~第五章~

十二

 そうして懇意だった私たちはその仲を超え、恋仲となった。その時、やっと世界が色づいた。しかし、今日は互いに気恥ずかしさから帰宅することにした。去り際、彼は私に向かって、夏休みは毎日会おう、と呼びかけた。私はこくりと頷いた。

 楓に今日のことを伝えた。楓は私を手放しで祝福してくれた。より一層、幸せであることを私は実感する。ただ、間違いなく楓は一瞬動揺していた。それをさして気に留めなかった。きっと、驚喜。私はそう解釈した。


 それからというもの、私はほとんどの時間を彼と過ごした。今年は恋に熱い夏。幾度か文章の中に見えたそれを私が体感している。とても晴れ晴れした気分。私はしばらくの間、少なくともこの夏だけは考えることをやめた。私たちの間柄が虚構でも良かった。幸せから外れ落ちたくない。私にとってあなたが恋人であり、あなたにとって私が恋人である、その美しい環境を葬りたくない。


 彼のために携帯電話を買った。かといって必要以上の連絡は取り合わない。彼と実際に会って話す楽しみを大切にしたいから。そして、彼とは私服で会うようにした。しかし、今まで私はそういったことに頓着がなかったので楓に借りようとし、背丈の違いを実感した。だから、楓と共に服を買いに出かける。そこで楓に、メイクはしない方が良いですね、と笑われた。

 彼と見た映画の数も増えていく。ロッキー、ショーシャンクの空に、インディ・ジョーンズ、戦場のメリークリスマス、シザーハンズ等々と。でも、私はフォレスト・ガンプが最も記憶に残っている。それは映画の完成度に由来するのではなく、あなたと一緒に見た初めての映画だったというところに由来している。


 彼の両親が不在の時は決まって彼の家に上がった。そういう日は彼の部屋で一緒に小説を執筆する。それ以上のことは彼も私も求めない。近頃、私の恋愛小説もよく筆が進む。彼は命が吹き込まれたなと言った。とても不思議でありながらその理由は分かっている。また、執筆中は互いに無言を貫いている。私たちは多弁であるときと沈黙であるときのその双方を快く思っているから。

 小説の執筆を休んでいる時、私は思い付きで彼に聞いた。

「将来の夢は持っている?」

 彼はきょとんとした。脈絡がない話題だったからと思う。

「ついぞ前に担任の先生にも同じことを聞かれたな」

 彼は含み笑いを見せて言った。そして、肩をぐるりと回してから、

「俺は作家になりたい。自分という存在の表現方法なんてこれくらいだ」

 私は少し気を揉む。彼の夢を否定したくはなかったが、それが厳しい道であることもよく知っているから。そのため、聞こえるかどうかは天に任せ、

「専業作家はとても小数……」

 すると彼の耳には私の言葉が届いたらしく、彼は顎に手を置き、束の間天井を見上げた後に、

「なら、小学校の教師でもやってやるさ」

 彼は悠々と言った。教師という職の選択は理解できる。しかし、何故小学校を選んだのかは私には分からない。

「じゃあ、逆に君はどうなんだ?」

「私は出版社に勤めたい」

 間髪入れずにそう言うと、彼は少し顔をひきつらせた。

「あぁ、しっかり現実的な夢があるんだな……」

 彼は言った。それによって私は彼の表情の意図を汲み取った。私はどことなくくすぐったくなり、その想いを持って原稿用紙に向き合った。それは今の私では受け止めきれないものだった。


 そして明くる日、夏祭りの夜のこと。試しに祭りの会場の漁港にまで行ってみると、周りは賑やかに出店や花火を見て回っていた。私はその日が来て、楓が着物をこしらえる瞬間まで夏祭りのことを知らなかった。彼もそうだった。そのため、夏祭りに行く予定は私たちにはなかった。しかし、ほんの興味で書店の帰りに寄ってみることにした。

 想像以上に活気の満ちた祭り。私はそう思った。四方から歓声混じりに太鼓の音が聞こえ、煌びやかに辺りが光を放ち、人々の笑顔は絶えそうにない。私も緩やかに気分が高揚する。彼とはいつも静かな所へ行っていたから珍しい体験。しかし、不思議と彼はどこか寂しそうな顔つきをしていた。私が目を合わせると、慌ててはにかんだ笑顔を取るがそれは長くは続かなかった。

 顔を知られている人に私たちの様子を見られるのが気後れするのだろうかと思った。なので、私は彼を人目のつかない所へ誘った。そこは漁港の中でも特に磯の香りが強く、出店で買った商品を口にしている人は寄り付こうとはしない。ただ、花火の打ちあがる様子は他と同じように見える。夜空に咲き誇る儚い花が瞬く間に花弁をまき散らして塵と化す。

「日本人らしいな」

 彼は呟いた。その時だけは口角が上がっていた。すると、私の携帯電話から音が鳴る。画面を見ることもなく、それが楓からだと分かる。私の携帯電話に彼と楓以外の情報は入ってないから。ただ、滅多にないことだった。私は彼に断りを入れてから携帯電話を取り出し、受信したメールを開く。

「やっほーお姉! お姉も会場に来てたんですね、見かけましたよ。それでどうなんです? 凛堂伊織さんへの誕生日プレゼントは結局何にしたんですか? 帰ってから絶対に教えてくださいね」

 私は驚いた。瞬きを繰り返す。今日が彼の誕生日とは全く知らなかった。何故楓がそのことを知っているのか、そこに関心はない。私にとっては何故彼がそのことを黙っていたのかということが最も重要だった。

 私は彼の方を向く。

「今日はあなたの誕生日……?」

 彼は仰天して後ずさりする。

「えぇっ⁈ あぁ、いや、そ、そうだったかな」

 私はそれを追いかけ、距離を詰める。

「どうして教えてくれなかったの?」

「別に隠していた訳じゃないんだ! ただ、言う機会がなかったもんで……」

 彼は影に目を向けて言った。それは初めてのことだった。

「本当?」

 私は確認というよりはそうではないと予測を立てた故にそう言った。ただ、知りたかった。彼が誕生日の日付を黙っていたことが不思議でならない。彼は困惑した顔つきで眉をひそめる。しかし、花火が空に打ちあがると共に困惑を悲哀に変え、

「……噓だ」

 瞬間に空で轟音が轟いた。でも彼の声ははっきりと聞こえた。

「……ギブアンドテイクが嫌だった。俺が誕生日プレゼントを君に贈ったから、君も俺に誕生日プレゼントを贈らないとと気を使わせたくなかったのさ」

 そう言って彼は私に謝った。至って生真面目。それが反って罪悪が誰にあるのかを教えてくれる。私も彼に視線を合わせきれなくなった。心が重く沈む。彼が優しく、愚直に日本人であることはよく分かっていた。だから、私の方から行動を起こすべきだった。やはり男と女のことが私の後ろ髪を引き、彼の隣に行くことを未だなお阻んでいる。しかし私は決心している、少しずつだとしても進もうと

 私は胸を三度叩き、彼に限りなく近づく。すると、彼は覚束ない足取りで私から離れようとした。その彼の袖を私は捕まえる。彼が目を丸くして私の方を向いた。

「……目をつぶって」

 私は言った。後日に彼にプレゼントを渡すというのは到底考えられない。今日が彼が生まれた日。ならば私は今日中に事を起こさなければならない。

 彼が過呼吸になった。きっと迷っている。それがとても可哀想でいたたまれない。だから、思わず私は彼の袖を一度強く引いてしまう。すると彼はぐらっと揺れ、息を吞む。そして何度か瞬きを繰り返した末に堅い顔で両目を閉じた。

私は彼の袖から手を離し、ゆっくりと背中に回る。あなたに会えて良かった。それがきっと人生で最大の幸運。私はそう思い、彼にそっと抱きついた。彼の足がふわりと浮く。そして彼の背中に寄り掛かった。互いの体温を通して私の心と彼の心が触れ合うのを感じる。それがとても温かい。

 空で再び轟音が轟き、私たちを一瞬だけ明るく照らす。

 ……ごめんなさい。あなたへの贈り物のはずが私へのものになってしまった。


 その日以降、私から彼を誘うようにもなった。私はそれまでの自分を忘れつつあった。感情を明確に表現しているわけではないし、いささかの疑問がそれには残っているが、私はその感情を持った先にある幸せを享受している。この日常に終わりが訪れるという発想は全く湧かない。私たちの関係がひとしきりの夢であるとは思いたくない。私の願いは、彼と一緒にこの世界で生きていたい、ただそれだけ。誰がその願いを邪魔するの? 何故、邪魔するの?

 愛はここにあるのに……。

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