友達

 空はとっくに月が支配する時間になっていた。指定の時間には少し早いが、早く着くに越したことはない。

 

 見上げれば満点の星。

 夜空に輝く星々は俺には少し眩しくて、顔を下ろすと彼女はそこにいた。


「鳥沢さん」


 鳥沢さんはお台場海浜公園の中にある海沿いに敷かれた遊歩道、その道に等間隔で配置されているベンチのひとつに腰掛けて、じっと海を見つめていた。あるいは波の音を聴いていたのかもしれない。


「…………岡さん。こんばんは」


 鳥沢さんが闇にも似た大海から視線を外し、ベンチの横に立っている俺の顔を見る。

 俺は鳥沢さんを見ていたから、自然と目が合った。


「こんばんは。待たせてごめんね」


 鳥沢さんの表情からは、感情は読み取れなかった。普段からあまり感情を表に出す方じゃないけど、今日は輪を掛けてそうだった。鳥沢さんが座っているベンチは丁度街頭と街頭の間になっていて、少し薄暗いせいかもしれない。


「大丈夫です。……海を見ていたので」


 そう言うと鳥沢さんは海に視線を戻した。


「隣、座るね」


 鳥沢さんが座っていたベンチは二人掛けだったから、俺は隣に腰掛けた。


 鳥沢さんは変わらず海を見つめている。綺麗な横顔を眺めていると、その瞳の焦点は水平線を通り越して、どこか遠い所で結ばれているような気もした。


「…………」


 …………最初は『珍しいな』と思った。


 今回の鳥沢さんのお誘いの事だ。

 俺達はもう何度も待合せをしているけど、その殆どが新宿駅前のカフェなどで時間も昼から夕方だった。バレッタは大抵夜に配信をしているからその都合もあるだろうし、新宿駅前は二人の住んでいる場所的に待合せに丁度良かった。


 それが今回鳥沢さんが指定したのは夜で、しかもお台場の公園。


 …………いくら俺でも、『いつもと違うぞ』というのは分かった。分かっていた。


 ただそれが何なのかまでは断定できなかった。頭の中に思いついたひとつの可能性は現実味がなかったからだ。昨晩似たような出来事が起こってはいたが、その事も俺はまだ咀嚼しきれずにいた。


 だが、いざベンチに座り感情の読めない鳥沢さんをこうして眺めていると、彼女が纏っている空気を感じ取ると、思い立った可能性がいよいよ現実味を帯びてきているように思えた。そしてそれに対する答えが自分の中に用意されていないことにも気が付いた。


「岡さん」


 いつの間にか鳥沢さんは大海原から視線を外していた。その大きな瞳が眼鏡越しに俺の目をしっかり捉えている。鳥沢さんのこんな真っすぐな視線は、今まで記憶になかった。


「今日は岡さんに、伝えたいことがあるんです」


 鳥沢さんの視線は外れない。

 初めて新宿駅前のカフェで待合せた時の事を思い出す。あの時は一瞬たりとも俺と目を合わせることが出来なかった。

 その鳥沢さんが、今強い意志を持って俺を捕えていた。


 鳥沢さんは立ち上がると、静かに凪ぐ海を背にし俺の正面に立った。

 秋らしい落ち着いた色のワンピースと、肩に巻いた赤いタータンチェックのストールが風に舞いふわりと揺れた。


「…………」


 息を吸う音が、僅かに耳朶を叩いた。


「────岡さん。あなたの事が好きです。…………私と、付き合ってくれませんか?」





 ────その言葉を聞いた瞬間、何故か涙が溢れ出した。


 何か大切なものが失われてしまったような、そんな感覚が胸に飛来した。


 強烈な空虚感に襲われてボクは堪らずその場にしゃがみこんだ。


 背中を預ける木の感触がやけに冷たい。もえもえの告白を陰から見守っていたボクは、隠れていたことを別の理由で感謝した。


 大切の友人の告白は。


 ボクが応援していた恋慕は。


 その恋路の最後、ボクに強烈な自覚を芽生えさせた。


 全てが終わってから、ボクは取り返しがつかないことをしてしまったんだ、と悟った。


 ────ボクは千早くんのことが好きだったんだ。どうしようもないほどに。


 気付いてた。


 気付いてたよ。


 ────でも勇気が出なかった。あと一歩踏み込む勇気がどうしても出せなかった。


 だからボクはもえもえのことを応援することでその気持ちに蓋をしたんだ。


「…………ボクは、本当に馬鹿だ…………」


 震える声で自分を傷つける。誰でもいいからこの惨めなボクを傷つけて欲しかった。


 とめどなく溢れる涙が頬を伝っていく。

 けれどその涙は何にもならない。


 千早くんの前に立っているのはボクじゃなくもえもえだった。





 鳥沢さんのその言葉を────全く予想しなかった訳じゃない。

 けれどその言葉は、それでもなお確かな衝撃を持って俺の心を震わせた。


 鳥沢さんを見れば、震えを必死に隠しているのが分かった。

 人見知りの彼女が俺に告白するためにどれだけ勇気が必要だったのか、それが分からないほど俺は鳥沢さんと適当に接してきた訳じゃない。


 …………応えてあげたいと思う。


 彼女が振り絞った勇気は報われるべきだと心から思う。俺の意思ひとつで鳥沢さんが幸せになるのなら、俺は彼女を笑顔にしてあげたい。


「…………」


 座っているのが申し訳なくて、俺は気付けば立ち上がっていた。

 その動きに鳥沢さんがビクッと身体を震わせる。


 立ち上がりながら考える。


 そもそも俺は鳥沢さんが嫌いじゃない。


 当然だ。


 俺なんかと仲良くなってくれるだけでも嬉しいのに、見た目も可愛い。

 エムエムを教えて貰ったこともあるし家に行ったこともある。まさかこの歳になって知り合いの親に挨拶するとは思わなかった。

 おまけに鳥沢さんは有名バーチャル配信者バレッタ・ロックハートの中の人で、そんな人と付き合えるなんて俺には過ぎた幸運だ。


 好きか嫌いかで言えば、間違いなく好きだと断言できる。

 今はまだ恋愛的な好きではないけど、付き合ううちに好きになることだってあると思う。そういうカップルもきっと多いはずだし、俺はきっと鳥沢さんを好きになれると思う。そうでなければ休日遊んだりしない。


 …………鳥沢さんと付き合おう。


 彼女なんて出来る訳がないと思っていた。


 俺の人生はこのまま終わっていくんだと、そう思いながら死んだように生きる毎日だった。


 そんな俺が、まさか誰かに愛されるなんて。


 こんな幸せなことはない。心からそう思う。


 これからは、鳥沢さんとの幸せな未来が待っているんだ。そう考えたら心が温かくなった。


 小さく深呼吸をし、俺は大きく息を吸い込んだ。


「…………ごめん。鳥沢さんとは付き合えない」


 ────けれど。


 俺の口は、心の奥底から湧き上がる衝動のまま違う言葉を吐き出していた。


 鳥沢さんから告白された時。


 その時頭の中に思い浮かんだのは…………推しているこおりちゃんの声。それと────


 ────恥ずかしながらお粥を食べさせてくれる、菜々実ちゃんの顔だった。


 …………俺は、馬鹿だ。


 やっと自分の気持ちに正直になれた。こうでもしないと素直になれない臆病な自分に嫌気がさす。


 それでも…………もう自覚してしまった。


 俺は菜々実ちゃんが好きなんだ。


 好きに決まってる。


 必死に看病して貰ったあの夜から、俺は菜々実ちゃんのことが好きだったんだ。ピクニックに行ったあの日から、俺の胸は高鳴っていたんだ。


 でも……必死に好きじゃない理由を探してた。


 好きになったって傷つくだけだって、叶う訳無いだろって決めつけて。


 こおりちゃんへの恋心も、菜々実ちゃんへの恋心に蓋をしたからだって今なら分かる。


 叶うはずのない恋をして、それで自分を納得させたかっただけだったんだ。


 俺は……失恋して傷つくのが怖かった。


 俺なんかが菜々実ちゃんに好意を持ったら気持ち悪がられるんじゃないかって、どうしてもその気持ちが拭えなかった。

 どれだけ菜々実ちゃんが親身に接してくれても、最後の一欠片を消すことが出来なかった。


 ────それでも。


「ごめん。俺…………行かなくちゃ」


 鳥沢さんの顔は見れなかった。


 告白を断った俺が鳥沢さんにかけられる言葉なんて何一つないんだって、恋愛経験のない俺でもそれくらいは分かる。


 ありがとう、気持ちは嬉しいよ、なんて、事実でも何の慰めになるはずもないんだ。恋をした今、それが痛いほど分かった。


 鳥沢さんに背を向け、俺は生まれて初めて湧き上がった衝動に身を任せて走り出した。





「…………もえもえ」


 ボクは最後の役目を果たすため、もえもえに声を掛けた。


 もえもえの恋を応援したボクには、もえもえが辛い時傍にいる義務がある。


 もしかしたら、もえもえはボクのせいでしなくてもよかった失恋をしたかもしれない。

 やらない後悔よりやる後悔なんて言うけれど、しなくてもいい失恋はしないに越したことはないはずなんだ。


「もえもえ……ごめん。ボク……聞いてたんだ」


 涙はとうに拭った。ボクに泣く権利なんてある訳ない。

 今辛いのはもえもえ。ボクは……傷つくことすら出来なかった愚か者だから。


 もう一歩もえもえに寄り添う。


 と、今まで反応が無かったもえもえが勢いよく抱き着いてきた。

 それは恋人がするような温かいようなものではなく、赤ん坊が母親にしがみつくような、そんな寂しさと力強さを感じた。


「…………ぐすっ…………んっ…………芽衣ちゃん…………ごめん…………私…………振られちゃった……!」


 もえもえは必死に涙を堪えて、それでも耐え切れず嗚咽を漏らす。

 ボクはその声に身が引き裂かれるような痛みを感じた。


「…………どうしてもえもえが謝るのさ。謝るのは、ボクの方だ」


 もえもえの小さい身体をそっと抱きしめる。

 その身体は、抑えきれない感情の波に小さく震えていた。


「…………ううん…………私…………気が付いてた……芽衣ちゃんが……岡さんの事……好きだって……」


「…………え」


 もえもえの言葉に、ボクは頭が真っ白になった。


「…………でも私は…………気が付いていたのに…………芽衣ちゃんを利用したんだ……!」


 背中を掴む手が、ぎゅっと強くなる。


「…………本当に…………ごめんなさい…………!」


 もえもえはそう言うと、声をあげて泣き出した。


 静かな公園に、もえもえのしゃくりあげるような声だけがこだましている。


「…………いいよ」


 ボクはもえもえの背中をゆっくりとさすった。


 …………そういえば千早くんにもあの時こうやって慰めて貰ったななんて、ボクの心は懲りずにそんな事を思い出していた。


「ボクの方こそ、もえもえに謝らないといけないんだ。千早くんに告白する勇気が出ないから、もえもえの恋を応援することで自分を納得させようとしてたのかもしれない」


 優しく、優しく、もえもえの背中をさする。

 もえもえは少し落ち着いたのか、震えが小さくなっていた。


「…………もえもえが千早くんに告白した時ね。ボクは告白が成功すればいいって心から願えなかったんだ。…………ううん。告白を聞いて、その時初めて千早くんへの恋心を実感しちゃったんだ」


 腕の中の愛しい存在を、思いきり抱き締める。


「だから、もえもえが気にすることなんて何もないんだよ。ボクは勇気を出したもえもえを、心から尊敬してる」


 ボクの告白を聞いたもえもえは、何度か小さく呼吸をした。密着しているからそんなことまで肌で感じられた。


「…………ありがとう、芽衣ちゃん。私の恋を応援してくれて…………私の、友達でいてくれて」


「…………うん」


 もえもえはゆっくりとボクの背中から手を離した。


 久しぶりに見た気がするもえもえの顔は、目は真っ赤だったけど、どこかすっきりとしていた。


「ねえ、芽衣ちゃん。芽衣ちゃんの家に行ってもいい…………かな? …………お酒、飲みたい気分なんだ」


「…………うん……! 今夜は飲み明かそう!」


 そう言うと、ボクたちは海沿いの道をどちらともなく歩き出した。


 もえもえとは一生物の親友になれるような、そんな気がした。


 …………同じ人を好きだった者同士っていうのは、少しかっこ悪いかもだけどさ。

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