第13話 どうでもいいんじゃなかったの

あたしは、あたしの絵の中にいるのだろうか?


ドアが閉まった。部屋の中はいつもと変わらない間取りと家具の配置をしている。違うところがあるとすれば、昨日あたしが描いた絵が、この部屋にないことくらいだ。いったいいつから、こんなに精巧に絵を描くようになったんだろう。あの頃からずっと、絵なんて少しも好きじゃないのに。

連れていって、と言ったけれど、そもそもこの人はどこから来たんだろう。本当にあたしの絵の中にいたんだろうか。そうだとしたら、やっぱりこの人は──。

「どうでもいいんじゃなかったの?」

独特な濃淡のある瞳が、あたしを覗き込んでいた。なぜあたしの考えていることがわかるんだろう、あたしは何も言っていないのに。

そういえば、あの秋の日もそうだった。言ったのか思ったのか、言われたのか思われたのかが曖昧なまま、会話が進んでいたような気がする。

「どうでもいい、です」

唇が勝手にそう答えている。あたしには選択肢がない。膨らみ切った後悔と執着が、この人に抗うことを許さない。

「ここなら、ずっと一緒にいられるよ」

そう言われた瞬間に、また涙が溢れた。堰を切ったようにあたしは言葉を紡ぐ。

「怖かったんです。あなたに嫌われるのも、あなたがいなくなるのも……。だからあたしは、自分の感情に耐えられなくなって、怖くて、あなたから遠ざかって、やり過ごそうとしたんです」

「うん。知ってるよ」

「あなたが何かに傷ついて、苦しんでいるのもわかってたのに、あたしは何もできなかった」

「でも、たくさん描いてくれたから、退屈しなかったよ」

彼女は指先であたしの涙を拭った。

「どう思っていたんですか、あたしのこと」

「うん?」

「先生の中で、あたしはどのくらいの大きさだったんですか」

中学二年のあの頃、あたしはずっと先生のことばかり考えていた。今にして思えば、さっさと認めてしまえばよかった。

「わかんない。でも穂花さん、私はあなたが好きだよ」

彼女は屈託なくそう言って笑った。ずっと聞きたかった言葉を、なぜこんなにも容易くくれるのだろう。

「ずっと、あたしの絵の中にいたんですか?」

「わたし?そうだよ」

「それは、あたしのせいですか?あたしが望んだから?」

「また難しいこと考えようとしてるでしょ」

ここにはもう私たちしかいないんだよ。

涙はもう出ていないのに、彼女の手はあたしの頬に触れたままだ。

「絵、もう描かないんですか」

「やめたの。絵なら、穂花さんが描いてくれるでしょ?」

あたしは本当に、どうでもいいと思っているんだろうか。頬を撫でる彼女の手は抗いようがないけれど、あたしがずっと欲しかったものは、果たしてこれだろうか。そもそもあたしは、何かが欲しくてずっと絵を描いていたんだろうか。

──私にとって重要なのは、描くことそのものなの。

先生は、寂しそうな顔でそう言っていた。あたしはそれがわからなくて、そんなに辛いならやめたらいいのにと思っていた。あたしにくれると約束していた絵は、結局もらえなかった。

「ああ、そっか。約束したもんね?それは描いてあげる」

どうしてあたしの望みを、何もかも叶えようとするんだろう。

「いいんです、別に」

どうでもいいと思ってあのドアを抜けたはずなのに、どうしてあたしはまた迷っているんだろう。この人が先生であろうとなかろうと、あたしはもう、元には戻れないのに。

「美咲さんは、あたしに望んでいること、ありますか」

「なあに、それ」

くすりと笑う頬に、片えくぼが見える。

「だってなんか、あたしばっかり望みが叶っているような……」

「別にいいのに。ずっと一緒にいてくれたら、それで充分だよ」

「ずっと、ですか」

「そう、ずっと。まあでも、元からそのつもりだったかな?」

そう言われて、あたしの逡巡はまた鳴りを潜めてしまう。もう一度会えるなら、もう二度とこの人を一人ぼっちにしたりしないと、そう思ってずっと描いて来たのだ。たとえこの人が誰であろうとも。

「あのドアは、もうあたしの部屋と繋がっていませんよね」

あたしはたった一つしかない自室のドアを指さす。一度閉まったらおそらくもう戻れないんだろう。そんな確信があった。

「そうだよ」

「なら、どこへ繋がっているんですか」

「さあ。どこと繋がっていて欲しい?」

彼女の優しい瞳に見つめられて、あたしは息が止まりそうになる。ずっと会いたかった人が目の前にいるのが、どうしてこんなに怖くて苦しいんだろう。

「海に」

石崎先生は、気がつくだろうか。

「ん?」

「海に行きたいです」

美術室の引き出しの中にあるあたしの絵に、あたし自身がいることに。気がついたところで、もうどうしようもないけれど。

二度と戻れない場所に来てしまったのに、あたしはまだ、止めて欲しいと思っているんだろうか。何もかも自分の責任なのに。戻れないと分かっていながらこの人の手を取って、こんなところに迷い込んだのは、他でもないあたしなのに。


「じゃあ、海に行けるよ。行こうか」

そう囁かれた瞬間、ドアの向こうから潮の匂いがした。引き寄せられるようにドアの前に歩み寄ってノブを捻ると、本当にそこは海だった。波の音がざあざあと耳を撫で、潮風があたしの前髪をさらっていく。

裸足のまま、あたしは駆け出していた。

「穂花さん、転んだら危ないでしょ?」

少しだけ怒ったような声が後ろから聞こえて、あたしは振り返った。長い髪が潮風でばさばさ揺れている。その景色を見た瞬間に、あたしは悟る。あたしは知らない。美術室の外で、先生がいったいどんな顔をするのか。学校の外で、あたしは先生に会ったことがない。

「どうしたの?」

あたしは知らない。先生が道端で、駅で、電車の中で、家で、海で、どんな顔をして歩いて、呼吸して、生きていたのか。ひとつも知らない。知らないから描けなかった。あたしと先生の思い出は、美術室の中にしかない。なんてことない話をして笑う先生の顔の背景は、いつだって中学の美術室だ。

あたしは先生を知らない。

「あなたは、絵ですよね」

知らないから、捏造するしかなかった。あらゆる場所で、あらゆる呼吸をする先生のことを。でも捏造したら、どこまで行ってもあたしの知っている、あたしが欲しい先生しかいないんだ。そんなの先生って呼べるだろうか。

「どうでもいいんじゃなかったの?」

この人の独特な瞳の濃淡はあたしが描いた。陶器みたいな肌も長くて艶のある髪も、片えくぼも、全部全部あたしが描いたんだった。あたしは先生を何重にも塗り固めてしまったから、もうどんな顔で笑う人だったのか、少しも思い出すことができない。

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