「居場所のない彼女」 ②

 土日の休みを挟んで、月曜日。

 仁村さんと店長のあいだで、本当はどんな話があったのか。消化不良のときの腹のようにずっと重くもやもやしたものを抱え込んだまま、僕はいつものように出勤した。

 気にしていてもしょうがない。またいつものように彼女とふたり並んでフロントに立っていれば、きっとこのもやもやも消えるだろう。仁村さんはなんでもないと云ったのだ。変に気にしないで、いつものように……と、僕は自分に云い聞かせていた。

 だが、いつもなら僕より先に来ている仁村さんは、フロントにもどこにもいなかった。

 おかしいなと思いながら、僕は厨房を覗いて高桑さんに挨拶をし、尋ねた。

「おはようございます。……あの、今日は仁村さん、まだですか?」

「おはようー。仁村さんねえ、辞めたみたいよ」

「えっ」

 僕は驚いて聞き返した。「辞めたって、えっ、マジですか?」

「わからないけど、朝シフト表見たら、仁村さんのところ線引いて消してあったから」

 僕はそれを聞いて、自分でシフト表を確かめようと足早に事務室に向かった。――仁村さんが辞めた? なんでもないって云ってたのに、そんなこと一言も云ってなかったのに、いきなり?

 やっぱりこのあいだ、なにかあったのだろうか。

 がちゃっとノックもせずにドアを開けると、「なんだ、びっくりした」と店長が振り向いた。

「あっ……すみません。誰かいるって思わなくて……。おはようございます、どうしたんですか、この時間に」

 僕は途惑いつつ、なんとかそう言葉を押し出した。

「うん、急遽シフトの穴埋めでねー。仁村さん、辞めたから」

 本当に辞めたのか。夢から醒めたような、ぽーんとひとりなにもない広い空間に放りだされたような妙な心地に言葉を失っていると、店長が云った。

「なに、どうしたの? ……ひょっとして、惚れてたとか? えっ、マジで? あー、彼女可愛かったもんなー」

 軽い口調でそんなふうに云われ、僕は「そ、そういうんじゃないんですけど、その、ちょっと……まあ」と曖昧な返事をした。が。

「えっ、つきあってたとかじゃないっしょ? だってあのさあ……あ、ごめんドア閉めてくれる?」

 開けたドアの前に立ったままだった僕は、云われたとおりドアを閉めた。

「……ここだけの話なんだけどさ、彼女、この二週間ほど

 ――は?

 うちにいた、とはどういう意味だろう。僕は眉根を寄せ、店長の顔を探るように黙って見つめた。

「あの娘さ、履歴書の住所はちゃんと自分ち、ってまあ実家だよね、親の家になってたんだけど、そこに住んでなかったみたいなんだよね」

 住んでなかった? って、え、なんの話だろう。僕はこのときまだ、店長がなにを云おうとしているのかわかっていなかった。

「で、ぶっちゃけ、俺がそれを知ったのは、湯浅くんの前にいたバイトの子が急に辞めちゃってから何日か経って、彼女が給料の前借りできないかって云ってきたときでさ。なんでって訊いたら、ずっとネットカフェネカフェに泊まってるけど、もう金がなくなって困ってるんだっつって」

 前借り? ネカフェ?

「今までどうしてたのって云ったら、その辞めたバイトの子のとこにいたって云うから、俺もびっくりしたんだよね。……男だよ、もちろん」

 バイトの子のところにいた? 男?

「ようするに、そのバイトが辞めたのも彼女となんか揉めた所為で、彼女はその男といられなくなったから住むところがなくなったと、そういうわけだったみたいなんよ。そんでまあ、でも前借りは無理だなあって俺が断ったら、じゃあ泊めてくれませんかって」

 泊めて……って、え?

「店長の家にですか? 仁村さんがそう云ったんですか」

「うん、びっくりするよねえ~。まあでも俺は独り暮らしだし、ちょうどシフトがずれてるからなんとかなるかなあと思って、じゃあ給料日までだけだよって」

「泊めてたんですか」

「うん。人助け? みたいな。でもずっとは困るって云ったのよ。当たり前っしょ。彼女さ、ここ以外に夜もキャバクラかどっかでバイトしてたみたいだから、ちゃんと貯金してアパートくらい借りなよーって云ったんだよ。まあでも、なかなか難しいっちゃ難しいしねー。敷金とか要らないとこもあるけど、それでも家賃三ヶ月分くらいは貯めないとだしねえ。結局、給料日になっても出ていかなくてさ。それで俺も、あ、この女ヤバいと思って店でで話して、もう出ていってくれっつって、店も辞めてもらったのよ」

 キャバクラのくだりで僕は一瞬くらくらと倒れそうになった気がしたが、ふぅと深呼吸して、聞いたことを頭のなかで整理した。

「辞めてもらったって……追いだしたってことですよね!? で、でも、なんで仁村さんは自分の家に――店長、帰るようにとかって云わなかったんですか!? お金なくてそんなふうに、住むところにも困ってたんならなんで――」

 僕がそう云うと店長は、らしくない苦々しい表情でこう云った。

「いや、虐待とかから逃げてたかもしれないじゃん」

 虐待。まさかという思いで、僕は首を横に振った。

「虐待って……まさかでしょ。家に帰りたくなかったにしてもちょっと親と反りが合わないとか、厳しくてうざいからとか――」

「うざい程度のことで片っ端から手近な男に脚開いて寝床の確保するか? ただの勘だけどさ、ありゃあきっと父親が義理とかで、いたずらされたりしてたんだと思うぞ。そういうことがあると、かえって奔放になったりするらしいからな。……まあ、俺も喰ったけど」

 ――ぼそっと付け加えられた一言に、僕はキレた。

 考える前に手が出ていた。

 椅子から転げ落ちそうな姿勢で呻いている店長、じんと痺れている拳。店長を殴りつけたのを自覚しているかどうかはっきりしないまま、気づけば僕は「あんた最低だ!! 仮に本当にそんなことがあったとして、それじゃあんたもそっち側じゃないか!」と声を荒げていた。

「痛ってーーなちくしょう! おまえもクビだ!! バッカじゃねえのか、惚れてたのがそんな面倒臭い女だってわかってよかっただろうが! ……ああ、ついでに教えてやるわ。あの女、辞める前にそこの抽斗開けて、おまえの履歴書見てたよ。なに見てんだって訊いたら、番地までしか書いてねえから実家住みかって云ってやがった。残念だったなあ、アパートとかで独り住まいじゃなくて! やりそこねたな!」

 今度は明確な意思を以て、僕は店長の脛を思いきり蹴飛ばし、事務室を飛びだした。




       * * *




 アルバイトを辞めてからしばらくして、僕は社会福祉コースのある大学を目指すため予備校に通い始め、勉強に励んだ。


 少しのあいだ、夜の繁華街を歩いて彼女を捜してみたりもしたけれど、僕はすぐに諦めた。仁村さんをみつけることなど、とてもできそうになかった。みつけたとしても、今の僕にはどうすることもできないとも思い知った。

 夜の街には、彼女だろうかと見紛うような若い女性が何人もいた。ゲームセンターやネットカフェ、コンビニ前などでたむろしている若者たち。以前なら近づきたくないなあと思うだけだった、自分とそう変わらない歳の群れを見て、帰る場所がないのじゃないかと憐れみの目を向けてしまう僕がいる。ついつい彼女と重ねて見てしまうことが辛くて痛くてたまらない。僕は、なにもできやしないのに自分はいったい何様なんだと唇を噛んだ。口惜しかった。


 そして、その口惜しさをぶつける道をみつけた。


 福祉系の道に進みたいという僕の希望を、両親は笑顔で認めてくれた。立派な心掛けだと褒めてさえもらえた。そのための勉強も、以前と違ってやりたいことのために学ぶのだという思いがあるおかげか集中できて、ずいぶんと捗った。

 そして季節は巡り、勉強を始めてから二度めの春。僕は大学に無事、合格することができた。両親はとても喜んでくれた。僕も素直に嬉しかったし、誇らしかった。

 僕はなんて恵まれているんだと、心から感謝もした。



 満開の薄紅色を眺めながら、僕は仁村さんを想った。彼女はもう、僕の隣にはいない。映画や音楽の話もできないし、僕のしょうもない振り真似に笑ってもくれない。

 けれど、僕はずっと彼女のことを忘れない。大学でしっかり学んで社会福祉士になり、彼女のような居場所のない若者をひとりでも多く救いたい。僕がこうして大学生になれたのは両親のおかげだが、きっかけをくれたのは間違いなく彼女だ。

 ――でも、できればそのうちひょこっとどこかで会えるといいな、なんて。それが本音ではある。会いたいというよりも、見たいのだ――泊めてくれそうな相手とかじゃなく、本当に好きになった人と一緒になって、幸せに暮らしている彼女の姿を。

 大丈夫。そんな気がした。彼女は誰かに憐れまれるような弱い人じゃなく、僕よりもずっとおとなで、強い人だったから。今頃はきっとどこかで、自分の居場所をみつけているに違いない。

 はらはらと舞い落ちてきた桜の花びらに、僕はそっと手を伸ばし目を細めた。







━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

♪ "She's Not There" Santana, 1977

 (Originally recorded by The Zombies, 1964)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る