七月に入り、ヒグラシの鳴き声が日常となりつつある。時を同じくして、ニイニイゼミも泣き出すのだが、こちらは退場予定がヒグラシよりも早いため、あまり意識はしない。

 期末テスト中にこの虫たちの鳴き声が聞こえてくるか否かで、大方死亡診断書の枚数の予想がつく。無論、何を言うまでもなく、俺にとってそれはテストを受けた教科の数と等しい。学校でまともに勉強しなくとも成功者になった偉人というのはちらほらといるが、まともに勉強してないから成功できなかった人間の方が断然多いのだし、この面において、俺に前者となれるほどの運があるとは思えない。

 期末テスト終わり、俺は机に肘をついて、ある一点を見つめている。北条さんだ。映画館に行った次の日からの一週間とその翌週の今日木曜までは期末テストの関係で部活動はなかった。

 部室や二人きりでない時に話しかけるのは依然として億劫であるため、その日以降俺は彼女と話していなかった。

「しかしだ、凛堂くん。いい加減に事を更なる段階へ発展させる必要があるだろう」

 俺の後ろからぬるりと詫摩が話しかけてきた。自尊心が満たされた表情で、いつになく鬱陶しい。テストに並々ならぬ自信があるんだろう。

 横から古川が現れ、

「そうだね、バルバロッサの次はブラウ作戦だ」

「だから、その例えだと失敗するじゃねえか」

 すると、詫摩は口笛を吹きながら手で拳銃の型を作り、それをこめかみに当てて弾を発射する。ほう、死ななかった。その至近距離で外すとは。

 そして詫摩はニタニタとした笑みを浮かべ、

「まっ、どちらにしろ、もっと二人の時間を作った方がいいぜ。逢引きだ、逢引き」

 まごうことなき正論を言い放った。むむむ……、確かにその通りだ。物理的な距離を近づけることが精神的な距離を近づけることに繋がるのは俺も先刻ご承知済みである。しかし、

「なら、どうするってんだ?」

 俺は捻くれ者のように言った。

「今からは昼食だし、折角だから昼ご飯に誘ってみたら?」

 俺は古川に顔を素早く向け、人差し指を振りながら、

「……なるほど」

 俺は立ち上がり、詫摩と古川を制止するように手を伸ばしながら後ずさりする。そして、一気に後ろを振り返り、早歩きで彼女に近づく。そうか、その手があったか! 

 俺は打って変わって気軽に、

「こんにちは、久しぶりだな」

 たちまち彼女は驚き、読んでいたカラマーゾフの兄弟を宙に投げ、それが再び彼女の手中に戻ると、

「……こんにちは」

 俺はその様子を軽く笑う。

「期末テストはどうだ? 俺は芳しくないが……」

「その話は遠慮する」

 彼女は本で顔を隠して言った。恐らく、手応えがあまりなかったんだろう。

「了解。それで頼みがあって来たんだが……」

 彼女は首を傾げる。

「昼食を一緒に取らないか?」

 俺は少し照れながら言った。

「……どうして?」

 彼女の頬も林檎のように赤らむ。そのため、俺も言おうか言うまいかすんでのところで迷うが、やはり正直でありたい。

「もっと君のことを知りたいからさ」


 俺と彼女は生徒用に開放されている屋上へ向かった。とても見晴らしの良い場所だ。東には青く連なる山々、西には光り輝く海辺、北には綺麗に整理された住宅街、南には人類の力を感じる建造物が立ち並んでいる。ただ、気温上昇が甚だしい近頃に屋外で昼食を取ろうだなんて思うやつはこの学校には俺ぐらいしかいないが、なるべく二人きりでいたかったのだ。

 俺は重い扉を開けて、彼女に先を譲る。

「ここに来るのは初めて……」

 彼女は足を踏み入れると共にそう言い、眼鏡の奥に覗く目が柔らかくなる。それを見て思う、ここを選んで良かったと。

 俺は東を指して、

「あそこには展望台があるが俺はここの方が好きだな。どうせなら、大々的に広告を打って入場料を取らせたら良い。そしたら学校の設備も少しは良くなるだろう」

 彼女は薄く振り向いて、

「……それは嫌」

 俺は軽くうなずき、両手を開いて頭を下げる。

 俺は彼女とコンクリートの上に腰かけ、無地の紙袋からバナナとサンドイッチを取り出す。母親の中で海外ドラマが流行して以来、ずっと昼食はそうだ。一方で、彼女の弁当箱の中身はよく整っている。聞けば毎朝、彼女が妹のを、妹が彼女のを、作っているそうだ。意外にも趣向を凝らしている。というか、妹がいるのか。

「今日から部活動が再開できるな」

 最近、俺は彼女が興味を引く話題について考えていたが、彼女の前に出ればそれを思い出す必要はなかった。

「ええ……、とても嬉しい。不思議と筆が進む気がしているから」

「ほう、それは良かった。楽しみにしとく。そういえば、一度も聞いたことなかったが君が今までで一番面白かったと思う小説って何だ?」

 彼女は箸を持つ手を止め、暫く考えた後に、

「一つに絞るのは難しい。しかし、私が好む読み方というものを挙げるとすれば、それはヴェルヌの十五少年漂流記とゴールディンの蠅の王、という風に一つの舞台を二つの視点から考えたり、ハクスリーのすばらしい新世界と彼の島、という風に対比となっている作品を読むこと」

 詰まることとなくすらすらと言った。

「俺は歴史小説が一番好きだな。例えば西部戦線異常なしだったり、ヴァレンシュタインだ」

「ヴァレンシュタイン……?」

「あぁ、ドイツのシラーの戯曲だ」

 彼女は頭に手を当て両目をつぶる。ヴァレンシュタインという単語を探しているようだ。

「ごめんなさい。戯曲はファウスト以外を読んだことがない」

 何故か謝った。そして俺に顔を寄せ、

「それはどういう作品?」

 俺は不覚にもドキッとし、横に顔を向けて、

「さ、三十年戦争、カトリックとプロテスタントの宗教戦争だ。それで、ヴァレンシュタインっていうのは当時カトリック側の神聖ローマ帝国にいた名将のことだ。戯曲は彼の栄枯盛衰を描いている」

「そう……、読んでみたい」

 彼女は言った。

 そして俺は他にもいくつか質問し、彼女はその全てに丁寧に答えてくれた。その中で、俺も彼女も自然に笑顔が出せるようになってきている。何より、会話を盛り上げようと意識することなく彼女と楽しめている。それはとても幸せなことだ。

 彼女と巡り合わせは恐らく運が良かったからなのだろう。何かが違えば、俺は自分の情熱をこれほどまでに傾けることも、恋焦がれる気持ちを持つこともなかった。前に詫摩は彼女の容姿だったり、性格だったりを悪く言っていたし、それは他の多くの人間が彼女に差し向ける視線だろうが、そんなことはどうでもいい。俺にとって彼女は最愛の女性だ!

 いつの日かこういったことを直接彼女に伝えたい。


 すると、チャイムが鳴る。昼食はすっかり食べ終わっていたため、その点は問題ないが、正直なところ俺はまだ話したりなく、いっそのことサボろうかという考えが頭をよぎったが、それをどうにか思い直し、

「そろそろ、教室に戻ろうか」

 俺は立ち上がった。しかし、俺の袖を彼女が引っ張った。そのことに俺は仰天し、体の動きが急停止する。そして彼女が普段の堅い顔からは思いもよらないほどの愛くるしい表情で、

「この前はとても楽しかった」

 俺は彼女の顔を見つめる。あまりにも突然のことで頭がよく回らない。そのため、俺は隠すことなく思ったままを口に出す。

「また誘っても?」

 彼女はそのまま表情でこくりと頷いた。

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