#3 似顔絵を描く。約束をする。


 なぜ彼女がここに?

 いや、選択科目なのだから何を選んだってその人の自由だが……有坂乃恵が美術を選んでいるというのがあまりにも意外だった。


 音楽と書道と美術。三つの中だと美術は僕みたいな絵描き好きか、またはオタク趣味のタイプとか、いわゆる日陰者が集まる傾向のある選択科目だ。

 彼女なら音楽とか、根明な人たちが集まるような科目を選択する印象があったのだが……。


「う~ん、私ってこういうのあんまり自信ないな~。上手に描けなかったらゴメンね~?」


 本人までがこう言う始末である。自信がないのなら本当に何で選んだのか。

 もっとも彼女ほどの才女なら、ひょっとしたらただの謙遜かもしれないが。


「えっと、こういうのは、力まずに気楽な感じで描いていいと思うよ?」


 視線を彷徨わせながら、気遣いなのかも怪しい言葉を口にしてみる。

 僕の言葉に彼女はきょとんとした顔を浮かべるも、すぐに笑みを浮かべた。


「そう? ふふ。じゃあ小野くんも気楽に描いてね? あっ。もちろん綺麗に描いてくれたらとっても嬉しいな」

「できる限り、やってみる……」


 本当に、いまから描くのか?

 本人の前で、有坂乃恵の絵を、僕が描くのか?

 しかも向かい合って?


 顔が熱い。ヤバい。彼女に真っ赤になっているのがバレてしまう。

 ああ、でも向こうはもう描き始めてるからとっくにバレている。

 というか汗ダラダラじゃないか僕。

 絶対に変なヤツだと思われてるだろ。


 無理だ。こんな状態で彼女の顔を見て絵を描くなんて。

 もし目が合ったりしたら……とか思っていたら、本当に目が合った。

 彼女はにこりと微笑んだ。あの桜並木のときと同じ、心の壁を透き通っていくような柔らかい微笑みだった。

 顔と一緒に、胸まで熱くなる。


 同時に、内部の溶鉱炉がどんどん熱されていく。


 いったい何を躊躇っているんだお前は?

 ようやく念願が叶ったんじゃないか。

 どうして手を止める? どうして目を逸らす? またとないチャンスなのに。

 いまの僕を嘲笑うかのように、内側から訴えてくる声がする。


 そうだ。いま描けるのだ。心置きなくあの少女を。有坂乃恵を。

 選択美術なのだから気軽に描いてもいいだって?

 ……冗談じゃない。

 みすみす、この機会を逃してたまるものか。


 さっきまでの緊張はどこに行ったのか。

 気づくと手が勝手に動いていた。


 まずは顔の輪郭を……いや、先に大きな瞳だ。ちょこんとした小さな鼻も描き足して……。

 睫毛長いな。腰まで届く髪の毛もすごいサラサラだ。濡れたように艶やかな黒に何色もの光色が混ざっていて、うっとりするほどに綺麗だ。

 こうして間近で彼女の顔の観察をしてみると、本当にぞっとするほどに美しい顔立ちをしている。耳の形まで整っているだなんて。まるで職人が細部に至るまで手を抜かずに作り込んだかのような造形美。

 気を抜けば、意識が彼方に飛んでしまいそうな美貌。顔のパーツにちょっとしたズレでも生じてしまえば、その時点でもうそれは有坂乃恵ではない。彼女の顔を描くには、手抜きは一切許されなかった。


 ああ、違う。眉毛はもう少し控えめに。白い頬にはほんのりと赤みを。

 ダメだ、やり直しだ。スケッチブックを捲って、新しい白紙に描き出す。

 今度はもっと髪の毛の線に集中して……違う。これでもない。

 また新しいページを開く。


 くそっ。うまく描けない。というか、何なんだ彼女は。いくらなんでも美人すぎるだろ。

 いったいどんな遺伝子と組み合わされば、こんな奇跡みたいな美貌を持って生まれてくるんだ?

 何枚も、何枚も描き直す。時間はあとどれくらいだろうか? 一秒も惜しい。もっと描き込みたい。こんな短時間で有坂乃恵の美しさを再現するなんて無理ではないか?

 だからこそ、やりがいがあるわけだが。


 もっとだ。もっと観察しろ。微細なところまで見ろ。透き通るように生白い肌の中の血管に至るまで。

 コツはだんだん掴めてきた。目元を伏し目がちにすると彼女らしさが出る。口元は小さく、かすかに微笑むようにして。

 余裕げのある雰囲気を出すともっと彼女らしく……いや、いまの彼女が浮かべている表情のほうがきっといい。

 顔を伏せて上目遣いでこちらをチラチラと覗き見るような、ちょっと恥じらいを浮かべた表情のほうが、少女らしさが出ていて良い。いいぞ、もっと魅力的に描ける。こっちのほうが断然いい。

 あと少し。あと少しで描き上げられる。


「はい終了。途中まででもいいので、各自提出してくださいね~」


 ちょうど良いタイミングで時間切れとなる。各グループがお互いに似顔絵を見せ合って「わー、似てるー!」「ごめーん、うまく描けなかった~」「ちょっと~。真面目に描いてよ~」と簡単な批評会を始める。


 ……こちらも見せるべきだろうか。いざ見せるとなると緊張してきた。

 ちらりと目前の少女を見る。

 少々赤くなった美顔がスケッチブック越しからこちらを覗いていた。


「あはは。すごいね小野くん。何枚も描いてたね」


 彼女は苦笑しながらそう言う。

 その言葉に僕は正気を取り戻す。

 しまった。また完全に我を忘れてのめり込んでいた。

 もしかして途中で彼女に話しかけられていたかもしれないのに、無視してしまっていただろうか。


「ねえ、良かったら見せてもらってもいいかな?」

「あ、うん。もちろん」

「ありがとう。私のも見ていいよ」


 お互いにスケッチブックを手渡す。

 彼女の絵を見てみる。

 ……普通にうまいな。提出したら教師がお手本として飾りそうな出来だ。

 参ったな。本当に才女じゃないか。

 結構熱心に描いたつもりだが、丁寧に描かれた彼女の絵と比べると、こちらのは少々荒いかもしれない。

 彼女の反応はどうだろうか? お気に召しただろうか。

 こんなにも絵を誰かに見られることが怖いと思ったのは、初めてコンクールに絵を出したとき以来だ。

 勇気を振り絞って、彼女の様子を見てみる。


「……わ」


 乃恵は、目を輝かせていた。

 僕の絵を見て。

 僕が描いた乃絵を見て、息を呑んでいた。


「すごいね、小野くん。やっぱり、絵すごくうまいんだね。桜の絵を見たときから思ってたけど」

「……え?」


 思いがけない言葉に意識が一瞬真っ白になる。


「覚えてたの? あのときのこと」

「え? うん。だって、すごく素敵な絵だったし、小野くん、すごい迫力で描いてたから。忘れるほうが無理だよ」

「そう、だったんだ」


 驚いた。彼女は覚えていた。ほんのちょっとの出来事でしかなかった、あのときのことを。


「教室で小野くんを見かけたときはびっくりしちゃった。てっきり美大生のお兄さんなのかなぁ、って思ってたから。でも話しかけるのも変かなと思って、声かけられなかったんだよね。えへへ」


 と言って彼女は照れくさそうに笑う。

 まさか向こうも同じようなことを考えていたとは。


「でもさ、すごいよね本当に。高校生でこれだけ描けるなんて」

「そんな。俺ぐらいのレベルのヤツなんて、全国にたくさんいるよ」

「そうなの? でも、私、小野くんの描く絵、いいと思うけどな」


 そう言って彼女は、どこか夢見るような表情でスケッチブックを見つめる。


「ねえ。この絵、貰っちゃダメかな?」

「え?」


 彼女のとつぜんの申し出に驚く。


「何枚も描いてたみたいだし、そのうちの一枚だけ貰えたらと思ったんだけど……。あ、でも一番うまく描けたやつを提出したいよね? ゴメン! やっぱり忘れて」

「いや、いいよ」

「え?」


 自分の発言に僕自身が驚く。

 反射的に口に出していた。

 彼女の言うとおり、一番出来のいい絵を提出すべきなのに。


 でも、彼女は言ったのだ。僕の絵が欲しいと。

 一番熱意をかけて描いた一枚が欲しいと。

 なら、その絵は、彼女のもとに渡るべきだと思った。


 一度彼女からスケッチブックを返してもらい、中身を剥がす。

 有坂乃恵の似顔絵。

 人物画は、お世辞にも上手ではなかった僕にしては、いままでで一番うまく描けた気がする。

 その絵を彼女に手渡す。


「はい」

「あ、ありがとう」


 彼女は白い頬を桃色に染めて、絵を受け取った。

 受け取った絵を、再びまじまじと見つめる。


「やっぱり、すごいな。私じゃないみたい」

「見たとおりに、描いたつもりだけど?」

「ううん。似てないとかじゃなくて。なんていうか……」


 ごにょごにょと何やら呟いたが、うまく聞き取れなかった。


「有坂、さん?」

「あっ……ごめん、何でもないの。ありがとう小野くん。大事にするね?」

「あ、うん」


 伏せた顔を上げると、彼女はいつも教室で見せる微笑みを浮かべてお礼を言った。


「ねえ、あの桜の絵って、完成したの?」

「え? あ、ああ。一応ね」

「そっか~。見たいな~」

「……持ってこようか?」

「え?」


 またもや自分の発言に驚く。

 何を言っているんだ僕は。こんなの、社交辞令に決まっているじゃないか。

 お世辞に本気になって、絵を見せびらかそうとするだなんて。なんて恥ずかしいことを。


「いいの!?」

「わ!?」


 しかし、彼女は食いついてきた。


「見たい見たい! どんな風に完成させたのかすごい気になる!」

「え? あ……じゃあ、今度持ってくるよ……」

「うん! 楽しみにしてるね!」


 社交辞令でもお世辞でも何でもなく、本気で楽しみにしてそうな明るい顔で、彼女は言った。


 終礼のチャイムが鳴る。

 各々が描き上げた似顔絵を教壇に提出していく。


「あ、私たちも提出しよっか」

「そ、そうだね」


 とりあえず二番目にうまく描けたと思う似顔絵を提出することにした。渡した絵と比べたら質は落ちるが、点数的には十分に花丸を貰える出来だと思う。


 一緒に美術室を出る。

 少女は僕を見上げて、親しげな笑顔を送る。


「小野くん、これからよろしくね。絵のことはよくわからないから、いろいろ教えてもらえると嬉しいな」

「そんな……有坂さんだって十分うまいじゃないか」

「上手に見えるように描いてるだけだよ。私ね、小野くんみたいに情熱を注いで描ける人、すごい尊敬しちゃうな」

「情熱をって……俺が?」

「うん。だって、さっきもすごい迫力だったよ?」

「あ……ごめん。無言で気味悪かったろ?」

「そんなことないよ! それだけ真剣に描いてたってことでしょ? むしろ、かっこいいじゃない」

「あ、ありがとう……」


 こんなことを言ってくれる彼女は、だいぶ人がいい。

 普通なら過剰にのめり込む姿にドン引きするところだというのに。


「お世辞じゃないよ? だって……あんな風に見つめられたのって初めてだったから、ちょっとドキドキしちゃったし」

「え?」

「あはは。なーんてね」


 僕をからかっただけなのか、彼女はイタズラを楽しむ幼児のようにはにかんだ。

 それは、有坂乃恵にしては、珍しい表情だと思った。


「それじゃあ、教室戻ろっか」

「あ、うん。……いや、ごめんトイレ。先に戻ってて」

「そう? わかった。じゃあ、また後でね」

「う、うん」


 ごく自然に彼女と教室まで一緒に歩こうとしていた自分に気づき、慌ててトイレに行く。

 教室まで彼女と会話を繋げられる自信がない。

 べつに催してもいないのに、近場のトイレに入り個室へと籠もる。


 いまになって心臓がバクバクと激しく鳴り出す。

 なんだったんだ今の時間は?

 これからよろしくって……美術の授業のたび彼女と一緒に絵を描くってことか?

 また後でねって……教室でも親しげに話す気か?

 あの有坂乃恵が? 僕と?


 なんだこの状況は?

 桜並木で出会った女の子が、実は同級生で、向こうも僕のことを覚えていて……絵を見せる約束まで、


「勢いでなに約束しちゃってんだよ……」


 言った手前、持ってこないとダメだよな?

 でも、わざわざあんな大きなキャンバスを抱えて学園に持ってくるのか?

 彼女に見せるためだけに?

 それって、かなり仰々しいことじゃないのか?

 本当にただ社交辞令で、ああ言っただけなのでは?

 いざ持ってきたら今度こそドン引きされるのでは?


「ああ、わかんね……」


 彼女との距離感がうまく掴めない。

 幼馴染紗世を相手するときは、こんな風に悩んだりしないのに。


 これから毎週、こんな思いをする羽目になるのか?

 はたして僕の心臓はもつのだろうか。

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