Track 06 - Miss You
「独りの時間」
壁に貼ったカレンダーの数字を見る。スマートフォンを手に取り、表示された時計を見る。それを何度も繰り返す。
時間の経つのがやけに遅い。まるで、時が止まってしまった部屋に置き去りにされたみたいだ。独りで過ごす部屋はこんなに広かったのかとも思う――それに、静かだ。静かすぎて耳が痛い。
でも、音楽をかける気すら起こらない。テレビはつまらない。なにをする気もしないのだ。かといって、さっさと寝室に行って眠ろうとも思わない。
――君のいないベッドはとても冷えていて、寒いんだ。
彼女が同窓会ついでに、ちょっと実家で過ごしてくると云って出かけるとき、僕は快く送りだした。洗濯、もしするならちゃんと表示を見てね。タオルは私、分けて別に洗ってるからね。ああでも、三日だけだし溜めておいてもいいわよ。ごはん、ピザやハンバーガーばっかりじゃだめよ、コンビニ弁当を買うならサラダもね。ゴミは分別しなきゃいけないから、さっと濯いで置いといてくれればいいわ。そんなふうに細かいことや、僕の心配ばかりする彼女に、僕は少し笑いながら子供じゃないんだから大丈夫だよ、なんにも気にしないで楽しんでおいで、と笑ってみせた。
彼女に云ったとおり、僕は洗濯も食事もゴミ出しも、ちゃんとやった。いつも彼女がやるのと同じように、きちんとしたつもりだ。やらなければいけないことがあるあいだは、大丈夫だった。
ただ、独りでの時間の過ごし方だけが、わからなかった。
彼女が家を空けて二日めの今日。仕事が休みだった僕は、暇を持て余して掃除を始めた。
部屋の掃除機がけや床拭き窓拭きはもちろん、ベランダも掃き、玄関先もさっと掃いて水を打ち、シューズボックスの中まで拭いて消臭剤を撒き、バスルームやトイレ、キッチンまで完璧に磨きあげた。もう他に掃除するところはないかと探して、エアコンのフィルターを洗い、洗濯槽のカビ取りまでやった。
シャワーを浴びて、すっかり綺麗になった部屋を眺めながら缶ビールを開け、五分ほど休憩すると、ふと思いついてラグの上で粘着クリーナーをころころ転がした。掃除機では取りきれていない髪の毛などがおもしろいようにくっつくので、僕は四つん這いになってラグの隅から隅まで綺麗にした。
そして、後悔した。ああ、僕はなんてことを。ころころしたテープを剥がしながら、僕はそれを見つめて思った――君の痕跡を、なにもかも消してしまった。
テープに付いた長い髪を見て、僕は彼女に逢いたくなった。愛しい僕の恋人に触れたくなったのだ。
ドレッサーの抽斗を開け、彼女のブラシを手に取る。薄茶色の長い髪が何本も絡まっているそのブラシに、僕は頬ずりをした。そして、その姿を鏡で見てしまった――僕は、なにをやっているんだろう。まるで変態のストーカーかなにかみたいだ。もしも彼女が見ていたら、きっと気持ち悪いって云っただろう。
振り返り、ベッドを眺める。ダブルのベッドには清潔な洗いたてのシーツがかけられていたが、彼女の匂いは残っているかもと思った。でも、やっぱり独りでベッドに入る気にはなれなかった。
ブラシを片付け、僕はリビングに戻った。
深々とソファに腰掛け、僕は彼女のことを想った。
――君といるとき、なにか映画を観ようって話になっても、好みが違うからなにを観るかなかなか決まらないし、君の作る料理は薄味過ぎて、僕がソースをかけると喧嘩になったりもするよね。
今は掃除をしてこんなに綺麗な部屋だけれど、いつもはダストボックスめがけて投げたゴミが巧く入らなくて、そのままに拾いに行かなかったりしてね。君はいつも云うんだよね、どうして後でまとめて棄てないのって。
それに、そうだな……僕がソーセージなんかを袋のまま冷蔵庫から出して、つまみに食べるとめちゃくちゃ怒ったよね。朝ごはんに使うのに! って。ごめんよ、ソーセージとかチーズって、ついついそのまんま摘みたくなるんだ。旨いんだよ。
そんなことを考えていて、思った――今なら、彼女のいないこのときなら、好きな映画を観ながら好きなものを食べて、ビールを飲んでゴミをぽいぽい投げて過ごせるじゃないか。カーテンや壁が汚れるからっていつもキッチンの換気扇の下か、ベランダで吸わされる煙草だって、ここで吸えばいい。そうだよ、好きにすればいいんだ。
だけど、そう思ってはみたものの、僕はそのとおりにはしなかった。映画もつけなかったし、ソーセージも摘まなかった。独りを満喫すればいいと思いついたのに、そうする気にはなれなかったのだ。
煙草だけ、一本吸った。
僕はまた時計を見た――さっきから時間は進んだのだろうか。時間ってこんなにゆっくりとしか進まなかったろうか。早く進んでくれないと明日にならない。明日にならないと彼女が帰ってこない。彼女が帰ってこないと――僕はもうおかしくなりそうだ。
たった三日。たった三日一緒にいられないだけだというのに、こんなに彼女が恋しい。
僕はこんなにだめな奴だった? いや、だめじゃないよな、だってほら、こんなに完璧に掃除したんだ。食事だって、君が云ったとおりにちゃんと野菜も食べたよ。うん確か……フライドポテトの代わりにサラダにしたんだ。ハンバーガーのセットだけどね。
あれは昨日の夜だったろうか。今日はなにを食べたか思いだせない。コンビニのおにぎりだったかも。おにぎりを食べて、掃除をして、シャワーを浴びてビールを飲んで――ああ、君と飲みたい。君と一緒に食事がしたいよ、君の手料理が食べたいんだ、薄味でもいい。独りじゃ腹も減らないし、酔えもしない。
スマートフォンを見る。ちっとも時間が進んでいない気がしたけれど、もう夜の十時を過ぎていた。ああ、いちおう今日という日が終わろうとはしてるみたいだ。少しはほっとしたけれど、同時にふと、あることに気づいた。
彼女からの連絡は一度もない。電話も、LINEのメッセージもだ。
電話くらいしてくれてもいいんじゃないか? と僕は思った――メッセージくらい、なにか一言寄越せよ。今からごはん、とかって画像を送ってくれるとか。そして、僕にも訊いてくれよ、ちゃんと食べた? って、いつもみたいに。僕がこんなに君のことで頭をいっぱいにしているのに、君は僕のことなんか、なにも考えもしないわけ?
そりゃあまあ、君が四六時中スマホ片手になにかしてるタイプじゃないのは知ってるけれど。
なんだかすぅっと機嫌が急降下した。
ああ、いいよ。君なんかいなくたって大丈夫だ。君になんか逢いたくないよ。別に帰ってこなくたっていいくらいだよ、君はあれやこれやって煩いし。君なんか嫌いだよ、僕と離れていても、まったく連絡もしないで平気な君のことなんて。
どうして電話一本かけてきて、いつもみたいに口煩くなにか云ってくれないんだ。君の声を聞かせてくれない君なんか、もう――
そのとき、カチャン、と玄関で音がした。
鍵の音? まさか、と思いながら腰を浮かしかけたが、僕はソファに再び凭れ、リモコンでテレビをつけた。
ずっとテレビを視てましたという顔で、「ただいまぁ」と入ってきた彼女に向く。
「おかえり。あれ、帰ってくるの明日じゃなかったの?」
ごろごろとスーツケースを引き摺り、はぁ、疲れたーと彼女は笑った。
「うん、もう一晩泊まって明日帰ってくるより、今日のうちに帰ってきて明日は一日ゆっくりするほうがいいなあと思って。予定変更したの」
「なんだ、実家でゆっくりしてるんだと思ってたのに」
「なによ、帰ってこないほうがよかった?」
彼女はそう云いながら、キッチンのほうへ行った。
「……あれ、なんか綺麗になってる。掃除した?」
「ああ、暇だったんでさっとだけ」
ありがとー、と彼女は僕に微笑んで、冷蔵庫から缶ビールを出した。
僕はリモコンでテレビを消し、スマートフォンを持って立ちあがった。
もう時計は見ない。
「あれ、もう寝るの?」
「うん」
寝室に向かいながら僕がそう答えると、彼女は持っていた缶ビールを僕に渡した。
「じゃ、私も疲れたから片付けるのは明日にして寝ようかな。シャワー浴びてくるから、これ、置いといてくれる?」
「ああ、わかった」
彼女の後ろ姿を見つめたあと、僕は寝室に入るとサイドテーブルにビールの缶を置いた。
すると、リビングから「あーっ、ここで煙草吸ってる! もう~、だめじゃない」と彼女の声が聞こえてきた。
まったく、やっぱり煩いな。僕はそう小声で呟くと――澄ましていた表情を締まりなく崩し、広いベッドの上にダイブした。
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♪ "Miss You" The Rolling Stones, 1978
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