくん!? どこか痛いの!?」


 泣き出した俺を見て、なーちゃんが慌てる。

 …………なーちゃんは最近少しずつタメ口を使ってくれるようになった。甘えてくる時なんかは特に。


「……………………きゃっ!」


 胸の奥に熱いものが込み上げ…………俺はなーちゃんを抱き締めていた。真美さんがひゅうと口笛を吹いたのが聞こえた。


「なーちゃんに会えて…………俺…………本当に良かった……」


 俺をあの薄暗い毎日から救い出してくれたのは…………なーちゃんだったんだ。


この人を、絶対に離さない。人生を懸けて幸せにする。


 そう、固く誓った。





 落ち着いた俺は、真美さんの話を聞いていた。


 なーちゃんはどうやら機嫌がいいみたいで俺の手をギュッと握ってニコニコしている。俗に言う恋人繋ぎというやつだ。


 …………前から思っていたんだが、恋人繋ぎというやつは存外指が痛くなるんだよな。

 憧れはあったものの、いざやってみると俺は普通に繋ぐほうが好きだった。

 でもデートの時普通に手を繋ぐと、なーちゃんがすぐ恋人繋ぎに組み替えてくるから、最近はこの感覚にも慣れてきた。


「────それにしても、ななみんが配信者辞めるって知った時はビックリしたよ。何の相談も無かったしさ」


 栗坂さんは俺が一番気になっていたことに切り込んだ。…………こおりちゃんと姫はかなり仲が良かったはずだけど相談していなかったんだな。


「話聞こうか迷ったけど、その時は岡さんと付き合いたてだったからそっとしておこうと思って、結局理由聞いてないままなんだよね。まあ、岡さん絡みだとは思ってるんだけど…………実際どうしてなの?」


 栗坂さんの言葉を受け、なーちゃんは繋いでない方の手を顎に当てて唸り出した。


「…………一番の理由は……大学に通うことにしたからです。私、二年前から休学してたので、この十二月が期限だったんです」


 そのあたりの事情は、俺も聞いていた。休学した理由はどうやら男女関係(と言っても男から一方的に絡まれていたみたいだ)だったようで、それを聞いた俺はなーちゃんが復学することが少し不安だったけど、なーちゃんは「ちーくんがいるから大丈夫」と笑った。

 そんな、男というものに、そして恋愛というものに嫌なイメージを持っていたなーちゃんが俺を好きになってくれたことが本当に嬉しかった。


「それで、このまま配信で生きていくか、それとも大学に通うか悩んだんですけど。最初は配信で生きていこうと思ってたんです。大学に通えばまた嫌な思いをするかもしれないし、それに配信で生きていけるくらいお金を稼げていたから」


 こおりちゃんは個人勢だったから、企業に属していない分収入も多い。果たして配信者がどれくらい稼いでいるのかは想像の域は出ないが、ミーチューブの投げ銭機能──ウルトラチャットの頻度や額を見るに、数千万は稼いでいたんじゃないだろうか。

 個人勢が相手だと「自分のウルトラチャットで推しの生活を支えられる」という感覚が強いのか、こおりちゃんの配信はウルトラチャットがよく飛び交っていたのを覚えている。


 栗坂さんは、真剣な眼差しでなーちゃんの話を聞いている。

 …………仲が良かったこおりちゃんが活動休止して、やはり寂しかったんだろう。理由を聞いて、自分を納得させたがっているようにも見えた。


「でも…………ちーくんと出会って。仲良くなっていくにつれて。私の考えは変わっていったんです」


 ぎゅうっ……と繋いだ手に力が込められる。


 俺はそれを────強く握り返した。


「ちーくんと一緒に歩いていきたい。木崎菜々実として、この先もずっと、ちーくんの隣に居たい。そう考えたら…………大学に通ったほうがいいと思ったんです。氷月こおりとしての生活は本当に楽しかったし、観てくださった皆さんには本当に感謝しています。それでも…………私は木崎菜々実としての生活を選びました」


 …………なーちゃんがそこまで考えてくれていたなんて、俺は予想もしていなかった。心が何か熱いもので満たされていくのを感じた。俺は、なーちゃんに、何かを返せているだろうか。


「大学に通うとなれば勿論ブランクもあるし、満足に配信することは出来なくなってしまう。それに…………私は選択しましたから。その状態で配信を続けることは…………何だかファンの皆さんを裏切っているような気がして。それならスパッと辞めようと思ったんです。氷月こおりとして得たものも、私にとってはかけがえのないものだったから」


 …………俺は、猛烈に自分を恥じていた。


 なーちゃんが一人孤独に悩んで、そして決心していたのに、俺は何も考えていなかった。それどころかなーちゃんに「こおりちゃんが好きだ」なんて伝えてしまった。なーちゃんの立場からすれば、それがどれほどプレッシャーになっていたか。


「…………ごめん。俺、なーちゃんに『こおりちゃんが好き』だって言ってしまった。なーちゃんが悩んていたのも知らないで」


 申し訳なくて、なーちゃんの顔が見れない。


 人の気持ちにも気付かず、自分のことで精一杯で。一回り年下のなーちゃんより、俺は遥かに子供だった。


「…………ああ。気にしないで下さい。私…………ちーくんがこおりのファンだって、知ってましたから」


「…………え?」


 知って…………た…………?

 なーちゃんにこおりちゃんの名前を出したのはあの告白が最初のはず。


 一体どうして。


「ちーくんが風邪を引いたの覚えてますか? 私が初めてちーくんの家に行った時のこと」


「…………うん」


 それは…………覚えている。忘れるわけがなかった。


「ちーくんが眠ったあと私は帰ろうとしたんです。その時に…………Tシャツ、見ちゃったんです」


「…………あ」


 俺が部屋着にしているこおりちゃんのTシャツのことだ。栗坂さんにこおりちゃんのファンだとバレた理由でもある。


「あのTシャツは本当に初期の頃に販売したものだから数も全然ないはずで。ああ…………この人は昔からの私のファンなんだ……って」


 まさか、数か月前からこおりちゃんに認知されていたなんて。当たり前だけど全く想像もしなかった。

 そんな妄想は、したことがあったけど。


「好きな人が私のファンで。本当は喜ぶべきなのに…………私は悩みました。ちーくんは私に全然興味がなさそうだったし、そんな中もし私がこおりだとバレて、幻滅してしまったらどうしようって」


「…………」


 なーちゃんに興味が無かったなんて…………本当はそんなことはなかった。


 考えたら好きになってしまいそうだったから。


 それで傷つくのが怖かったから。必死に見ない振りをしていただけ。


 俺の心が弱いせいで、なーちゃんを悲しませていたんだ。


「だから、ちーくんが氷月こおりじゃなくて私を選んでくれた時は本当に嬉しかった。幻滅されないと分かって、やっと私も打ち明けることが出来たんです。大好きですよ、ちーくん」


 そう言ってなーちゃんは笑った。大輪の向日葵のような眩しい笑顔に、何だか救われたような気がした。

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