第4話 あの猫

 バタンと音を立てて、準備室の扉は閉められた。

 ──じゃあ、あたしと先生の秘密にしてください。

 そもそもこんな話、人にしたところで信じてもらえるわけがないだろう。

 須藤はこのさき、何を描くつもりなんだろうか。俺は須藤に背景を描くことを勧めたけれど、それは果たして問題ないことなのだろうか。

 須藤は絵を描くことで、いったい何をしようとしているんだろうか。


 須藤の次の絵は、電車の中だった。不自然に上がっていると思っていた右手は、つり革を掴んでいる。どうやらこの人は海辺から駅へ移動して、電車に乗ったらしい。どこへいくつもりなのだろう。

 でも、それよりももっと気になることがあった。

「須藤さん、ちゃんと寝てますか?」

 須藤はこの絵を、3日で描き上げた。目の下にクマができていて、顔色も悪い。なぜそんなに早くこの絵を描き上げなければならなかったのだろうか。

「一睡もしてないってわけじゃないです」

 そう答える須藤の表情は、どこか焦っているようだった。

「無理は良くないですよ。いくら若いからって。テストも近いでしょう」

「成績は元々ボロボロだからいいんです。それより絵を描かないと…」

「なぜです?」

 それは須藤の絵をめぐる一連の物事と、関係があるのだろうか。

「教えられません」

「なぜそんなに急いでいるんです」

「わからない、わからないけど、多分もうあまり時間がないから」

 うわ言のようにそれだけ言って、その生徒は準備室を出ていった。足取りはふらふらとおぼつかない。


 5枚目の絵は花畑だった。長髪の女性は花畑の真ん中でにこにこと微笑んでいる。前回提出された須藤の絵を取り出してみたけれど、電車の中にはもう誰もいなかった。彼女は移動しているんだ。

 そういえば須藤の絵は、電車の絵もホームの絵も、彼女以外の人間がどこにもいない。

「須藤さん、あなたの絵ですけど」

 俺はつい、好奇心に駆られて尋ねた。

「他の人物を描いたりはしないんですか?例えば、この人がどこかのカフェで誰かと談笑している様子を描く、とか」

「できない」

 即答だった。須藤の顔には硬い決意の炎が宿っているように見えた。


 6枚目、女性はどこかのカフェの中にいた。店内は相変わらずがらんどうで、客はおろか、店員の影すら見えない。アイスティーの入ったグラスを、穏やかな瞳でぼんやり眺めている。髪には花畑に生えていた花が一本挿してあった。


 7枚目、女性は道端で猫を撫でていた。動物が出てきたのは初めてだ。猫は女性にすっかり心を開いており、気持ちよさそうに頭を撫でられている。猫の表情も彼女の表情も自然そのものだ。

「須藤さん、あなたの絵、どんどん上手くなっていますから、そんなに切羽詰まらなくて大丈夫ですよ。ちゃんと寝てくださいね」

「下手だから切羽詰まってるんじゃないです」


 8枚目、女性は荷物を抱えて空港にいる。どこか遠くの国へ旅行するつもりらしい。須藤はものすごいペースで絵を描いている。本当に大丈夫なんだろうか。


 9枚目、ヨーロッパのどこかの街並みを背景に、彼女は歩いている。相変わらず絵の中には他には誰もいない。


 ***


「ねぇ、私が前穂花ちゃんに見せた野良猫いたでしょ?ほら、商店街に住み着いてる三毛猫。あの猫、最近めっきり見かけなくなっちゃったの…保健所に連れてかれちゃったのかな…」

 中川先輩が心配そうに言う。

「最後に見かけたの、いつですか?」

「うう〜ん、一週間くらい前かな?」

「たぶん、ふらっと戻ってきますよ。猫ですから」

「そう?そうだといいなぁ。ていうか穂花ちゃん、最近顔色悪くない?」

「あたしは大丈夫です。じゃあ、これで」

 そう言ってあたしは帰路についた。頭の上で街路樹がざわざわと鳴っている。頬に吹く風が冷たくなってきている。空気の匂いも変わってきて、秋が近づいてきている。

 ──やっぱり、思った通りだ。

 先輩に背を向けてから、あたしは確信する。あの猫、死んだのでも保健所に連れて行かれたのでも失踪したのでもない、あたしの絵の中にいるんだ。

 もし本当にそうなら──もし本当にあたしが描いた絵のなかにいるなら──この二年間の間に起こったことのほとんどに説明がつく。石崎先生はあたしに他の人物を描いてみろといったけれど、そんなことしたらどうなるか、これではっきりわかった。

 どうしてあたしにそんなことができるのかは、さっぱりわからないけれど。

 そんなことはどうでもいい。とにかく、絵を描かなくちゃ。

 でも、生き物が絵の中に入っていってしまうなら、背景だって同じことじゃないのかな。あたしはふとそんなふうに思った。

 美術室のあの絵はすぐに捨てたから、あの一瞬で済んだけれど、石崎先生が持っているたくさんの絵は、どうだかわからない。

 もう、現実に存在する場所は背景にしない方がいいのかもしれない。

 たくさん絵を描いて、完璧にしたら、今度はあたしがあの人に会いに行こう。もうあの人が寂しくないように。


 道端にコスモスの花が咲いていて、それがちょうどスカート下の膝に擦れた。二年前のあの日、あたしに好きでもない絵を延々描くことを運命づけたあの日も、ちょうどこんな日だった。夕焼けのオレンジがだんだん弱くなって、薄明るいブルーの色に視界が染まっていく。

 この薄明の空が夜の闇に呑まれるのと同時に、あの人は消えてしまった。夏の果てはなんて忌々しいんだろうと思った。それからずっと、あたしは絵に取り憑かれている。もう二度と元には戻れないだろう。

 あの美術教師は、執着なんて誰にでもあると言っていたけれど、本当だろうか。こんなふうに後戻りできなくなるくらい何か一つに執心してしまう人間が、果たしてあたしのほかにもいるんだろうか。

 ゆっくりと目を閉じて、あたしは回想する。回しすぎたレコードは擦り切れる。あたしは思い出すたびに、あの人を歪めて、気持ちをすり替えているのかもしれない。そんなことはとっくの昔に理解している。それなのに思い出すことをやめないあたしは、馬鹿だと思う。

 もう一度、もう二度、もう三度、あたしは時計の針を戻す。あの人に出会った時へ。それは後悔のためなのか恋慕のためなのか執着のためなのか、はたまた自戒のためなのか、もうわからなくなっている。

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