#19 乳母に会う

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食後におとずれたのは海辺沿いの小さな家。そこで、ライアンの子ども時代の乳母に会う。


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 海岸をしばらく歩いて、人の気配もなくなった頃、岩場に守られるように小高くなった場所に小さな家が見えてきた。窓辺にレースのカーテンがかかっている。生け垣に守られて、古いがよく手入れされたかわいい家だった。

「ここだ」

「ここ?」

「寄っていいかな?」

「ええ、もちろん。お知り合い?」

「おいで」

 ライアンが木戸を開け、飛び石が置かれた小道を入っていった。両側に赤やピンクのベゴニアが植えられているあいだを抜け、緑色のペンキで塗られた玄関扉についた真鍮のドア叩きを鳴らした。

「はいはい。お待ちくださいよ」

 奥のほうから女性の声が聞こえ、扉が開いた。そこにいたのは、まるまるした体を白いエプロンで包み、笑いじわで顔をくしゃくしゃにした年輩の女性だった。

「まあ、ライアン坊ちゃま、よくおいでくださった。なんて嬉しいこと!」

「マリー、久しぶりだね。元気かい?」

「ええ、ええ。元気ですよ。元気じゃなくたって、坊ちゃまのお顔を見たら元気になりますよ」

「マリー、こちらはアデル・クライン。友人で、いまはぼくのところで働いてもらっている」

「そうですか、そうですか。なんて美しい方でしょう。初めまして、マリーばあやですよ。こんなところまで、ようこそ起こしくださいましたね。さ、さ、どうぞお入りくださいな。さ、さ」

 さ、さ、というたびにマリーが両手を振りまわしてアデルを家のなかに招き入れようとする。

 ライアンはアデルにウインクし、マリーのあとについていった。そのウインクから、ライアンがマリーをとても大事にしていることがわかり、アデルはほほえましい気持ちになった。

「あの融通の利かないじいさんは変わりないですかね?」

 厳格で生真面目な執事も、マリーにかかっては形無しだ。

「ああ、相変わらずだ」

「しばらく会ってないですよ。いつものジャムができているから、取りに寄ってくれって伝えてくださいな」

「わかった」

「きょうは、もちろん夕食を食べていってくださるんですよね、坊ちゃま?」

 ライアンが困った顔でアデルを見やった。

「どうかな、アデルの都合もあるが……」

 アデルはにっこりうなずいた。

「よかった。では、ばあや、ご馳走になるよ」

「お手伝いしますわ」

 アデルはマリーについて台所に入った。いい匂いが漂っている。焼いたパンの香りと、アップルパイのようなシナモンの香り。それから、これはシチューの匂い?

「まるでお告げがあったみたいですよ。ちょうど坊ちゃまの大好物のビーフシチューとアップルクランブル。いらっしゃると、必ずそのふたつを食べたいっておっしゃるんですよ」

「なにをしたらいいかしら?」

「じゃあ、サラダの野菜を切ってくれますかね?」

 マリーはさらに魚のフライとマカロニチーズを作った。

「これはちょうど遊びに来ている孫たちのためですよ」

 ライアンが裏庭でマリーの孫たちと遊んでいる声が聞こえてくる。

「孫たちは坊ちゃまが大好きでね。たまに一緒になったら、もうしがみついて、離れませんよ」

「ライアンとは昔から?」

「ええ、赤ちゃんの時から、住みこみでお世話をさせていただきました。本当にかわいい坊ちゃまでね」

 マリーが遠い目をした。ライアンの小さい頃を思いだしているらしく、笑顔がさらに深くなる。かわいがっていたことがよく伝わってきた。

「長く入院したと聞きました」

「そうなんですよ。もともと、お父さまはご多忙で、お母さまは病弱でしたからね、寂しい子ども時代でしたよ。あたしのほかに専属の使用人、少し大きくなると家庭教師が何人もつきました。お母さまは早く亡くなって、お父さまはますます忙しくなられて。そのあいだに、きっと寂しさもあったんでしょうね。大病を患って入院されました。5歳くらいですかね、ちょうどうちの孫くらいでしたよ。あたしたちも病院にはずっといるわけにいかなくてねえ。ずいぶん寂しい思いをされたはずですよ」

 マリーがしんみりと言う。

「そうだったの」

「でも、小さい時からお優しい方でね。すくすくお育ちになって、いまでは、こんな老婆のことまで気に掛けてくれますよ」

 孫たちも一緒の夕食は、マリーの娘も加わり、昼食とは打って変わって、にぎやかで楽しい食事になった。静かにしなさいと怒られても、子どもたちはまったく気にしない。美味しいグラタンを口いっぱいほうばりながら、また兄弟でちょっかいを出し合い、口にものを入れてしゃべってはいけませんと叱られ、手を出しては、また怒られている。

 よく煮こまれたビーフシチューは、なつかしさを感じる家庭の味で、リンゴをふんだんに使ったアップルクランブルも甘すぎず、隠し味の香辛料がほどよく効いて美味しかった。

「アデル、シチューのお代わりは?」

 マリーに訊ねられて、アデルは苦笑した。「食べたいけれど、もう一口も無理。とても美味しかったです。こんなに食べたら太ってしまいそうだけど」

「少しは太ったほうがいいですよ、痩せすぎだと疲れますからね」

 マリーにたしなめられ、アデルはまた苦笑いをして、ライアンを見やった。

「ぼくも、生まれてからずっとそう言われ続けてきたんだ。この2倍くらいの巨漢にならなかったのが不思議なくらいだ」

 ライアンが笑った。

「子どもたちも寝る時間だろう。どうかな、月もきれいだから、少し散歩してこようか?」

 ライアンの言葉にアデルの胸がどきんと高鳴った。

「ええ、でも、片づけは……」

「作るのを手伝ってもらったから、わたしがやりますよ。ご心配なく」

 マリーの娘がそう言ってくれたので、アデルはライアンについて外に出た。

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