第3話.剣道は審判を殴って勝つような競技じゃありません。

 コーケツ、もとい、公認欠席とは、読んで字のごとくおおやけに認められた欠席のことだ。これに対する言葉として、病欠とかいうのがある。ちなみにインフルエンザのような国に認められた病気に罹って休む場合も公欠に当たり、ほかにも忌引きとかも含まれる。

 ぼくたちが休むのは、そのどの理由でもない。クラブ活動の一環として公欠を申請するというのは、特に運動部の場合、おおむね理由はひとつに限る。


 大会。それも、公式戦。


 川越の外れにある体育館で、いま無数の中学生が集まって、練習している。土曜日は団体戦、日曜日は個人戦という二日がかりのプログラムで(ほんとうは女子剣道団体戦もあるから三日がかりなのだけど)、ぼくたちは地区予選の大会に居合わせることとなる。


 もちろん、ぼくも中嶋も出場はしない。


 出場するのは、先鋒・窪田、次鋒・三木、中堅・黒崎、副将・久川、大将・北島という布陣に加えて、補欠選手がふたり。

 補欠選手について簡単に紹介すると、どちらも中等部二年で、片方が佐伯亮というちょっとおっとりした見た目の先輩と、齋藤智樹という寡黙で眉が太い先輩とがいた。ぼくはまだ剣道部に入って間もないから、どうしても名前の羅列みたいになってしまうのは申し訳ないと思う。けれども同じ部活の先輩だから、ちゃんと名前を覚えておかなきゃ失礼になるので、これでもよく覚えたほうだと自分を褒めたい気分だった。


 というわけで、ぼくと中嶋は、中等部三年の飛田先輩と三人で、体育館の二階から選手たちの試合前の練習を見下ろしていたのだ。


 手すりからの景色は壮絶だった。だって五十もの学校から五人ずつ選手が集まって(補欠を含んだら七人だ)、全員が場所を取りながら技練わざれんをしているんだから、単純計算で二百五十人なわけで、そこにぼくらみたいな応援の生徒や保護者を含めれば、ざっと四百人ぐらいが一斉に体育館に集まっているというのだ。

 この熱狂にも似た活気は、ぼく自身いままで感じたことのないものだった。


「すっげー……」


 思わず漏れた言葉に対して、面白がるような調子で飛田先輩が反応する。


「おまえ、これで驚いてたら県大のときはひっくり返るぞ」


 聞くところによると、上尾あげおの県立武道館ではもっと広くて、より多くの応援の人だかりでいっぱいなのだという。ぼくはまだ行ったこともない世界だったから、想像することすら難しかったのだけど、先輩の言い方がまるでおまえはまだほんとうの剣道を知らない、とでも言いたげにしているものだから、ぼくはひたすら圧倒されるしかなかった。


 選手の先輩たちが練習しているあいだ、ぼくと中嶋は飛田先輩や佐伯先輩から記録の付け方を教わった。これは試合に出ないものの宿命で、大会ごとのトーナメントが、それぞれ実際にはどういう中身だったのかをきちんとリサーチする役回りを求められる。

 特に敵情視察は大事だった。勝ち抜き戦である以上、次に対戦する相手がどの学校の誰なのか、都度都度確認しないとわからない。相手がわからなければ戦いようがない。剣道業界は見かけよりも遥かに狭い。だから、どこの学校が勝ち抜いたかがわかれば、選手は次の対戦相手が誰なのか、すぐにわかる。


 開会式が始まる。


 胴垂れつけた付けた選手たちと、応援のぼくたちが一同集まって、あいさつする。大会の宣誓は前回の優勝校がする決まりで、なんとそれがタマキタだった。北島先輩が壇上に上がり、ハキハキと宣誓する。あとで聞いたところによると、タマキタはここ八年連続で地区予選で優勝してきたという。ここで勝てるかどうかが栄光の歴史に関わるのだ。

 拍手。拍手。拍手。開会式が終わり、選手たちの準備が完了すると、早速試合が始まる。タマキタはシードで二回戦から。体育館の六箇所で始まる試合を見に、タマキタの対戦相手を知るために奔走する。


 ここで、ぼくと一緒に剣道のルールをおさらいしよう。


 剣道というスポーツは(ほんとうは〝武道〟というのが正しいんだけど)、他のいくつかの競技と似て、団体戦と個人戦とがある。団体戦では通常、五人編成のチームで一対一の三本勝負が順番に展開し、その勝者の数で、団体の勝敗が決まるのだ。

 面・小手(右手のみ)・胴。中学生に許された打突部位はこの三つだけだ。


 試合時間は三分。この時間内の試合は、ある決まった姿勢(ソンキョ、という。漢字で書くと難しいから音で覚えろ)から、審判の指示に従って、開始する。境界線を含み一辺がだいたい十メートル前後の四角形で区切られた試合場で、選手は相手の打突部位を狙って打ち込むのである。

 しかし、ただ竹刀で打突部位に当てればいいと言うものではない。その辺がとにかくルール違反でなければゴールにボールを突っ込めば良いタイプの球技とは根本的にちがうところだろう。


 剣道においては、勝敗を決めるのは選手自身ではなく、三人の審判なのだ。主審がひとりで、残りが副審。この三人が選手の打突をその目で見て、しんたいという三要素で即座に判断し、旗を上げる。

 両手に握られた紅白の旗が、打突をした選手のほうに上がれば、それは一票。これを認めるか否かで審判たちの動きは瞬間的な多数決を始める。


 あ、いま打った面は全会一致で入ったらしいね。同時に三人とも赤旗をあげたよ。

 確かに素人が見てもわかるぐらい綺麗な面打ちだった。


 この辺のディティールは、例えば野球のコンマ一秒のビデオ撮影で、アウトかセーフを決めるようなのとはちょっと違う。相手への面打ちがどれだけ中央に寄っているかとか、打った瞬間どれだけ背筋が伸びてたかとか、そんなわかりやすい基準ではできてない。


 残心ざんしん、という言葉が剣道にはある。


 心残りだとか未練を引きずることも意味する言葉なんだけど、剣道においては技を打っても気を抜かないことを意味する。具体的には、打った瞬間の発声──面、小手、胴、と自分で打った部位を叫ぶのを怠らないことや、打った直後にあるべき動作をやり抜くということだろうか。手首を返せば綺麗な面は入るけど、踏み込みと連動した上で相手のからだを抜き去るぐらいでないと、不十分と見做されることが多い。


 竹刀を綺麗に打突部位へと打ち込むのが技であり、打った瞬間に踏み込みや足捌き、姿勢がきちんとしているのが体である。最後にあるのが心の領域で、これを判断する根拠が、さっき言った残心なのである。


 ああ、いまの大将戦は正直入ったかどうかわかんないけど、気合いで叫んで一本にした感じがある。これが残心。これが中学剣道における心が強いことの現れ。

 要するに、気持ちの問題なんだよ、と言われれば、それまでなんだけど。


「次の対戦相手、西中です」


 いちおう報告するが、先輩方は余裕たっぷりで返事をした。

 へえ、ああ、そう。いつかそんなタイトルで流行りそうな答え方で、窪田先輩と三木先輩が面を付ける。団体戦のあいさつのときは、最初に戦う人と、次の人までは面をつけておくのが礼儀というものだ。


 ぼくたちはそのまま、先輩方の背中に回った胴紐に、赤たすきを締める。審判が旗を上げるときの判断材料として、こうした小道具が必要なのだと、あとから知った。


 団体戦。第二回戦。

 私立埼玉北園中学校・対・市立いちりつ西中学校。


 試合場の縁に、選手五人が並び立つ。西中の選手も同様に並ぶと、審判の合図で相互に大きく三歩、前に出る。

 ぼくらみたいな応援のメンバーは、その背後で正座する。顧問の夏野先生も正座する。そして互いに口を閉ざし、背筋をただしたまま、当事者のみが味わう緊張に、ゆっくりと身を浸した。


「礼ッ!」


 審判の一声で、互いに会釈する。その角度は三十度程度の鋭角で、終わり次第後ろに小さく五歩下がって、試合場の境界線に立つ。

 とたん、巨大な花火に点火したみたいに、わっと声が上がる。「ファイトォーッ!」と言う気合の声は、ほんらいは選手ではないぼくたちの闘志をすら掻き立てた。選手たちはみな小手をぶつけ合い、初戦で気を抜くなと無言のメッセージをやりとりしながら、先鋒である窪田先輩の入場を見守った。


 礼。今度は一対一。先鋒同士が会釈して、帯刀して、大股で三歩。

 一、二、三。最後の一歩で開始線につま先を合わせると同時に、竹刀を上向きに半回転させると、その剣尖を、相手の喉元に定めながら、ゆっくりと腰を低く、ソンキョの姿勢にからだを決めていく。


「始めッ!」


 開始からわずか一秒もしないうちに、赤旗が上がった。西中の先鋒が大きく前に飛び出すその直前の小手を、窪田先輩の竹刀が綺麗に打ち込んだのだった。

 瞬きする間もなかった。文字通りの瞬殺だった。二本目もそう大差なく、二、三本のやりとりはあったものの、窪田先輩によるストレートな面が入って、合計二十秒も掛からなかったのである。


 これが、タマキタの実力だった。


 次鋒の三木先輩は、小手の一本勝ち。

 中堅の黒崎先輩は胴の二本勝ち。

 副将の久川先輩は面と小手の二本勝ち。


 みんな一分も掛けずに勝ってしまった。そして北島先輩はというと、ソンキョからの出鼻の面で、二本勝ち。はっきり言って、選手の中で誰よりも早く勝った。


「楽勝っしょ」


 隣りにいた飛田先輩がぼやいたこの言葉を聞いて、ぼくはやっぱりなんて部活に入ってしまったんだろうと、思わずにはいられなかったのである。

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