今日も、人と話さなかった。

 話したくなかった訳ではない。あるいは、そのように伝える事が可能であったとしても、納得してもらえる事はないのだろう。家にいた。そんな風に伝えたところで、どうしてそこまで家に執着しているのか? などと言われて、笑われるに違いない。そもそも、話し相手もいないのだが。

 誰にも会わなかった。大学にはただ講義の為に行き、それ以外の時間は全て文筆に捧げるのだ。そのつもりで、そのうちのほとんどは横になって寝ていた。小説だの、詩だのを書いているなど抜かしたが、実際のところは自堕落な生活だった。アルバイトは続けていた。続けている筈だ。最近は、自分の事もよくわからない。生きなければならない時以外は、死んでいるのかもしれない。それなら、徹底的に死んでいるか、生きているかのどちらかであってほしいものだ。中途半端に生きているのなら、死んでいるのと変わらない。なら、どうして死んでしまわない?

 人知れず、生を望んでいた。生命をにぶく輝かせようとしていた。残り続ける命なら、鈍くても輝いている方がいい。そう思う割には、自身を生きさせようという行動が欠けていた。だからただ死んでいなかった。ここにいた。他のどこにもいなかった。初めから語っている物事の全てが真実であるならば。

 本来、現実というものを疑う余地はない。そこ以外に人は生きられず、また生きようとしても、現実の中に己を潜ませなければならないのだ。現実とは、ここにいる、と表現できるところにある。僕は、これ以上に疑わしいものを見つけた事がない。いや、現実を信じている自分が疑わしいのかもしれない。ここにいる筈だ。いる筈なんだ。本当にいるのか? 誰かをそこに見つけなければ、僕はここにすらいられないのか……駄目だ、ここから抜け出さなくては、いよいよ現実から消え去ってしまう!


 話さなければいけない。ただ、そこに他者を見つけなければ。どこだ。誰でもいい。人がいるであろうところ……いや、どこにでも人はいる。僕の話を聞いてくれる人がいるところだ。話し相手を見つけるだけなら、今から服を全部脱いでしまえばいい。警察官が話しかけてくれるだろう。そんな風になるくらいなら、死んでしまいたかった。

 あてもなく歩いていた。どうしてか、財布だけは抱えていた。家の鍵は閉めてきただろうか。いや、入られたから何だというのだ。盗む価値のあるような物など……何もない。部屋を覆いつくす紙屑ばかりだ。そんなものを見せられたところで、何の価値も見いだせないだろう。僕も同じだ。仲良く話ができるだろうと思った。いや、誰でもよかったと、言われるだけなのかもしれない。

 いつの間にか、喫茶店が眼前がんぜんにあった。そう、恰好を付けるように思っていた。この事に、どうにかして意味を付与しようとしていた。じっと眺めていた。その割には、店名さえ目に入ってこなかった。営業中……そう言えば、今日はまだ何も食べていない。22時から寝ずに起き続けて間昼間だ。入った。何も、考えられなかった。

「いらっしゃいませー。おひとり様ですね」

 今時の喫茶店は、そんな事をわざわざ口にするのだろうか。比較対象も知らずに、そんな事を考えていた。おそらく、頷いていた筈だ。テーブルに案内されるまで、なぜ話しかけられているのか、判然としなかった。

「注文が決まりましたら、お呼びください。では、ごゆっくりどうぞ」

 ゆっくりも何も、水も出さずによく言ったものだ。になるつもりはないが、文句の一つくらい言ってもいいだろう。この時、僕にはこれくらいの事も判別できなかったのだ。それだけ呆けていた。料理名が、メニューから一文字ずつ抜け落ちていくようにさえ感じられた。そのうち、飲みもしないコーヒーを頼んでいた。なぜかモーニングセットにしてもらった。いや、そう自分が頼んだのだろうか。

 いつの間にか、料理は目前にあった。一心不乱に食べた。財布の中身を確認していなかったが、そんな事はどうでもよかった。どうせ、お金なんてろくに使っちゃいないだろう。ここ最近は空腹を満たすだけの食事だった。少しくらい、贅沢をしたっていい筈だ。

「ところで……どこかでお会いした事がありましたっけ?」

 店員が話しかけてきた。他に客はいない。それだけで、暇を持て余していると考えるには十分だった。質問には答えなかった。何気なく顔を一瞥いちべつして、見覚えはないとだけ、言ったような気もする。そのうち食べ終わり、お代も払った。帰ろうとしていた。足は、止まっていた。

「どうして、あんな質問をしたんです。別に嫌だと言いたい訳ではないですが、心当たりでもあったんですか」

「心当たりも何も……高校以来ですよね?」

 意味が分からない。いや、待て。まさか。

「……夢追い人?」

「確かにそんな事も言いましたっけ……じゃないですよ。全く……人の覚え方がなっていない。特徴を人名と結びつける事が重要なのであって……」

 急に、後ろに店主らしき人が現れた。違う。話し相手に気を取られていただけだ。

「立ち話もいいがね、一応バイト代払ってるんだから、働いているふりくらいはしておくれよ」

「あ、すいません。じゃあ、後で会おう。近場の公園に、21時くらいには」

 また勝手に約束を取り付けられた。断る気にもなれなかった。今は間昼間を丁度過ぎたところだろう……店内にかけられた時計は、夕方に囚われているように見える。いや、世間には夕方が訪れているのだろうか。時間の流れが重複していた。混乱を収めようとして、店を出た。ふと空を見上げた。


 曇り空だった。明瞭めいりょうな灰色だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る