#この気持ちに名前を付けたい

 年齢イコール恋人いない歴の俺にとって、意中の人に話し掛けた経験はない。俺を含んだ不特定多数に向けた笑顔、耳に残る柔らかな声。記憶の残像を抱き締めながら、近付くことはしなかった。片思いのままでいいと思っていた。昨日までの自分は。


 俺は襟元を掴む。有紀さんのことを知りたい感情を抑えられない。昨日の夜から食欲がなかった。


 午前中は夏期講習のプリントを解きながら、有紀さんに送るDMの内容を考えていた。昼休みになってすぐ、下書きを見ながらメッセージを作成する。

 

『こんにちは、凛緖です。創作で困っていることはありませんか。いつでもご相談に乗りますよ』


 推敲を繰り返した結果、無愛想な文面になった。埒が明かないから送っちゃえ、チャットで挽回しようと覚悟を決めたのが先刻。自分の言葉に自信が持てなくなってきた。


 山椒の木さんから教えられた注意点を思い出す。プライベートは詮索しないこと、飾らない自分でいること。

 見栄はすぐにバレますよ。自然体で、彼女を受け止めてください。


 簡単なコツに聞こえるが、実践するのは難しそうだ。返事を待つだけで、冷静さが削られていく。


 昼休みが過ぎても、学校が終わっても、夕食を食べ終えても音沙汰がない。


 リビングから、十時を告げる振り子時計のメロディーが聞こえる。夜も遅いし、今日中の返事はないだろう。そう思ったとき、スマホが振動した。


『凛緖さま、返事が遅くなりました』

『気にしないでください。俺がお節介なだけなので』


 DMの誘いが断られなかったことに安心した。


『カクモンに登録して、凛緖さまの小説を読みましたよ』


 俺は顔を手で覆う。これが俗に言う、隠していたエロ本を家族に見られたときの気持ちなのか。

 有紀さんは読みやすかったこと、誤字脱字がところどころあることを教えてくれた。一つ一つの言葉が、俺の心音を掻き乱す。

 

『きゅんとしました』


 そのセリフはずるい。好きになってしまう。


 応援コメントが書かれたことを知らせるメールは来ていない。俺と二人きりの空間で感想を伝える有紀さんが、愛おしくて堪らなかった。深呼吸をしても、体のほてりが鎮まらない。


『有紀さん、そう言ってもらえて嬉しいです。作家冥利に尽きます』


 俺はお礼を言い、カクモンの使い方についてレクチャーした。有紀さんはパソコンで下書きを編集しながら、俺の話に付いてくる。雛鳥のように微笑ましい。


 お気に入りの本や創作の話題で盛り上がっていると、山椒の木さんからのメッセージを受信した。


『有紀さんとの距離感は掴めています? 凛緖さんだけが熱中しすぎていませんかね』


 会話を始めてから二時間が経っていた。返信に間隔が空くとはいえ、話しすぎたかもしれない。俺は有紀さんに確認した。


『文字を打つの、しんどくないですか? 有紀さんがよければ、今度は電話でお話ししませんか?』

『通話は無理です。幻滅されたら立ち直れない』


 有紀さんがどんな人でも嫌いにならない。きっぱりと言い切りたかったが、口先だけならどうとでも言える。

 俺は先走ったことを詫びた。


『すみません。気が早いですよね。知り合って一ヶ月も経っていないのに』

『いえいえ。こうしてお話しできるだけで幸せですから』


 有紀さんの文字だけエフェクトが掛かっている。勢い余ってスマホの画面を叩き割りそうになった。


 それでは、今夜はこの辺にしましょうか。またお話ししましょう。

 凛緖さま、おやすみなさい。いい夢を。


 ぎごちない挨拶を見返して、変な笑みがこぼれる。


 ぴと。

 頬に冷たい感触があった。


「おばけええええええええ!」


 振り返ると、耳を塞いだ真緒がいた。


「どうした。こんな夜更けに」

「お兄ちゃんのばか。ノックしなくていいって言ったのに」


 諦めるとは言ったが、本当に実行するとは思わなかった。


「ネット小説の更新しないの?」

「明日の朝に予約投稿しているけど」


 真緒は明らかにしょげていた。理由を訊く前に、妹も楽しみにしているのですと右手をつねられた。

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