逢瀬-2(往き過ぎし凋落について)

皮膚の触れ合った部分からじっとりと体温が伝わる。互いにそこそこ年数をへた魔術士だということを思えば特別の触れ合いだった。三十六度と半分を肌で味わっていると、見上げるシャノンと視線がぶつかる。彼はじっと目を見つめ、僅かに唇を噛んだ。見れば、拳を握り合わせている。

「リロイ、あなたに許していただきたいことがあります」

「それは…… 私の側に思い当たることはないが、そうだな。罪過の類いならば、手を貸すことはしよう。私にできるのは些細な事だが」

言葉に、少し驚くような気配があった。

「……いえ、そうではありません。身体に触れたいのです、あなたの……」

リロイは腹の上、のろのろと這ってはへその縁を引っかける指を見た。厳密に言えば、その手にはまるいくつもの指輪を。息を吐いたリロイは知覚を広げ、神経の端で指に巻かれた魔術紋をなぞる。さざめく神経のちりちりとした感触を追っていると、あの、と声がかかる。ばつの悪そうな仕草に、リロイは返事をしていなかったことを思いだした。

「……好きにしてくれ、何をしたって構わない」

魔術士として暮らすからには、いうべきではない台詞と、取るべきではない行動がある。両方が揃ったこの場所は魔術的な密室だ。横槍も入らず、露見することもないこの状況で、シャノンが何をするのか興味があった。リロイは手の甲を撫で、見知ったような指輪を無意識に数える。思うよりも数のある凹凸に僅かだけ戸惑う。

「いいのですか……」

「二言はない」

堅牢な結界によって部屋は現世から切り離された。どんなことを選んだとて、受け入れようというつもりだ。何を考え、何を成そうと結界の外に持ち出すことは適わない。今ここで腹を割かれても構わなかった。

「……明かりを絞ってくれるならなお良いな」

「は、はい。それは勿論……!」

手袋を握ったシャノンが飾りの燭台をもみ消す。蝋がつくだろうと思ったが、咎めることはしなかった。それより早く知りたかった。何を知りたいのかも曖昧だったが、夜は刻々と更けていく。



何もかもが投げやりで、どうあがいても場当たり的だった。言うなればリロイはシャノンの頭の中を見たかったのだろう。だが、当人に自覚は薄く、相手取るシャノンも促されるままだ。いくらかの試行の果てにたどり着くはずだった答えは解決の糸口を失った。出口も見えないままに流れ流れた状況は、予測のつかないところへ流れ着いた。

「怖くありませんよ、大丈夫ですからね……」

足の間にその奥に、暗く閉じた内臓が続く。腹を開けねば触られることもなかったようなリロイのそこへ、触れるものがある。始めに指が経路を開き、安全な道を探った。言ったり来たりの確認が済めば、終わりにはありふれたような接触がもたらされた。それは硬く、冷たく、濡れていて、リロイに先ほどの食事の席で見た匙を思い出させた。


硬いものがねじ込まれる。ぼんやりしていた脳がねじ曲がるように軋み、記憶があちこちからこぼれ出す。そう、これはありふれたような接触だ。自分の身体で試したことはなくとも、過去、耳を煩わす情報はいくらもあった。たいした痛みはない。寝転がってなお脳がねじ曲がるような目眩の感覚を除けば苦しくもない。途方もない圧迫感こそあったが、不快だと言い切るほどでもなかった。良くはない。悪いとも言い切れない。岩の影で、茂みの中で、自分の目の届かない場所で交わされたであろう不品行を知っている。だが、それらとこれは違うように思った。こちらへ触れる手は気遣わしげで、そこに支配や猜疑、恐怖や嫌悪は感じられない。

「……大丈夫、大丈夫……」

互いにつかみ合った手の平には尋常ではない発汗がある。怖くないといったシャノンの声は震えていた。不安に沈みかけているであろう心中を慮り、リロイは手の甲や背、手の届くところをゆっくり撫でてやる。瞑っていた目を開けば、間近にあったシャノンの目が黒くなる。おや、と思っていると、口づけが降ってきたので、リロイは舌を伸ばしてこたえてやった。



「シャノンは……」

いくつもの点でつながっていた二つの体が完全に離され、リロイは全身から力を抜く。目眩は治まって、今はただおびただしい発汗の名残があるだけだ。視界の端でシャノンが肩で息をするのが見えた。

「……これがしたかったのか?」

寝返りを打って、口元を拭う。開けっぱなしだった唇の端から、汗に混じって涎が伝っていた。締まらないな、と思うが、それを咎めるものはいなかった。

「お嫌でしたか……」

全身をぐっしょりと濡らしたシャノンが額を拭いながら問う。見上げると、髪からしたたる雫が腿へぱたぱたと落ちるのがわかった。リロイはしばし考える。

「よく……わからない。なにか、変な感じがずっとあるが、言葉にはならないな。評価できるほど理解が進んだわけでもない…… 快も不快も判断が付かない。だから、今、私から出せる答えは『わからない』だ」

シャノンの側からはどう思った、と訊ね返せば、上気していた肌が少し赤くなったようだった。

「私はこれを、これこそを望んだのです、他でもない、あなたとの間に」

「……そうか」

長く、あなたを慕っておりました、と絞り出すように言ったシャノンへ、なんと返せば良いのかわからなかった。いいとも悪いとも答えられない。どのように想われたとして、行動にも未来にも自由のないリロイは、なにも約束することができない。行き詰まりまで生き延びた魔術士とはそういうものだ。新たな世代に祝福あれ。背に手を回し、触れるばかりの口づけをする。腕の中のシャノンはぎくりと身を強張らせたが、それもその一瞬だけだ。唇が離れると、緊張を解いて僅かに目を細めた。

「……よろしかったのですか、リロイ」

「何がだ……」

「あなたを組み敷くような真似をしました。根回しもなく一線を踏み越えた私が、このままあなたを慕い続けても良いものでしょうか」

リロイはちょっとだけ変な顔をした。嫌だと思ったら拒める立場の人間へ向けて、シャノンはこうも気を揉むのかと思う。なんだか自分が悪いことをしたような気になって、しかし、かける言葉はやはり見つからなかった。

「私に訊ねずとも自分で決めたら良かろう。誰に邪魔されることもない。きみは立派な一人の大人なのだから」

「……リロイらしい答えですね、本当に」

シャノンが肩を揺らすのが見えた。どうやら笑っているらしい。そのまま身体を折りたたむようにしてシーツへ顔をつけたので、リロイは少し慌てた。

「……大丈夫か。気分が悪いのか? 脱水ではあるまいな……」

「く、ふふ、汗が目に入ってしまいました……」

「それは痛いだろう、濡れたハンカチを用意するから拭くと良い。ああ、こら、むやみに擦るんじゃない…… 眼球に傷がつく……」



一夜明け、リロイとシャノンは帰路につく。日が昇る前の街は閑散としていて、目に入る景色全体が未だ、淡い微睡みの中にいるようだった。

「外泊したのもずいぶんと久しぶりのような気がするな。良い気分転換になった」

「よく眠れましたか?」

「……部屋にいるときも同じことを聞かれた。シャノンはどうだ。枕が変わっても寝られる方か?」

「ええ、割合。枕の固さを変える方法を知っています」

「ああなるほど。魔術士に伝わる秘儀だからな、私も同じことができる」

シャノンが目を瞬く。リロイはちょっとだけ笑ってから目をそらし、冗談だ、と言った。口を隠して肩を揺らしたシャノンが元のように手を下ろせば、二人の間に沈黙が降りる。

「……重ねて、同じことを訊ねるのですが、昨晩は……その、いかがでしたか?」

「昨晩。……それについては判断がつかないと言ったはずだ。技巧も、快不快も、その他のことも、まだ答えられる域にはない……」

「そうですか……」

「ああ、だが、何度か試していれば、そのうちにわかるのだろうな」

いまはまだ、そうではないのだとしても。そう言えば、気を揉むようだった顔が弾けるように上がったので、さしものリロイもぎょっとした。目を見開いたシャノンは両手をぐっと握り合わせる。

「それでは、その、次があると……?」

「私の出す答えが知りたいならそれしかなかろう。シャノンがやりたくないというのなら無理にとは言うまい」

聞いていたシャノンが僅かに驚いたような顔をするので、リロイはちょっと首を傾げた。

「きみはどうしたい」

あ、う、と言葉に詰まるのが見えた。指先が剣の腹を掻く。シャノンが動揺したときの癖だった。

「つ、謹んでお受けします」

「嫌だと思ったらそのときに断ってくれ」

失礼ながら、こちらからも同じ言葉を返させていただきます、と言ったシャノンに目を瞬いて頷きかける。リロイはその髪が朝日に光るのを見た。あなたの意見が聞きたいのだとシャノンは言う。

「そうか。覚えておこう」

これからのことを話した。未来への約束が許されない身にも、叶えられる願いがある。今はできず、わからないことも、いつかは解けて形を持つのだろう。それが永遠の保留に過ぎないとしても。リロイは交わした言葉を反芻し、胸にしまう。街に日が差し始めていた。

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