美術室から外へ出て

トワイライト水無

第1話 どうして描いているんですか

「どうしていつも同じモチーフしか描かないのですか」

 須藤という名のその生徒は、振り返って俺を見た。彼女の背中越しに見えるキャンパスにはいつも、二十代くらいの髪の長い女性が微笑んでいる。

「他に描くものがないからです」

 須藤は当然であるとでも言いたげな挑戦的な瞳で、そう答えた。

「その人は誰なんですか」

「石崎先生には関係ありません」

 俺はため息をついた。

「別に、強制するわけじゃないですが、いろんなものを描いた方が上達が早いですよ」

 本心から出た言葉だった。なんだって、早くうまくなろうと思ったら、なるべくたくさんのモチーフをたくさん完成させていく方がいい。絵に限った話じゃない。

「別に上手くなりたいわけじゃないので」

「上手くなりたくない?」

 須藤の返答に驚いた俺は、思わずそう聞き返した。

「はい。別に上手くなりたくないので。絵、好きじゃないんですよ」

「じゃあ、どうして描いているんですか」

「先生には関係ありません」

 須藤は至って事務的な口調で、それでいて俺を拒絶するようにはっきりとそう言うと、塾があるので今日は失礼します、と美術室を出て行った。

 俺は去っていく須藤の背中と、絵の中の女性を交互に見比べた。どうにも、高校生の女子というのは扱いが難しい。この女性は誰なのだろうか。穏やかそうな笑みを浮かべていて、頬の片えくぼが印象的だった。

「変わってますよね、穂花ちゃんて」

 美術部員の中川が、キャンパス越しに声をかけてくる。穂花、は須藤の下の名前だ。

「ずっとあんな調子なんですよ、先生に対してだけじゃなくて。壁があるって言うかなんていうか」

「じゃあ中川さんも、この女性が誰なのか知らないんですか」

「知らないですねー、聞いても教えてくれないんですよ。別に部活にもちゃんと来るし、やることちゃんとやるしで、悪い子じゃないんですけどね」

 確かに少々引っ掛かりはするが、問題と言うほどじゃない。須藤の担任に訊いても、特に変わったところはない、ごく普通の生徒としか言われないし、俺が考えすぎているだけなのかもしれない。だけど絵が好きじゃないなら、なんでよりによって美術部なんかに入って、毎日毎日絵を描いているんだろうか。

「誰なんでしょうね、優しそうな人ですねー」

 中川はそう言ったきり、注意をキャンパスに戻してしまった。他の生徒たちも黙々と絵を描いている。俺は黙ったまま、須藤の絵を眺めた。背景には何も描かれておらず、本当にただ優しそうな女性が微笑んでいるだけだ。須藤の絵は、アングルが変わることはあっても被写体と被写体の表情は少しも変わらない。優しそうな瞳と片えくぼ。生徒のプライバシーに踏み込みすぎるのは良くないとわかっているが、この人はいったい誰なのだろう。

 ベタな想像をするなら、生き別れた母親とか、姉とか、無二の親友とか、そんなところだろうか。そこまで考えて馬鹿らしくなった。須藤の家庭環境は至って普通だったと聞いている。多少壁を感じることはあれど、精神的に問題を抱えているようにも見えないし、やはり俺の思い過ごしかもしれない。

 しかしどうせなら、絵を描く楽しみを知って欲しい。美術教師の端くれとして、俺はそう思う。どうすれば須藤が、あの女性以外のものを描いてくれるだろうか。俺は考えに考えて、ふと思いついた。


「背景を描いてみるのはどうでしょうか」

 翌日、俺は美術室にやってきた須藤にそう提案した。

「どうして描く必要があるんですか」

 須藤の口調は相変わらず事務的だった。

「必要とか不要とかそういう話じゃないんですが、寂しいでしょう」

「寂しい?」

「ええ。特にこの、上の方とか。だから、この人がどこにいるのか分かるような背景を描いたらいいんじゃないかって」

 須藤はしばらく黙って考えたあとに小さな声で、そうですね、描いてみます、と言った。

「でも私、他のものって描いたことないし、何描いたらいいかわかんないです」

「じゃあ試しに、この教室でどうです?一番身近で描きやすいでしょう」

 俺は自分の試みがうまくいきそうなことに嬉しくなっていた。

「この教室を描いたら、寂しくなくなりますか」

 須藤の瞳が真っ直ぐに俺を見つめていた。その瞳が妙に切実な光を宿しているのに違和感を覚えたけれど、すぐにそれを忘れてしまった。

「ええ。描いてみてください」

 須藤はキャンパスに向き直った。本来なら背景から描くのが基本だけれど、今はとにかく描いてみることの方が重要だろう。

 一週間ほどで、背景が描きあげられた。人物に比べるとやや拙さが目立つが、初めてにしては上出来だ。俺は美術準備室で須藤から絵を受け取って、今度は背景を色々と変えてみましょうか、と提案した。

「いえ、あの」

 いつもはっきりと話す須藤が、珍しく口籠もった。

「どうかしましたか?」

「直してくれませんか」

 須藤はいつもとは打って変わった悲痛な口調でそう言った。単にうまく描けなかったぼやきにしては、いささか大袈裟すぎるような感じがした。

「ひどい出来でしょう、これ、線もぐにゃぐにゃだし、遠近もめちゃくちゃで、色だって影の付け方だってめちゃくちゃで、これじゃどこにいるかわからない、だから直してくれませんか」

 俺はうーんと唸ってから、誰だって初めはそうですよ、と答えた。

「自分の絵のどこが悪いか分かるなら、上達も早いと思いますよ。私がここで直したら、あなたのためにならない」

 須藤は苛立ったように俺をみたけれど、それ以上何も言わなかった。

「何を描いたっていいし、うまく描こうなんて思わなくていいんですよ。次はどこを背景にしたいですか?」

「…それって、今決めないとだめですか」

 須藤は俯いたまま俺に尋ねた。

「別に、いつ決めてくれても平気ですよ。資料を渡しておくのでこれをみて決めるのもいいかもしれません」

 俺は須藤に建物や景色の載った本を手渡した。

「ああ、それから、これからは背景を先に描くといいですよ。そっちの方が描きやすいでしょう」

 須藤は本を受け取ると、それはできるかどうかわかりません、と事務的に答えて、準備室を出て行った。俺はその背中を見送ってから、残っていた自分の仕事に向き直ったけれど、最後の須藤の言葉が妙に引っかかっていた。

 できるかどうかわかりません、ってどういう意味だ?

 須藤から手渡された絵の中の女性は、優しい瞳でこちらを見つめている。

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