~第六章~

十四

 偶然とは何? 世界が因果応報によって成立しているのなら、この世は必然で満ちており、偶然とはただの世迷言となる。実際に何らかしら先行する事象がなければ、新しい事象は生まれない。物体は何かによって力を加えられないと決して動かない。しかし、そうだからと言って世界が必然で満ちていると考えるのは浅はか。それは神の目線からによると思われる。全てを見通すことのできる神にはそれが確信的。だが、人は神になれない。そのため、この問題を主観的にとらえ直す。

 すると、この世界には偶然も存在しているように見える。偶然とはこう。当人の意思と全く関係なく起きた事象が当人と交わること。その事象は当人にとって偶然と言える。

 だから、私はこれからのことを偶然であると考え、そうであるからこそ悲惨で残酷だと思う。


 夏休みは終わり、二学期が始まった。文化祭の時期が近付いている。しかし、部誌のために創る小説は滞っていた。前に比べて感情的な踏み込みは格段に向上したけれど、物語自体の行き詰まりを打破するという抜本的な問題解決には至っていない。彼はそんな私を気にかけ、日常的な話題の中心も私の小説になっていった。彼自身の執筆作業はまだ終わっていないため、私には引け目と嬉しさが同居している。私たちの為にも早く創り上げたい。


 そして、九月の第二週にも入り、雨の日が続く中、部室では小説の執筆に励んでいる。その日の雨音は特に調和のとれたリズムで規則的に降りしきっている。とても心が落ち着く。


 帰りは彼が家の近くまで送ってくれるようになった。互いに手を絡めさせ、何も言わずに夜道を歩く。それが繊細で敏感な私たちにとって望むものがなくなるほどに幸福。だからその日、私はわざと傘を家に忘れてきた。彼はきっと彼の傘の中に私をいれてくれるから。少し意地の悪いことだと思う。でも、そういった理由を作らないと彼の傍に行くのは恥ずかしい。


 坂を前にして、私たちは別れた。彼は、今日は雨だから家の前まで送る、と言ったが、彼に私の家を見せたくはなかった。だから私は彼の申し出を丁重に断り、小走りで坂を上がった。電灯は切れかかっている。数度か光を放つと色を失った。私の影も消えた。月も出ていない。眩しさはどこか遠くのものとなり、後は暗がりが続く。そのことに奇妙で陰鬱な予感がした。前ほどに家に帰ることに抵抗はなくなっていた。彼を思えば、男と女のことを忘れることができたから。それに私が帰らないことであえて平生を崩すのも彼や楓に迷惑をかけてしまうから。しかし、今は家に帰るのが怖い。


 坂を上りきり、門を通り、扉の前に着く。私は立ち止まった。雨が私の体を打つ。髪が濡れ、雫が顔をつたり、涙のように地面に落ちる。車庫を見るに男と女が家にいることが分かり、予感の闇が濃くなった。扉の先から野蛮な二つの声が伝わる。はっきりとは聞き取れない。不安が募る。冷め切った男と女の仲では喜びも、怒りも、悲しみも、どの声も上がらないから。何かが起きている、この中で何かが。胸の奥で重く鈍い音が一定に鳴る。雨音とは違って不快。私は扉に手をかける。そして、慎重に引いた。


 その先も暗い。電気はついていなかった。すると男と女の声がようやくはっきりと聞こえてきた。

「お前のような娼婦と結婚したのが間違いだった! 私が労苦にあえぐ裏でよくもぬけぬけと……、恥晒しだ! 金を返せっ、私が稼いだ金は性根の腐った豚野郎の貢物だったということが今わかった! 信頼を踏みにじられ、半生を台無しにされた男の報いはどう果たせばいい?」

「はぁ? 私から職を奪って暇にしておいてよくそんなこと言えるわよね! 男が稼ぐから女は働かなくていい? ふざけんなよ! 私が積み上げたキャリアは全部台無し、それに歳をとるごとにどんどんあんたは醜くなっていく。そりゃ、私だって寂しくなるわよ。全ての原因はあんたにある! 私は悪くない。 大体、あんただって若い女の股に飛びついていたじゃない!」

「黙れ! それは仕方なかった。近ごろ、不況で仕事がなくなるかもしれないという恐怖を誰が癒してくれたのか。せめて、子供と触れ合う時間があれば……、あぁっ、あぁ、そうだ! お前が私から子供を奪った張本人じゃないか! 歪んだ価値観と糞のような宗教観で人の子供を囲いやがって。私に対する恐るべき裏切りだ」

「馬鹿なこと言わないで! あんたが子供から離れていったんでしょう? それに合わせて私に何もかも押しつけて。料理も掃除も洗濯も子育ても全部私が一人でやってきた。前時代的なクズ男! 詩織が喘息で苦しんでた時も家に帰ってこなかった! それどころかあんたのお母さんに電話して楓の面倒を見てもらおうと思ったら、あんたのお母さん『面倒くさい』の一言で電話を切ったのよ。本当に信じられなかった。北条家はことごとく全員死んでしまえばいいのよ!」


 私は啞然とした。そして、かつての衝撃が手の震えと共に甦った。彼らが私の中で男と女、親という存在からただの人間になり下がった理由が思い出される。あまりにも生々しかった。人間的であり過ぎた。私にとって男の言葉も、女の言葉も、何の説得力も持たない。昔はウェディングドレスを着たかった。男と女は不変の愛で結ばれていると思っていた。不倫という概念を知らなかったわけではない。ただ、よもやそれが私の男と女が互いにそうであるとは想像しえなかった。彼らこそ、真の裏切り者だと、私は……。

「…………」

 倒れ込むように見えない壁に寄りかかった。手の震えは体へと広がり、床に足がつかない。

 きっと、二人は互いに秘密を知った。理由は分からない。興信所を等しい時機に雇ったのだろうか。けれども、どのような理由であれ、再び私の呪いとも言える病が体を蝕み始めた。彼の姿が私の中で朧気なものになっていく。

歩けない。濡れた体で床に座り込む。その間にも男と女の罵り合いは続いている。私は耳をふさぎ、うずくまった。この先何が始まるか予想がつく。それがとても怖い。

 すると、横から足音が聞こえた。誰かがゆっくりと近づいている。私は階段に目を向ける。楓だった。暗闇の中に、鬱屈とした顔と厳しい目を持って私を見下ろしている。私は懇願するように右手を伸ばした。楓がそっと歩き、私に近づく。


「貞操観念の壊れた獣!」


 不意に鋭い声が家中に響き渡り、ガラス瓶が割れる鋭い音が上がる。私は平静を失い、右手を即座に耳に戻し、目を閉じる。竦んだ体が震え、寒さと怖気とが胸を突く。しかし、楓が私の肩に手をかけ、優しく立ち上がらせてくれた。そして、そのまま私の手を引き、二階へと連れて行った。


 楓は私を部屋に連れていき、生地の柔らかいタオルを頭にかけると、部屋を後にした。私はそれで雨水を拭き取ることもなく、まして制服から着替えることもなく、寝具に倒れ込んだ。射す光のない部屋はとても暗く、怒号と微かに聞こえる雨音が私に感じるものとして残されていた。私の体が寝具に深く沈む。意識も同様に奈落へ沈む。


 シーツに隠れ、身を屈めた。私は低く嗚咽する。忘れかけていた恐怖がひたひたと近づきつつあった。楓から男と女の不倫を知った時の私、それに狂気的に動揺した私、以降愛の存在を疑い出した私、それらの記憶が断続的に駆け巡った。そして、彼への信頼が揺らごうとしている。


 私は弄ばれているのではないか、と一抹の不安が頭をよぎった。彼の優しさまでを否定しないにしろ、私が彼を想うほどには彼は私を想ってはいないかもしれない。どうしてこうなるの? 嫌だ。前の私に戻りたくない。全て上手くいっていた……、それが何故? 酷すぎる運命。愛に触れつつあるこの今に愛への疑いを思い出させないでほしかった。人の心と心が永久に結ばれる究極の愛の行方は……、それは元より存在しない? あなたを信じていいのかが分からなくなっていく。私の気持ちも、あなたの優しさも、それは私の理想とは違った熱病のようで、いずれは冷めてしまうの? 夏の間、こんなことは考えなかった。今でも考えずに忘れていたい。しかし、男と女の間から愛が消えていたことを知っただけではなく、二人が今まで被り通していた仮面すら崩壊しようとしているのだから目を背けられない。


 私は愛する人の声をもっと聞きたかった……。


 眠るために必死に目を閉じる。雨の勢いは外で猛烈に増していた。いつしか雷鳴が轟くようになり、窓に激しく打ち付ける粒がガラスを振動させていた。その様子を追うように二人の言い争いも激化していった。形あるものが壊れる音も鳴りだした。私はその度に耳を塞ぎ、シーツを引っ張る。自分が何処にいるのかも分からない。地滑りに巻き込まれていくような感覚。しかし、明日は今日よりも救いがある。私はそう願って眠りについた。




 そうして、夜が明ける前に目が覚めた。窓では青白く光る柱が地を突いた。私は雷鳴に起こされた。まだ雨は降り続けている。不思議と意識がはっきりとしていた。浅い眠りだった。疲労と肌寒さが体に残留している。ただ、野蛮な罵り合いはもう聞こえない。それは良いこと? 分からない。


 私は寝具から床にそっと降り立った。未だに体は濡れている。私は昨日の現場に行こうと考えた。何が起きたかをこの目で見ておきたかった。またお腹も空いていたし、入浴も済ませていなかったから。今日も学校がある。不断の日常がカセットテープを再生するように回りだす、はず。私は自分自身の心内にある恐るべきものに注意し、足音を忍ばせて動いた。部屋の扉を柔らかく押し出す。すると、眩い光が目を射る。私は咄嗟に目を逸らした。そして顔を沈める。


 階段を降りようと足を下に伸ばしたところで、私の足が震えていることが分かった。臓腑の震えが血管を伝わり、足の先にまで届いていた。躊躇だった。だから手すりを頼って足をおずおずと降ろしていった。昨夜の結末を怖いと思いつつ、微かに何事も起こらないことを期待していた。私はその程度で満足できた。一階にたどり着くと、私は少し物怖じする。きっと現場であるリビングはもうすぐそこ。逃げることもできた。しかし、私はやはり期待していた。あの二人に未だなお期待していた。それは少なからずとも男と女が私の親だったから。


 リビングの扉を極めて静かに開き、薄氷に踏み入るとそこは私の知らない場所だった。家具は引きずり回され、ガラスの破片が無数に散らばっていた。その荒れようは明らかに予想を超えていた。しかし、私が一挙に目を見開き、口を押さえ込んだ理由ではない。


 ふと不気味で無機質な電子音を耳にし、ソファーの方に視線を向けた。そして私の背筋は凍り付いた。女がソファーにもたれかかって天井に顔を向け、口を大きく開いていた。その異様さに恐怖を覚えた。さらに、女は私を認識するとぎょろりと目玉を動かし、大きく螺旋を描いて立ち上がった。私はその場から動けなくなり、両眼に冷たい雫が込みあがった。足から崩れ落ちる。もう彼の差し伸ばす手にすがるほかなかった。でも、それは私の思い込みだったのかもしれない。女はもう少し弱々しく憂いを秘めた表情でそこにあったのかもしれない、私はそう記憶できなかったが。


 女は私に歩み寄り、かすれた声で話を始める。

「詩織、昨晩のこと……、聞いていたでしょ?」

 瘦せこけた頬に暗い目元、それが女だった。こうして姿をはっきりと見るのも久しいこと。フィルムに焼き付いた容貌とは一変していた。私はもう女と話す言葉を持っていない。だから、怯えながらも声だけは発さなかった。

「子供達にも直接伝えないといけないことはあるんだけどね。まず、一番大切なことから話そっか」

 女はずっと虚ろな目で私を見下ろしている。その目に私の姿はよく映った。私もさほど女と変わりなく酷い顔をしている。そんな私にそんな女が何かを話す。

「お父さん、家を出て行ったの」

 女は呆れた口調で言った。そして、私の身体から震えが引いていった。女の言葉はそれほどには衝撃的でなかった。ただ、女がそれを一番大切なことだと考えている所に愚かしさを感じた。私は立ち上がる。力がこもっていた。きっとそれの延長線上に結末がある。それで二人については終わり――、


「馬鹿な人よね、考えなしに出て行っちゃって。お母さんには戻るかどうか分かんない」


 ――しかし、得体の知れない気持ち悪さが残っている。女の態度が解せなかった。私は一言でも女に謝って欲しかった。女はそうすべきだと多くの人が口を揃えて言うはず。けれどもその気配はない。

「反対にお母さんはかわいそうよね。浮気された上に捨てられて……、詩織もそう思うでしょ?」

「…………」

 理解した。女は自ら進んで被害者になろうとしている。非を認めるのではなく、仕方のないことだったと考えている。噓をつく気ですら起きない。女とも無論男とも、私は声を交わしたくはない。もう彼と目を合わせて話せるかも分からないのだから……。

 私は意識的に女とは別の方を見た。そしてやはり何も言わなかった。そうすることで、女がどうするかは意識の範疇になかった。知りたいことでもなかった。しかし、女は強引に私の道を阻んだ。女は激怒した。

「待って、どうして何も答えないの? だって明らかじゃない。お父さんのせいでこうなったのよ」

 女が厳しい声でぐっと近づいた。私は動揺する。

「答えなさい! 誰が悪くて、誰に責任があるのか」

 ……胸を砕かれた。狂った女が直情的に怒りを振りまいている。女にとって私は娘であるのに、それが娘に向ける感情? 後どれほど失望の色を上塗りされればいいの? 私の記憶には二人が愛し合っている様子が残っている。しかし、互いに不貞行為に走り、果てに女に至ってはそれを正当化している。これが現実であれは虚構、女がそう体現している。


 私は女に背を向けた。望むことがなくなったから。私は落胆していた。夢見た人間の姿が実際はこうであったことに。そして、女は私を逃さなかった。

「待ちなさい!」

 鋭く獰猛な声だった。その波に体を撃たれた。そこでやっと私は傍観者になった。女に何も感じなくなった。

「本当にどう思ってるのよ! あいつはあなたのお父さんかもしれないけどね。それを示すのは遺伝子くらいで実際は全部私一人でやってきたのよ? それくらいわかるでしょう? あいつは金の亡者よ。今に自らの血に溺れて死ぬわ。だから私は傷つけられた側なの。大体、あいつにしてもあなたや楓にしても私への感謝が足りないのよ! 私が死ねば分かってもらえる?」

 女は床を踏み鳴らしながら言った。その後も女の怒りは続いた。女が疲れて寝たのはその時から約二時間後、私はずっと拘束されていた。その日、私は愛を見失った。




 私は入浴も食事も忘れ、這うように学校へ向かった。通りには哀れみから侮蔑までと様々な目があった。それは学校の生徒や教師も変わらなかった。けれども彼がいる。それを頼りに、不安定な足遣いで教室に入った。私は彼の下へ身を運ぶ。すると彼は青ざめた顔で私の手を取り、私を気遣ってくれた。そして、私は悲しくなった。彼の目を見て私は話せなかった。人の愛し方が分からなくなってしまった。私は彼の手をそっと払い、静かに席へ戻る。しかし、彼は私を引き留めようと声をかけた。私はそれに振り向きたかった。深い猜疑心を捨て去りたかった。でも、あなたの前には男と女が立っている。私は二人が創り出した構造から逃れられない。それにあなたが私に告白してくれた時の言葉を思い出すと、どうしてもあなたを疑ってしまう。


 私は彼から離れていった。彼に喋りかけることができず、一人でいるように動いた。その度彼は私に積極的に接するようになり、つとめて明るく話をした。私は複雑だった。無意識に湧き上がる感情は正しいのか、それに従って良いのか、判断できなかった。だから蠟人形のように黙った。彼に悪いことをしているという自覚はある。それを意識するほどにますます私は閉鎖的になった。


 もう少し愛に対して気楽になればいい? 愛を火遊びのように思えば私は楽になれるの? それは嫌。私は乙女だから。現実に迷いながらも幻想を捨てないから。永久という究極の愛を互いに捧げ合うことは至上の喜び。しかし、家に帰るとその幻想も現実に侵食され、朧気なものになる。女が家にいるとき、私はリビングに呼び出され、延々と男への憎悪と自己弁護を繰り返される。それは日課となった。


 日ごとに私の精神は擦り減っていく。次第に私や楓への非難も増していき、自殺を仄めかすことも少なくなかった。女の背景を考慮しようと、それらの言葉は私の体に蓄積する鉛に過ぎない。過去の私には想像しえなかった辛く苦しい暗黒の日々。不思議と女が楓に話をすることは少なかった。そのことで私が楓に憎しみを走らせることはない。楓も犠牲者の一人だったから。ただ、故に私は孤独だった。他者は言うまでもなく、彼にもこのことは話せない。そのため、女の受け皿が私であれば、私の受け皿は私。負が重なり続ける。


 彼に会うことに耐えられなかった。だから自然と学校を休む日が多くなり、小説も書けなくなった。手の震えで鉛筆を立てられず、また考えることもできない。そうなると部室にいる意味が消えた。人知れず、私は鉛筆と原稿用紙を川辺で燃やした。火花を散らしながら灰が積み重なり、全く焼失するとその跡すらも風に乗って消えた。いっそのこと彼に明確に嫌われれば楽になれると思った。焼いたのはそのため。そういった側面を精神性に取り入れれば、彼は私を嫌うかもしれない、と。しかし、燃え上がる火に私は気づかされた。そうするためにはこの身を燃やさねばならない。そして、私の悩みは愛の論理とは違うところにある。楓は正しかった。けれども、それを知ったところで私にはどうしようもない。私が自身の制御を失う日は傍にある。


 時が経つにつれ、世界から色が抜け落ち、腐っていった。寂れた映画館で一人きり、巻かれた白黒のフィルムを鑑賞している様。エドワード、どうしてあなたは王冠を捨てたの? あなたは究極の愛を見つけていたの? ならば私に教えられる? そう願っても代わりに女が言う。男は媚薬を隠し持っていた、男の友人から密告があった、男は婚約前からの借金を黙っていた、と。そして謳う。男に十数年間耐えた私を褒めて、気を紛らわせたかった、他の男と付き合う、と。それらが事実であっても、私には過大な重圧。殴打され続ければいつか壊れる。それでも女は自分だけが私たちの親であるかのように振る舞い続けた。既に母は尊厳を抱いて死んだというのに。では父は?


 あの日から十数日後の休日、私は家に一人だった。楓は部活動、女については知る由のないこと。私は時間をどう使えば良いか分からなかった。ただ起きて、食事をとり、縁側から草木をじっと見つめているだけだった。そこには弱々しくかすれるような声で鳴くヒグラシが一匹あった。日が上り、そして沈んでいく中、ヒグラシは懸命に羽を動かしていた。辺りが薄暗くなり、音が周りからぽつぽつと途絶えていってもヒグラシは鳴いていた。一匹で、物悲しく、単調に。その頃になってやっと私に関心が生まれた。私は縁側から土に裸足をつけ、ヒグラシのとまる木に近づいた。そして、触れてみようと手を伸ばした。するとヒグラシの動きが止まった。忽然とヒグラシは鳴くのをやめ、木から剝げ落ちていった。私は嫌な汗を浮かべた。ヒグラシが死んだ。私の夏が本当に終わった。


 不意に玄関でドアが開く音がする。私は女かと思って驚き、慌てて家の中に戻る。そして息を潜めた。結局、呼びつけられれば意味がなくなる。でも、なるべく女の意識の範疇にいたくはない。

 私は女の足音に集中し、衝撃を受けた。足音が女のものより重たかった。きっと今家にいるのは男。どうして男が家に戻ってきたの? 何も推測できない。私は女のプロパガンダに騙されるほどに無知ではない。男も女と同程度には罪を負っていると認識していた。

「あぁ……、詩織、楓、私だ。いるか?」

 男が言った。目的はそこにあるようだった。私は男に姿を見せるかどうか戸惑う。男は女よりいくらか理知的だった。そして私は弱く、冷静に限界が来ていた。無謀な賭けに出る気になってしまった。男が私と楓の名を繰り返している。私は声の下へ向かう。

 男は女ほどに相手を憎んでいないかもしれない。愛し合っていたころの姿が一片でも見えるかもしれない。私はただ一言聞きたい。男と女が出会ったとき、そこには何があったの?

 私がリビングに出ると、口髭に手を当てている男がいた。男は私の姿を捉えると、

「あぁ、良かった。特に良かった。お前がいたか」

 そこで私は思った、男と数年はまともに話をしていなかったと。久しぶりに見る男の顔は女のそれとは違い、妙に清々しかった。

「まぁ、座るんだ。落ち着いて話をしよう」

 私は座らなかった。すると男は背筋を折り曲げ、そういう日もあると言ってソファーに座り込んだ。そして胸元から葉巻を取り出し、マッチで火をつけた。恐らくハバナ産。女はこういった男の古風な装いを喜劇と嘲笑っていた。男はいくらか煙を空に浮かべ、話を切り出す。

「すまない」

 はっきりとそう言った。私は内心驚いた。

「あいつから私だけ逃げた。そこはお前と楓には謝らないといけない」


 しかし、すぐにその驚きは冷めた。結局、女と変わりなかった。その後も続く、ただひたすらに女への憎しみが。男は自身の気持ちを私にまくし立てた。あいつは凶暴だろう? 謙虚さが感じられない。人への感謝が足りない。あいつは同性に好かれない嫌な奴だ。自分の友達を金で雇って家事をやらせるのだよ、自分が生産的で創造的な仕事をしたいがために。あいつが新しく男をつくろうとそれはどうでもよい。棺の扉が閉じるときになってやっと気づくはずさ。私がどれほどあいつのために動いたかどうかがな。しかし、今になって気付いたとしても遅すぎる。私は既にあいつを愛していない。私は時間を失いすぎた。


 男は語り続けた。女と同様、その話の中身よりは男が私の前でそれを話していること自体が私を鬱屈とさせる。視界が揺れ、強烈な頭痛に苛まれる。その中で私は聞いた、それでも最初はどうだったのと。男は葉巻を落とした。そして、しばらく考えてから葉巻を拾い、

「私は騙されたのだよ」

 そう答えた。また、咳き込むように笑って、

「その代償は重い。今にあいつは自らの血に溺れて死ぬだろう」

 私は打ちひしがれた。行き場がどこにもない。彼との思い出が全て私の独りよがりな願望に脚色されていた、そう思えてくる。その私が怖い。

「ともかく、事は急がねばならない」

 男は声高らかに言った。そして仰々しく立ち上がり、

「興信所だけではない。容赦なくありとあらゆる手段を使い、蛆虫にすら何も残さないよう搾り取る必要がある。既に弁護士にも話を通した」

 男の言葉の意味するところが私には分からなかった。ただ風を感じた。

「詩織、そして楓に伝えておいてくれ。お前たちもあいつの不倫の証拠の招集に乗り出すのだ。そうして裁判に勝たねばならない。あいつの価値観の下でお前たちを育てるなどとんでもない。私の血が流れている以上はそんな愚かなことには決してさせない。監護権を無論含めた親権を私は奪取する」

 私は愕然とした。体が芯から凍り付いた。愚昧ばかりか、裏切りばかりか、私から手足を引き裂こうとする。女と男が心だけでなくこの肉体すら縛りつける。今更になって親であることを互いに主張する。己の欲望の為に。二人の狭間の卑しい駆け引きの贄に私たちが選ばれた? 何が二人をそう動かしているの? 

「詩織、お前は私を選ぶだろう?」

 男が手を伸ばした。恐怖に身震いする。愛し合った結果がこれなのか、そもそも愛し合っていなかったからこうなったのか。そこを考える余裕など到底持てなかった。私は怯んだ。強姦魔に襲われるような心持ちになった。彼の顔が思い起こされる。そうして私の暴力が働く。私は男の手を振り払い、駆けだした。リビングを抜け、廊下に走り、玄関へ向かう。私は裸足で外に飛び出した。日が沈み、影はどこにも映っていない。私は走り抜ける。一心に足を前へ前へ運ぶ。愛という概念が激情の渦中に放り込まれた。私は強引に愛を知ろうとしている。そのために走っている。私は歓楽街に向かった。


 妖しい光に包まれている。橋を渡り、歓楽街の入り口に辿り着いた私はそう感じた。辺りを見回す。男性というのが多くあった。私の目的そのもの。この場合の作法はよく分からない。けれども、今の私は深く物事を考える能をことごとく消失していた。男性の肉を知れば愛に迫れると、論理を放棄し、結果、つまるところ愛の存在だけを私は探求しに来ていた。彼にその役回りを迫るのは忍びなかった。それに肉であればどの男性であってもさほど違いはない……。

 私は一歩一歩押し進めた。歓楽街に踏み入ろうと足を動かした。しかし私の肉は震えている。足の先は逃れるように内側を向き、手の甲が落着きなく痙攣している。自暴自棄であることに何の異論もない。でも私はどのような方法であれ彼と私の間柄を真実にしたい。私の爪先がそっと入り口に触れる。そして、顔を赤く染め、酒気を辺りに振りまく男と目が合った。揺れ動き、目を丸くしている。私は意を決し――、


「――お姉!」


 背後から声が私に突き刺さった。声主は私の腕を引き、後ろを振り向かせる。楓だった。

「……それは意味がなかったんです」

 楓は悲哀な目つきをして言った。私は悟った、楓の言葉、行動の真意を。私たちは不幸? それとも諦めればいいの?




 私は楓と共に家に帰ってきた。男はいなかった。すぐに冷蔵庫に寄り、中から発泡酒を数本取り出した。そして、部屋に上がってそれを粗雑に寝具へ投げ込み、そのまま寝具に倒れる。もう忘れたい。私は全てを忘れて楽になりたい。男と女、自分自身から逃れる。きっとそれが私を苦痛から解き放ってくれる……。

 タブに手をかけ、発泡酒を開いた。中身は麦色だった。私はしばらくそれを見つめた後に一挙に口へ流し込んだ。とても苦い。口から液が零れる。そのため、息が詰まりそうなところで私は缶を口元から一旦離した。深呼吸する。そして再び缶を口に当て、酒を流し込む。喉と胃が焼け、寝具に酒が浸透していった。でも頭に酔いを回らせることはできた。体が熱くなり、思考がまどろむ。どう? 忘れられる? それはできない。私は脳に現実が見え隠れする度に酒を体に取り込んだ。壊れてもよかった。忘れられるなら。そう思っても忘却だけは叶わない。時間感覚が消え、作業的に飲酒を繰り返した。そうしていると発泡酒は切れた。頭痛や不快感に襲われ、酒は何の恵みを私にもたらさない。けれども果てに私はある一つの決意を固めた。

 私は空の缶を天井に向け、口ずさむ。


Empty spaces,(空虚な世界、)


 愛の探求には一つだけ道が残されていた。


what are we living for?(人は何の為に生きる?)


 それが最悪の結末を呼び起こすことを私は誰よりも理解している。


Abandoned places,(見捨てられた場所、)


 この衝動を止められない。


I guess we know the score(恐らく私はその傷跡を知っている)


 えぇ、酒も私に悪さを働いていることは分かっている。


On and on,(何度も繰り返して、)


 その言葉は無意味。その前から私の理性はどこにも残っていないから。 


does anybody know what we are looking for...(私達の探し物が誰に分かるの?)


 私は既に打ち砕かれている、二人を見て人より愛に執着が強くなってしまったが故に。


Another hero, another mindless crime(時の英雄、時の凄惨な犯罪)


 二人に罪悪があり、私もこれから罪悪を背負う。


Behind the curtain, in the pantomime(秘密裏に無言劇が行われる)


 究極の愛など元より存在しないというのならもうどうでもいい。


Hold the line,(後には引けない)


 ふと缶を揺らすと、まだ奥底に酒が残っていた。


does anybody want to take it anymore(他に誰がそれ以上を求めるの?)


 私は迷わず飲み干した。


The show must go on,(幕が開けられた)

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