先輩との最後の夜

 その後にまた守口先輩達のところへと戻る勇気なんて僕にはなかった。 またそうすることも出来ない状況でもある。

 

 菅居にメールを送ってはみたけれど、まだ返ってこない。

 

 仮に返信が来たとしてもなんて言えばいいのか?


 菅居はおそらくは必死でフォローをしているだろう。 けれど彼から見れば、僕と菅居は共犯だ。 


 塚原先輩と同じ。 いや、ある意味余計なことをしてしまったという意味ではそれ以上に罪は重い。


 状況を打破しようとしたというのはあくまでこちら側の事情であり、守口先輩から見れば、僕達のやったことは悪意と捉えられても不思議じゃない。


 そしてそれは違うとは決して言えないからこそ僕は後悔していた。


 謝ることすらできない。 そして菅居はそんな僕以上にきっと苦しんでいるだろう。


 唯一、そんな想いからは無関係だと思っているであろう当人は上機嫌に酒を飲んでいた。


 鼻歌交じりに一口、一口と酒を煽っては思い出しているのか?


 笑っている。


 ことここに至って僕は先輩に恐怖していた。


 畏怖とは言っていたけれど、その中のある種の尊敬というか惹かれている部分はすっかりと消え去って、僕の前であれだけの酷いことを行った人間がただ恐ろしかった。


 一体全体、どうしたらあんな仕打ちが出来るのだろう?


 本当に嫌っていたというのならまだ一部ではあるが理解は出来る。


 でも塚原先輩は守口先輩のことを忘れていたのだ。 対面してもなお、思い出せないくらいにどうでも良い存在だと思っていたはずだ。


 それなのに、あんな言葉を浴びせて、しかもそれ自体が嬉しいことのようにいま目の前で酒を飲んでいる。


 悪意が見えないからこそ余計に怖い。


 だから付き合わされて酒をいくら飲んでも僕は酔えないでいた。


「暗いわね…何が不満なのよ」


「暗いって…そりゃあんなことがあったらこんな風になりますよ」


 恐る恐るも怒りをぶつける。 そんな反応すら彼女からしてみれば痛快に見えるのか、ますます機嫌が良くなって酒が進むようだ。


「私は君…いいえ君達に言われたとおりにやったわよ」


 もはや何度も聞かされたその言葉が耳に入るたびに苦痛がやってくる。 

 

 確かに先輩は言われたとおりに守口先輩をフッてくれた。


 こちらの思惑以上に…やり過ぎなくらいに…だ。 

 

「だからって…あそこまでしなくたって…」


 言いかけたところで酒の缶が乱暴にテーブルに置かれた。 それで思わず言葉が途切れてしまう。 


 でも先輩は不機嫌でもなく、先ほどのように上機嫌でもなく、真剣に、こちらが震えてくる位に真面目な顔をしている。


「悪いけど、ああいうことになったのは君達のせいよ。だから言ったでしょ?私にメリットが無いって…いいえ、むしろリスクを負ってまでやってあげたんだから文句を言われる筋合いはないわね…それにあの子も内心、喜んでいるかもね」


「あの子って…菅居のことですか?」


「そう、あの子よ。大方、あの子に泣き付かれたんでしょ?よかったんじゃない?傷ついているときに慰められて、上手くやれればあの子にとってはチャンスだものね」


「…そういう言い方、やめてくださいよ」


「いいえ、止めないわ。勘違いしないで?私はあの子を応援してる…うまく彼を慰めてほしいってね…出ないと私が困るもの…」


 先輩の言い方は不思議だった。 確かに菅居は先輩に対して悪意…ある意味、当然といえば当然だけれど、そんな菅居を応援しているという口ぶりは奇妙に感じた。


「それなら…もっと上手いやり方があるでしょう?なんだってあんなひどい言い方をするんですか」


 責める僕の言葉を聞き終えてもなお、先輩は笑っている。 笑うというよりも噴出してしまうような少し馬鹿にされているような様子で。


「ああでも言わなければ、彼みたいなタイプは気づかないでしょうが、人を好きになるってのはそんなに簡単なことじゃないのよ?……嫌いになるのも…ね」


「先輩がそれを言いますか…」


 嫌味な口調になっていることには気づいている。 それでもあえてそう言っている。

 

 もうどうにでもなれってんだ! と破れかぶれの気分だ。

   

 でも先輩はそんな僕のガキっぽい憤りすらも何かしら可愛く思えるのだろうか?


 表情を和らげて、満足そうに瞳を細めている。


「そうね…でもきっと君にも理解できるよ。いつか…もしかしたら近いうちに…ね」


 なおもそんなことを言う先輩に毒気が抜かれてしまった。 


 だってそんなことを言う先輩の顔は今までで一番優しい表情をしているものだから、それ以上嫌味めいたことを言えなくなってしまう。


「先輩は…その…誰かを好きになったことってあるんですか?」


 唐突な言葉は無意識に口から飛び出ていた。 でもそれを先輩は落ち着いていて、ゆっくりと噛み砕くように話し始める。


「そうね…私だって本気で誰かを好きになったことくらいあるわよ、すべてを捧げても後悔しないと思ったくらいのね、高校生のときに好きな先輩が居てね、もともと大学もその人を追いかけて入学したくらい……」


 そこで一度、言葉を切って酒をまた一口煽る。


「大学に入ってすぐに告白して、フラレて…それでもめげないで半年くらいはアプローチして…やっと付き合えたのよ。でもね、その人はいつも何かに一生懸命で全然一緒に居てくれないの…雨の時だけよ、唯一、隣に居てくれたのは…」


 それは辛い記憶なのか、それとも良いことだったのか。 先輩の表情からは伺いしれない。 


 ただ寂しそうに口角を上げるだけだ。


「そ、それで…その人とは…」


「うん?結局はフラレたわ…海外協力青年隊?ってのに勝手に入って、大学も止めて…私にはただ一言メールだけ『さよなら』って送って…それから二度と帰ってこなかった」


「そ、それ…は…」


 ひどい話ですねという言葉が出そうになって慌てて飲み込んだ。  

 

「だからなのかな?雨の日は一人で居たくないのよ、あの人のことを思い出すから」


 それだけ言って先輩は黙って最後の一口を飲み干す。 まるで照れ隠しのように、誤魔化すように…。


「結局、彼にとって私ってその程度でしかなかったのよ。いまさらそれがひどいとは言わないけれど…だって誰をどこまで思うのかって各人の自由でしょ?」


「そ、そうですね…」


 あの飄々としている先輩の意外な過去を聞かされて僕はそうとしか答えられなかった。


 もしかして先輩のある種のふしだらな行動の一因はそれなのかもしれない。


 誰かに自分を刻み付けたい。 忘れられないように。 自分が古くならないように…。


 それは先輩がかつての恋人に出来なかったことへのある種の復讐なのだろうか?

 

 それともいまだに忘れることも気持ちが古くなることもない先輩なりの努力なのだろうか?


 僕には判断できない。


「…酔いすぎたわね。どうにも君とは間が持たないから話し過ぎたわ、忘れてちょうだい…忘れたい過去よ」


 酔ってるからか、それとも本当に恥ずかしかったのか? 顔を赤らめて潤んだ瞳とやや舌足らずな声をして、ボンヤリとどこかを見ている。


「まったく君のせいよ…身体を合わせてくれる相手ならここまで酔うことはないのに…本当にひど…い…男…」


 先輩はそのままテーブルに突っ伏してしまった。 そしてすぐにまた「クー、クー」と可愛らしい寝息を立てる。


「それは…ごめんなさい」


 先輩が聞いていないことを察して、謝る。 


 何の意味も無い行為かもしれないけれど、先輩がふと垣間見せてくれた心の底と身体をあわせてそれをつかの間忘れさせることの出来ないことへの謝罪を。


 ふと携帯が震える。 メールのようだ。


 開けばそれは菅居だった。


 まだ守口先輩と一緒のようで、先輩はかなり荒れているようで、酒を飲んでは泣いて、また飲んでは泣いてを繰り返していて、菅居の方も参っているようだ。


『あの女を私は絶対に許さない』


 メールの最後に綴られた言葉は心が抉られるように感じた。


 それでも僕は傷ついて苦しんでいる守口先輩も大事な人を傷つけた菅居の怒りも理解は出来るけれど、同じ気持ちにはなれないでいた。


 たったいま先輩の隠していた一面を見てしまったがゆえに。


 どうにもならない状況とどうにかしたい気持ちだけがユラユラと心の中にあって、ただ悪酔いしたときのように胸の中でゆれていた。



      



 明けて次の日に大学へ行っても誰も居なかった。 菅居も安雄も守口先輩もだ。


 他の学生達はもちろん通学している。 ただ僕が話の出来る友人ともいえる人たちは誰一人として来なくなってしまった。


 菅居はずっお塞ぎ込んでいる守口先輩に付きっ切りなようで、安雄に至っては返事すら返ってこなくなった。

 

 一人で通学し、講義を受け、そして帰っていく。


 ずっとこれの繰り返し。 そしてその間ずっと雨が振ったり止んだりしていて、天気も不安定だった。


 後期試験はいよいよ明日だというのに。 誰も来る気配が無い。


 その間、僕は大学ではぼっちを極めていた。 


 僕のほうも先輩との噂とやっかみによって誰とも会話をする気力がなく、後期試験直前だから、絡まれることもない。


 だが大学では孤独だったが、それ以外ではそうではなかった。


 塚原先輩だ。 あの日からずっと先輩は僕の家にやってくる。


 大学には通っているようだが、向こうから話しかけてくることはなく、でも講義が終われば僕の家にまっすぐ帰ってくるのだ。


 そして間を持たせるように酒を飲む。


 僕もそれに付き合っていた。 


 もちろん後期試験の勉強もしていて、幸か不幸か先輩が色々とアドバイスをしてくれるので、はかどってしまっている。


 先輩はいつもどおりで、どんなに酔おうともあのときのような弱々しい素振りは見せず、むしろいつも以上に飄々としている。


 僕の方も後期試験直前なので、まずは自分のことを考えないといけない。 


 心を抑えて普通に会話をし、そして一緒に飲む。


 そんな風に過ごしながら、勉強をしていたときにふとメールが来た。


 差出人は…安雄だった。


 実は今までに何度かメールをしていたが、一向に返ってこなかったので、久方ぶりのメールにほっとした。


 文面は簡潔だった。 


『明日、試験終わった後に話しがある』と。


 いったいどうしたんだろうか? 確かに大学を休みまくっていたことには心配していたが、何か決意をしたようなその文面に心がざわついた。


 そんな僕の横合いからメールを盗み見た、先輩は上機嫌だ。


『何がそんなに楽しいんですか?』 

  

 問いかける僕に、先輩は自分で買ってきた数本目の酒を飲みながら、少し寂しそうに、


「別に…明日が楽しみだなってだけよ」


 含みのある言い方と僕の方も余裕が無かったので、無視して勉強を続ける。


 けれど、勉強も終わり、そろそろ寝ようとノートを閉じたときに先輩が唐突な提案を出してきた。


「ねえ…上原君さ、しようよ」


 何を? とは聞かない。 先輩が言いたいことはすでに理解していたので、


「いや、しませんよ…」

 

 と返した。 実は先輩はあれからずっと僕の家に居る間に何度となくそれらしい素振りを見せていた。


 でも僕は守口先輩のことや先輩の過去を少し見たことで完全に先輩をそういう対象として見れなくなっていたのでずっとそれを無視し付けていたのだ。


 けれど始めて先輩の方から直接的に誘ってきたことに対して戸惑う。


 一度断った後でも不思議なくらいに先輩は僕にセックスを誘ってくるが、僕はそれをすべて笑って誤魔化し続けた。


 一体どうしたんだろう? という疑問は出てきたが、ここで先輩の誘惑に乗るにはあまりにも僕と先輩の間には色々と有りすぎた。 


「そっか…わかったよ」


 何度かの誘いを断ったときに先輩は諦めてくれた。 でもその姿は不思議なくらいに悲しそうで、ズキリと罪悪感が心に走ったくらいだ。


 そして一つしかない布団を先輩に明け渡し、僕はいつもどおりに床にゴロリと転がろうとしたところで先輩が最後の提案をしてきた。


「ねえ、せめて…一緒の布団に入ってよ、試験前だしさすがに私も気が引けるからさ…大丈夫、手は出さないから」


 普通は逆なんじゃないかと思えるような言い草ではあるけれど、何度も誘いを断ってしまってバツが悪いということと、電気を消したことで暗くて顔も見えない先輩が泣きそうな表情をしているように思えて僕はそれを受けいれた。


「そもそも先輩だって後期試験があるはずでしょ?大丈夫なんですか?」


「大丈夫、大丈夫…私だって勉強してるんだからさ」


 本当なんだろうか? という疑問を考えるのも面倒くさくなったので僕はそっと先輩と布団に入る。


 フワリと先輩の香り。 華奢な身体を横に感じてもやはりそういった欲望は沸いてこない。


 まるでそれが当たり前のように先輩は僕の隣で横になっている。


 ふと先輩が僕の手を握ってきた。


「これだけ…これだけだから…お願い」


 僕は何も言わない。 ただ優しく先輩の手を握り返した。


「ありがとう…ふふ、ねえ上原君?」


「はい…なんですか?」


 見えない天井を見上げながら返事を返す。


「私のこと…忘れないでね」


「…?忘れられませんよ、先輩は強烈過ぎますから」


 寝る体勢になったことで心が幾分油断したのか、軽口を返すも、


「…そう、でも絶対に忘れないで…」


 妙な先輩の言葉。 でも真剣で、それでいて悲しくなるくらい悲痛に感じる声色。


 僕は答えない。 けれど満足したのかやがて寝息が聞こえてきた。


 僕もそれを確認して瞳を閉じる。

 

 先輩の存在を今までに一番、身近に感じながら。

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