拘泥-15 (淀む淵の再出発について)

かくしてカルロの決定は覆された。継続の道を選んだとて、結局のところなにも変わりはしない。ひとりきりの寝台で目を覚ませば、見慣れた朝は退屈を連れてくる。寝間着からローブに着替え、切りそろえた黒い髪に櫛を通す。今日の朝食はチェイスと自分で二人分だ。人数が少ないと手間ばかりかかったが、腐らせるリスクを取って作り置きをするほど余剰の食糧があるわけでもない。取引先が増えてより多くの収入が入るようになっても、相変わらず『城』の立場は弱く、食糧事情は一進一退だ。


チェイスの分の朝食に篭を被せて台所を出る。扉を開けたところで寝ぼけ眼のチェイスと鉢合わせた。片手に柄の細い槌を持っている。

「よお、早いな。今朝のメニューはなんだ?」

「……朝食か? 味無しのトーストにベーコンと卵。焼き加減は硬め、味付けは塩。付け合わせの惣菜は和え物だ。委細はそこにある現物を見てくれ」

「お、おう。それは楽しみだ。詳しい情報をありがとな」

チェイスはへらっと表情を緩めて眼鏡をあげた。表情に反してあまり楽しそうな様子でもなかったが、藪蛇だと困るので追及はしない。

「役に立ったか? 使い終わった皿はいつも通り下げておいてくれ」

悪いな、と言われたので、ごゆっくり、と返す。扉を閉じればこちら側は影になる。扉越し、左右で僅かに音の違う足音が聞こえたが、大方右手に持った槌のせいだろう。こういうことは時折あった。指摘されるのも嫌だろうと放っているが、発生条件はよくわからない。


代わり映えのしない日々だが、今回のことで一つだけ変わったことがあった。ペタルに引き合わされてからこちら、仕事以外の関わりを持とうとしなかったチェイスがこの頃は積極的に話しかけてくる。槌と同様、理由や意図はわからない。ただ結果だけが宙に浮いていた。複製を潰す手つきにこそ迷いはないが、蔑むようだった態度はいくらか和らいで、カルロはそこに気安さにも似た親しみの萌芽を感じている。あのときは嫌われるようなことばかり打ち明けたのに、結果はこれだ。なにを思われているのかどうにも読めなかった。悪いことでなければいい、と思う。


廊下に出て、伝言板を確認する。ペタルは午後から来るようだ。今日は栄養評価を軸にした献立の作り方を教わることになっている。ペタルは変わらず親切だが、出会った頃とはやはり違っている。あれこそが本来の気質だとチェイスはいうもの、カルロはどうにも飲み込みかねていた。



このどん詰まりのような暮らしの先にこそ目指す先があるとペタルは言った。空の底は不安定でめまぐるしく、カルロに今更叶えたい願いなどない。それなのに日々は繰り返される。


剣を作らせるためにはチェイスに複製のカルロを融通せねばならず、それには材料を用意する必要があった。寸足らずの身体は小回りがきくが、言ってみればそれだけだ。体一つでは運べる量にも限界がある。短い足は進みが遅く、膂力は劣り、地面に近い頭では巻き上がる砂塵を避けられない。だから風の吹く時期の街道は嫌いだった。考えると胸が詰まる。この身で複製の生産ができるのなら外に出る必要だってなくて、こんなことに煩わされることもなかったのだろう。カルロは部屋に戻り、紺のローブから襟のあるシャツとズボンへと着替えた。靴に足を入れ、紐を普段通りに引く。窮屈な感じがしたので靴下を薄いものへと変えたが、どうもむくんでいるのとは違うようだった。しばらく爪先を眺めていたカルロは原因に思い至る。延命のための指輪をしばらく外していたせいで成長が進んだらしい。柱と背比べすると、前に計ったよりも高い位置にチョークあとが残った。存在のもつ残り時間が僅かに減ったことを知って、カルロは嫌な気持ちがした。


現状、継続こそが望みの全てというわけでもなかった。カルロは幕引きを打診して、ただ、降りることが許されなかっただけだ。結局のところ、カルロはていよく担ぎ上げられたに過ぎない。だが、言い換えてみれば、二人は当人の決定を棄却してなお『戴く対象』をカルロに定めたということだ。ならばその期待に答えてやるのが義理というものだろう。これからなにをするべきか。終わりは遠ざけられて、どこまで続くともわからない暮らしは古びたゴム紐のようだ。どこまで伸びるのか、いつ切れるのか誰も知らない。現状のやりかたはいつまで通用するだろう。本当の終わりが来るよりも前に、新しい解決策を探す必要があった。それがどんなものかは見当もつかなかったが。



カルロは裏山で草の実を摘む。日も昇り、篭の中身が半分埋まる頃、ふと一つの考えが浮かんだ。人の身には再生産の機能が備わっている。今年で十八歳だとペタルは言った。ならば、カルロは時を待たず再生産の時期に入るだろう。成熟の気配は目前にまで迫っていた。この空の底で、存在全ては死という消滅への道程を行く。そうして滅びの途上で不足が埋まることを成長と呼ぶのだ。なら、残り時間の減少もただ損なわれるばかりではない。足へと食い込む靴の紐をどこか懐かしいような気持ちで緩めながら、行使すること叶わなかった生殖の特権も、今ならあるいは、と思いつく。


カルロという存在は地面に手をついて暮らした子供の頃を覚えている。昨日できなかったことが今日にはできるかもしれないというあのちぐはぐな感覚もにわかに思い出した。空にいた頃には味わうことのない感覚だった。手近な花を毟り、口にくわえて蜜を吸う。木の間からは温かい日の光がさしていた。カルロは汁に染まった指先を見る。いつだったかペタルは子供を指し、なんだってできるし、どんなものにだってなれると言った。死体は変化しない。ペタルの言葉は真ではなかった。しかし、前提が間違っていてたとするならば。カルロは前歯で花の芯を囓る。言葉の示す先が生者カルロであれば道理は通った。それは都合の良い詭弁だ。思い出を振り返ってもペタルの真意はわからない。それでもカルロは、甘い夢想に心を委ねた。どんなふうにでもなれる身体。どろどろと境界なく増える身体を想像してうっとりする。いかなる振る舞いをも許容する潜在能力。他者に頼るばかりである暮らしからの脱却は、カルロの夢見た『十全』に近いような気がしていた。


カルロは篭を抱えて斜面を降りた。屋敷の裏に回り、外水道で実についた泥や葉を洗う。その時が来るとして、なにを用意すれば良いだろう。まずは食料と寝床だ。洗った服をきれいに繕って、靴紐に蝋を引き直す。それから、それから。不死の魔術道具を頭数と同じだけ用意するべきだろうか? そのためには帳簿を見直して資金を捻出する必要があった。首に下げた紐を引き、つけるもののない五個の指輪を見る。そこでふとチェイスのことが頭をよぎった。複製を潰さねば立ちゆかぬ立場である以上、新しいやり方で増えた分も差し出す場面がきっと来る。それならまずは、ペタルに頼んで従来通りの複製を縫ってもらおう。本番を作るのはそのあとでも十分に用を成す。



それまでにこの身体を精査して不足のないようにしておかなければならない。十分量の食事をして、隙間風のない部屋でよく休む。その上でペタルに見てもらえばきっと安泰だろう。つらつら考えていると足音がした。間を開けず鳴ったドアノッカーに声を上げて返事をする。庭に見慣れた影が差し、声を発する。

「ああ! こちらにいたんですねー。カルロ? なんだかごきげんですね、何かありましたー?」

「特には。だが、考えていることがうまく行けば、ペタルに良い思いをさせてやれるかもしれない。まだ計画段階で目処は立っていないが」

話すさなか、なにも決まっていないに等しいと思ったが、ペタルはぱっと口元をほころばせた。

「それは楽しみですね? そうそう、約束通り献立の事例集をもってきましたよー、時間まではまだあるので、予定があることだけ頭に入れておいてくださいね」

「ああ、そうか。もう昼前だな。片付けてくるから部屋で待っていてくれ」

背を向けたカルロへ、焦らなくても大丈夫ですよ、とペタルは言った。カルロが振り向くと、ペタルはもう一度同じことを言った。

「時間は十分にあります。私は待っていますので、カルロが焦ってなにもかもをやる必要はないんですよ。勿論、手が必要だというのなら手伝います。その時はなんだって言ってください」


太陽光が目を焼いて、背の高いペタルの表情は覗えない。唯一見えた口元はいつも通り笑っているように見えた。ペタルは笑っている。カルロは少し迷ってから、裏の水道を示した。

「……それなら今からやる瓶詰め作りを手伝ってもらっていいか? 草の実を摘んできたが、枝から離してしまったので早く火を通さないと痛んでしまう。砂糖はある。瓶の消毒はこれからする。萼は俺がはねるから、調理の部分をやってくれ」

「……え、えー? なにを作るんです? レシピと言ったら自分はコーディアルくらいしか知らないんですが……」

「ジャムの予定だったが、腐らないならなんだっていい。味付けも材料も委細はペタルに任せる。台所にあるものは使っていいが、洗濯用って書いてある鍋にだけ注意してくれ」

「あ、はい、わかりましたー…… やってみますが、成果物の出来が悪くても文句を言わないでくださいねー?」

「その時は俺がなんとかする。目的は防腐だ、そこだけ押さえていればことは足りる。心配しなくても大丈夫だ」

「……えー?」

困ったような声こそ上げたが、鞄を担ぎ直したペタルはコーディアルについてそれ以上の言及はしなかった。砂利を踏む靴音が少し遠ざかる。

「自分は先にいってますね? 少し用意があるので、台所で落ち合いましょう。それでは」

「ああ、またあとで」


そうしてペタルが消毒用アルコールを転用して作った度数七十パーセントのコーディアルは、保存性、香味、色合い共に優れた逸品であったが、飲める人間がいなかったので台所の棚へ封印された。これが再発見され、消費されるのはもう少し後のことになる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る