鳥沢萌の暴走

 うだるような夏の日差しが執拗に俺を照りつけ────ない。


 エアコンの心地よい風が身体を撫でていく。汗でしっとりと濡れた肌はみるみるうちにさらさらになった。やっぱりエアコンは最高だな。人間の生みだした最高の発明かもしれない。


 少し郊外にある、立派な一軒家。

 俺は今、鳥沢さんの家に来ていた。


 ……神楽さんの間違いじゃないかって?


 俺もそう思う。でも違うんだ。


「…………えっと……そこの椅子に、座って頂ければ……」


 鳥沢さんがゲーミングチェアを示す。神楽さんが使っていたのと同じメーカーだ。座り心地がいいやつ。


「うん。じゃあ失礼します」


 腰をおろすと、予想通りずっしりとしたクッションが優しく受け止めてくれる。

 …………本当にいいなこのメーカー。買おうかな。いくらするんだろ。


 鳥沢さんはどこからか何の変哲もないオフィスチェアを引いてくると俺の隣に腰をおろした。

 目の前のパソコンデスクには複数のモニターが並んでいる。丁度この前神楽さんのエムエムを見ていた時と逆の立場だ。


「じゃあ…………お願いします、先生」


「えっと…………はい。上手く教えられるかは、わかりませんが……」


 俺はデスクトップからエムエムのアイコンを探し出すと、勢いよくクリックした。


 鳥沢さんによるエムエム講座が今、始まる。





 事の始まりは一通のルインに遡る。俺たち現代人の予定はいつだってルインから始まるんだ。


『また話す練習に付き合って頂けませんか?』


 それはMMVCのあと、鳥沢さんに送ったメッセージへの返信だった。いくつかのやり取りの後そんな提案が鳥沢さんからなされた。


 俺はこの提案に……少し考えた。


 練習に付き合うことは構わない。乗りかかった船だ、俺も鳥沢さんの人見知りが治るところが見たかった。

 だが、この前のように闇雲にただ話す練習をしても効果はあまり期待出来ないだろう。前回も、何故か最後の方は人見知りが悪化していたし。

 もっと別の角度から攻める必要があると俺は感じていた。


 練習に付き合う事は承諾しつつ、俺は気になることを質問してみた。


『鳥沢さんって、ボイスチャットなら普通に話せるの?』


 俺はこれが気になっていた。

 単に人前が苦手だというのなら、ボイスチャットなら普通に話せるんじゃないか。もしそうなら、そこが人見知りを克服する取っ掛りになるかもしれない。


 返信次第でこれからの方針が変わってくる。俺は少しドキドキしながら返信を待った。ややあってスマホが音を立てる。


『そうですね……ボイスチャットなら対面よりは話せると思います』


 なるほど。

 これは俺にとって朗報だった。

 実は俺には考えがあるのだ。この前仕事しながら「鳥沢さんの人見知りを治すにはどうしたらいいかなあ」と頭を悩ませていたら思いついた秘策。


『そうなんだ。いきなりこんなことを言うのもなんだけど…………鳥沢さん、うち来ない?』





「…………へ……?」


 スマホ片手に私はフリーズした。


『鳥沢さん、うち来ない?』


 うち……?


 うちって……あのうちだよね?


 うち。


 家。


 岡さんの…………家?


「いやいやいやいやいや」


 無理無理無理無理無理。


 絶対無理だよ。


 男の人の家なんて行ったことない。

 岡さん、私が人見知りだってこと忘れちゃったのかな。いきなり岡さんの家なんて行けるわけないじゃない!


 ……そういうのはもっと、段階を踏んでからだと思うの。


 …………って私、何考えてるんだろう。

 なんだか発想がとても飛躍してしまった気がする。


 何にせよ、岡さんの家に行くのは私にはハードルが高すぎる。

 よく分からないけど、大チャンスだって分かってはいるけど、無理なものは無理なのだ。呼吸すら満足に出来る自信がない。


『どういうことですか?』


 いきなり『うちに来て』だなんて、一体どういうことなんだろう。

 まさか、そんな、あれだなんてことはないよね……?


 大人の男の人の家に行くのがどういうことなのか、私はよく分からないけど、特定の意味を含む場合があるってことは知っている。そういう知識は人並みにあるつもりだ。


 そういうのは……ちょっと私には早すぎる。

 嫌かと聞かれれば…………そうではないけれど。


 それにしても、まさか岡さんが私のことをそういう目で見てくれていたなんて。

 嬉しい誤算だった。


「…………ふふ」


 なんだかハッピー。

 柄にもなくウキウキしていると、スマホが音を鳴らす。


『ああごめん! いきなり過ぎたよね。鳥沢さんボイスチャットでなら喋れるってことだから、エムエムやりながらだったら似たような雰囲気で喋れるんじゃないかなって。それでうち来ないかなって思ったんだけど、ダメかな?』


「…………あはは」


 何を私は一人で突っ走っていたんだろう。冷静に考えれば、そんな訳ないことなんて分かったはずだ。


 私は急に恥ずかしくなった。


 岡さんからメッセージが来た嬉しさで、ちょっとおかしくなっていたみたい。一旦落ち着こう。


 岡さんの言っていることをまとめると、エムエムをやりながらだったら話せるんじゃないかってことだと思う。


 …………どうだろう。想像してみると、確かにこの前みたいに面と向かって喋るよりは楽そうな気がした。試してみる価値はあるかもしれない。


 ただ、岡さんの家となると話は別だ。岡さんにそういう気がないことは分かったけど、それはそれとして緊張するのだ。


 だから────私が提案することはひとつだった。


『それなら……うちに来ませんか?』

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