第6話 私が

 「どう? 解けた?」


 トイレに行っていた潮野さんが戻ってくると、「どれどれ」と回答を覗いてくる。


 「正解っ!」


 彼女は嬉しそうな顔で私の頭に軽く手を置く。


 「手、洗いました?」


 「洗ったに決まってんじゃん! 面白いこと言うね!」


 彼女が笑いかけると、私もふふっ、とつられて笑ってしまう。


 一週間前にこの人が来てから、さらに一週間後。二回目の、彼女との勉強。


 私は、楽しみにしていた。


 最悪に近かった第一印象は、今ではすっかり逆転し、私は彼女が来るこの日を待ち

わびていた。


 「じゃあ次は、この問題だね」


 気負わなくてよかった。


 「結月は頭もいいし、かわいいから、こんな問題すぐに解けるかも」


 「容姿は関係なくないですか?」


 面白い人だった。それでいて、子供の興味を引き付けるのが上手で、今までの、問

題を解いている時に感じていたプレッシャーのようなものも全く感じなかった。


 「これ終わったら、今日も映画観よっか。お菓子持ってきたし」


 先週と同様に、英語の時間の後半部分を使って、海外映画を観るみたいだ。前回見

た続きから観れる。


 最初に流れた時は役者はすべて英語で話していてあんまり面白くなさそうだと思っ

ていたが、日本語字幕から話の流れを理解すると、気付いたころには続きが待ち遠し

くなっていた。


 今日も30分くらい観れる。


 おそらくこの映画は合計で約2時間。週一回に来る彼女の、私に教える期間が一ヶ

月なので、4回分の授業。約2時間の映画を4分割して30分になったのだろう。


 読んだことのある漫画で、主人公の女の子が友達を家に誘って一緒に遊んでいたの

を思い出す。学校に行くことすらできない私には到底無理な話だと思っていた。


 しかし今は、それが叶ったような感覚だった。私以上に落ち着きのない潮野さん

は、教育係というよりはその漫画に出てきた友達のような存在で、年上なのに年上ら

しさが無くて、それが私に安心感と満足感を与えた。


 「一ヵ月なんだ…」


 「ん? なんか言った?」


 綺麗な横顔が私を振り返る。


 「いや、何でも…」


 「あっそ」


 持ち込んだノートパソコンを起動し、あらかじめ入れていたブルーレイを再生す

る。


「どこまで観たっけか…、あっ、ここだ。主人公がリバプールの港から渡米すると

こ」


 「ええっ! そこじゃないですよ!」


 「あれ、そうだっけ?」


 「もう~。結構重要なネタバレされたんですけど」


 「ごめんごめん。…渡米してからもちゃんと面白いから」


 「それならいいですよ」


 一回り年上の人を気兼ねなく責めるのも初めてで、謝られるのも新鮮だった。


 潮野さんが、少し慌てて巻き戻す。「そうだったそうだった」と、先週、最後に見

たシーンを思い出し、一時停止すると彼女の手がこちらに伸びてきた。


 「ほら、観るよ。寄って寄って」


 その綺麗な手が私の肩に回り、パソコンの近くに引き寄せられる。


 隣からは、高そうなシャンプーのいい匂いがして、この人はだらしのないように見

えるけど、やっぱり大人の人なんだな、と思った。


 何かと気兼ねなく話しやすいけど、綺麗で活発な性格の彼女には、宇野さんやお母

さんとは別の意味で緊張する。


 「ジュース持った?」


 「はい」


 「じゃあ、観るよ」


 再生のアイコンをクリックし、映画が始まった。


 それから30分後。


 「あっ…」


 「また来週も観れるじゃん」


 「それはそうだけど、こういうのは一気に観たいからさ。ちょっとだけ残念」


 私は本当に残念な気持ちでため息を吐く。


 「ま、本題は勉強だから、こういうのをダラダラ観てても、結月のお母さん、あん

まりいい顔しないんじゃない?」


 「まあ、そうかもしれないけど…」


 それだけではない。潮野さんは先週、映画に当てた時間は勉強時間の最後の30

分。今回もそうだった。


時計の短針が10を差す。彼女が帰ってしまう。


次に会えるのは1週間後。


これが、どこか懐かしい感覚だった。


彼みたいに、潮野さんが、私の前からいなくなってしまう。


せっかく信頼できて仲良くなれる人が出来たのに、その人たちに限って、私の元から

離れていく。理不尽だ。


胸がざわつく。


「ねえ」と声を掛けられて慌てて彼女の方を向く。


「結月ちゃん。好きな子いるでしょ?」


その声に、自然な反応が出来ずに固まってしまった。


「やっぱり」


予感が的中して嬉しそうに笑う潮野さん。


「まだ、何も言ってないです」


「いや、その反応は、図星って言ってるようなもんだよ」


「そう、なんですか…」


私はたじろぐ。


だって、明確に好き、なんて気持ちではないはずだ。『陽の子』、光くんとは交換日

記を通じてたくさん話したけど、結局、私は彼の顔も、声も知らないし、好きになる

なんて考えてなかった。


ただ…。


「好きな人っていうか、会ってみたい人、なんだと思います」


「なにそれ? …ああ」


案の定、潮野さんは疑問符を浮かべる形になったが、しかし、すぐに彼女は察した。

教育係として雇い主のお母さんに共有された『宵の子』に関する機密事項の一部か

ら、勘づいた。


「『陽の子』ってやつね。へえ、男の子なんだ。そうなってくると、会ってみたいよ

ね。イケメンかもしれないし」


「べっ、別にそういうことではなくて、相手が女の子でも、どんな顔してるか、普通

に気になるじゃないですか!?」


「わーかったってば、ごめんごめん。で、どうやって知り合ったの?」


「最初は、彼の方から眠ってる私の近くにノートを書き置きして…」


それから数分の間、自分の対となる『陽の子』との出会いややり取りについて潮野さ

んに話した。


お母さんにそれが知られて、もうそれが出来なくなったことも。


「そうなんだ。じゃあ、その子もきっと、立派な友達じゃん」


「そう思ってくれたら、嬉しいんですけど…」


一カ月以上経っても返事がない、ということは私のことはそんなに大きな存在ではな

いんだなと痛感する。彼には、私の他にもたくさん友達がいて、私がいくら彼のこと

を思っていても、私はその友達の一部、いや、それ以下である可能性だって十分あ

る。


私以上に魅力があって昼間にも目を開けられる人たちを想像し、落胆してしまう。


「書かないの?」


「えっ…」


さっき説明したじゃないか、と当惑する。お母さんにきつく言われて返事が出来なく

なったから困っているのに、この人は真面目に話を聞いてくれない人なのかもしれな

い。お母さんみたいに、子供の言うことには分かったような顔をして、それらしい相

槌を打って、まともに考えてくれない。寄り添ってくれない。


しかし彼女は、違っていた。


「別に、外に見張りを付けてるわけじゃないんでしょ? あんたのお母さんだって、

まさかこんな時間に起きてるわけじゃなさそうだし」


彼が、返事のないノートに追記して、心配してくれることをどこか期待していた。


「でも、お母さんを裏切るようなことはしたくない。『宵の子』として生まれたこと

で十分に裏切ってしまってるから、これ以上はお母さんにも迷惑かけたくない」


その気持ちが強かった。昼間には全く目を開けていられない私に、日の光を浴びせる

ために抱きかかえ、庭に用意したベッドに身体を運ぶ母。成長するにつれ体重が増え

ていく私の身体を、年老いていく母が息を切らしながら私を持ち上げる姿を想像する

と申し訳ない気持ちでいっぱいになる。


他にも、私のために学習塾とコンタクトを取り、夜の間の時間に特別に来てもらうこ

とをお願いしたり、と他にも、今の私には想像できないような場所で、私のために動

いてくれていることを考えると、母の言うことは必ず受け入れなければという思いで

生きてきた。


母を黙らせてしまう切り札は、あることにはある。でも、今までの恩を仇で返すこと

になるのは避けたい。


だから、私はもう、光くんとは関われない。


「今のうちだよ」


「えっ…」


潮野さんが、いつものふざけ調子とはかけ離れたような真剣さで私に聞いた。


「いつか、彼が大人になって、島を離れることになったとして、…まあ彼も決まった

時間にしか起きれないから島に残る可能性は高いんだけど…、いずれにせよ、好きな

時間に起きれる人と結婚したら、後悔しない? もっと、学生のうちに仲良く話して

おけばよかったって」


 結婚、という言葉を耳にして、今よりももっと遠くの未来を想像する。誰かにとっ

ての生涯のパートナーになった光くんと、隣に立つその女性。


 でも、だからこそ、今のうちに関係を断ち切るんじゃないか。


 「私、昔から、勘が鋭いところがあるんだよね」


 急に彼女は、今の話とは全く関係のなさそうな発言をした。


 しかし、その発言を聞いてから数瞬後、私は動揺した。


 見透かされていた。顔に出ていたのだろうか。


 「場合によっては、なんとかなるけど、って顔してる。そんな気がした」


 「っ…!!」


 「当たり?」


 大きく反応してしまったことで誤魔化せなくなった私は、正解かどうかを確かめる

彼女の問いに、黙って頷いた。


 次いでに、彼女に話しておこうと思った。


 光くんにもまだ言っていない内容。


 母を黙らせてしまう切り札に繋がる、事実。


 「私が…」


 緊張する。黙ってこちらを見つめる潮野さんの目に気後れしながらも、一息に言っ

てしまった。


 「私が死んだら、光くんが『陽の子』から普通の人間になれる。…かもしれない」


 「えっ、それって…」


 「そのままの意味だよ」


 初めて動揺を見せた潮野さんに、私は薄っすらと笑みを浮かべた。

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