35・瑕疵

 女官長からの連絡通り、アレックスは式典用の隊服を纏って内宮の出入り口に向かって歩いていた。着込んだ隊服に剣帯をつけると騎士らしい立ち姿になるが、夜会で帯剣する事が許されるのは王族の身辺を警護する近衛だけだから、剣はベルトごと部屋に置いて来た。

 いつもは下げているその重みがないのに若干違和感を覚える。違和感はそれだけではなかった。歩くたびに胸元で揺れる飾緒が、微かな音を立てる。

 肩には大尉を表す三本線。通常はシャツの襟につけている階級章を今日はコートのピンホールに付けていた。着用にあたって間違いがあってはいけないと、サラが女官長に訊ねて初めて知った事だった。

 通常の夜会のドレスコードならばともかく、式典用の隊服の正しい着方など教えられなくては分からない。この一年ですっかり仕事を覚えたサラは、頼りになる侍女だった。

 待たせることがないようにと思って少し早めに部屋を出てきたので、見えてきた内宮の出入り口にまだ王太子の姿はない。

 立ち番をしている兵二人に会釈すると、それぞれ驚いたように軍式のかしこまった挨拶をした。

 二人共緑の隊服を着た尉官だが、肩章をみると自分よりも階級は下―――少尉だった。見ない顔だから、他の師団所属の者たちだ。騎士団の食堂で宴会があるというのに、かわいそうな事に交替勤務に入れられてしまったのだろう。

 それでも今日だけは、彼らが羨ましかった。これから毒蛇の群れの中に飛び込んで行く事を思えば、夜通しの立ち番の方が遥かに気は楽だ。

 しばらくそこで待っていると、複数の足音が近付いてきて振り返る。側近二人が前後を挟む形で王太子がやって来た。

 王太子は夜会のドレスコード通り、テイルコート姿だった。長い手足に均整のとれた身体。見る者に酷薄な印象を与える相貌をしているが、それはこの男の表情が乏しいからだ。それでも王族と言うべきか、黙って立って居れば威厳と気品があり、端正な顔をした偉丈夫に違いなかった。

「時間通りだな、大尉」

「はい」

「今日は俺の後ろにずっとついていろ。お前は何もしなくていい」

「かしこまりました」

 アレックスは頷いて、王太子の後背についた側近―――セーラムの後ろに移動した。

 セーラムの顔を見るのは夏の神事以来だから、あれから半年弱が経っている。

 状況が許すなら会話の一つもしたいところだが、残念ながら今は職務中である。王太子が進むのに付き従って、黙々と歩いて行く。

 外宮の一画にある招客殿の大広間へと移動すると、そこには既に大勢の招待客がいた。

 これからもっと多くの者が集まって来るのだろうが、王家主催とあって王太子も通常より早めの会場入りである。

 王族専用の席は二階のテラス席の奥まった場所にある。会場全体を上から見渡せる場所にあるそこへ、黙ってついて行く。

 前から見れば、体格の良い武人ばかり三人に隠れているから見えないが、歩を進めるたびにその背後に隠れているアレックスに気づくのだろう。しかも、どう見ても場に違和感を与える緑の隊服で、それを目撃した者たちがどよめいている。

 なぜ、とか、誰だとか、ありきたりなささやき声が耳に届くが、その反応に驚きはない。何故なら一番自分がこの状況に驚いているからだ。ある程度の事は想定して後宮入りしたが、こうなる事など予想していなかった。

 席に到着すると、既にそこには人影があった。近づく程に見えてくるのは、側妃エリーゼと第二王子サルーンだった。

「兄上、ご無沙汰しています。お仕事がお忙しいと聞いています」

 気遣わし気な表情を浮かべて長身の兄を椅子に座ったまま見上げるサルーンに、カイルラーンは穏やかな笑みを浮かべた。

「年末だからな、いつもの事だ。お前は息災か?」

 言葉を紡ぎながら、カイルラーンはサルーンの隣の席に腰を下ろした。サルーンとエリーゼについている近衛同様、三人は王太子の席の後ろに移動する。

「はい、最近は体調も良いんですよ……あ、アレクサンドル!」

 近衛二人の臙脂の隊服が視界から消えたからだろう、その後に飛び込んできた差異で拾った緑色を、第二王子は見逃してくれなかった。

 カイルラーンを前に緊張した表情が、アレックスを見つけて興奮したようにほころぶ。

 アレックスは内心で面倒だな、と思いつつも、それを表情には出さず無言で騎士の礼を取った。今のこの状況では、声を発する事は出来ない。

 サルーンもそれを理解したのか、残念そうな表情を浮かべながらも横に向けていた顔を前に戻した。

 後ろ側に回り込もうと足を一歩踏み出した瞬間、王太子が意味深な言葉を弟に投げかける。

「お前にはやらんぞ」

 その言葉の意味を測りかね、アレックスは眉間に小さくシワを寄せた。

 何気なく呟いたその顔には変わらず微笑が浮かんでいたが、足を組んで前を向くその体は一瞬で殺気を纏う。

 アレックスはその鋭い気配に、思わず鳥肌が立った。

 壁際に近い場所から前方に視線を向けるが、見えるのは近衛二人の背中だけだ。

「もちろ…ん…です……」

 サルーンの返答は語尾に行くほど消え入りそうに小さくなっていった。   

 しばらく、無言のまま時は流れる。

 痛いほどの沈黙を破ったのは、王と王妃が揃って会場に姿を現した時だった。階下から聞こえる人々のざわめきが大きくなってくる。

 アレックスは耳に届いたそのざわめきの大きさで、列席者の数が会場入りした時よりも増しているのが分かった。相変わらず、視界には男二人の背中しか映らない。

 今夜は退屈な夜になりそうだな、と頭の片隅で呑気に考えていた。

 


 国王ディーンは主要な臣下との挨拶をそれなりに交わし、ようやく二階テラスに設けられた自分の席に戻ってきた。途中まで一緒に会場内を巡っていたリカチェだが、女性には女性の社交がある。王妃としての仕事をするためリネットを伴って人ごみに飲み込まれて行った妻は、ホールで別れたきり席には戻ってきていないようだ。

 第二王子サルーンもまだ色々な事に興味のある年頃だ。側妃とともに暇つぶしがてらの交流に行ったのだろう。

 王族専用の一画は、それぞれについた近衛共々誰も居なかった。近侍一人を通路に立たせ、ディーンはルードを傍に置いて階下を眺める。

 ふう、と息を吐きだしたのと同時に腹心が口を開いた。

「カイルラーン殿下は流石ですね」

「まずは及第点といった所だな」

 ここ一年の動きはベリタス経由で把握している。アルフレッドの動きは気になるが、それに対しては静観を決め込むことにしている。

 息子自らが手腕を発揮できなければ、今助けた所で早晩政治の世界で傀儡になるだけだ。現状自分のスペアとしての資質だけで言えば、三人の中でカイルラーンが一番妥当だが、己も含めて王族など、明日はどうなっているか分からない身の上だ。

 もしも今王太子に何かあった場合、全てにおいて能力の足りない第二王子に玉座は任せられない。残る弟は王位継承権を剥奪されたくせに保守派を支持すると宣ったが、あんな阿呆でもいないよりはマシのスペアだった。前時代に逆行する事になったとしても、臣を御して行くだけの力は持っている。だが、それはあくまでも最悪のシナリオで、アルフレッドを玉座につかせる事などあってはならない。あの狂人を座らせたが最後、国は緩やかに滅びるだろう。

 そのためにも、カイルラーンには早く世継ぎを作ってもらわなくてはならなかった。

 王である自分の意図をきちんと読み取り、アレックスを近侍に引き込む手筈を整えた所は認めてやらなくもないが、それはあくまで最低ラインだ。この国のためにも、ただ一つの鍵を持つあの稀有な存在を娶ってもらわなくては。

「相変わらず採点が辛いですね」

「ただの蜜蜂ではな……女王蜂に転換してもらわねば、あの御仁が動かんだろう」

「国のために殿下の恋心まで利用するとは怖いお方だ」

 長年仕えて来た腹心とあって、己の腹の中をよく読んでいるな、と薄い笑みを浮かべた。

 だが、大筋で間違いではないが、ルードは一点だけ思い違いをしている。

「それは違うな……あれが己の意思で心を動かす事ができた相手がたまたまあの蜜蜂だっただけよ。私は庭園に蜜蜂を一匹放っただけだ」

「なるほど……。はて、あの蜜蜂は転換しますかね」

「そこがあれの腕の見せどころよ。あれは私の息子だ、獲物は確実に仕留めてもらわねばな」

  

 ―――それができなければ他の獅子に喉笛を食いちぎられるだけだ。

  

 ディーンは再び沈黙して、高みの見物を決め込んだ。

   

  

 王太子の背後に控えてホールの中を流れて行く。カイルラーンが途中出会った正妃候補に年納めの贈り物の礼を言ったりしているのを、無感動にやり過ごす。

 彼が令嬢たちに贈り物をされている事に何の感情も沸かないが、やはりそうかというべきなのか、ことごとくが刺繍細工の贈り物をしているのが分かって可笑しかった。

 口にするものは受け取れない上に、それ以外の物も場合によっては除外される事もある。そういう可能性の高いものは避けるだろう。例えば、身につければ贈り主がすぐに分かってしまうような物や、あからさまな工芸品等だ。前者は、今は誰を正妃に据えるべきか吟味中という王太子が誰に心が傾いているかを悟られるのを避ける意味合いがあり、後者は領の直接的な利益につながってしまうからだ。王家の好適品という噂が流れれば、市場で有利に商売ができる。

 結局、刺繍細工は貴族女性の嗜みでもあるし、無難な贈り物なのだった。

 王太子本人が使っているのかを知る機会はないが、それでも心を込めて作りましたよ、と主張する事ができるものだ。だが、どれだけ頑張って作っても、一方通行の贈り物でしかないが。

 途中、両親と一緒に過ごしているイデアとキティにも出会ったが、もちろん今夜は目線を軽く投げかけるだけにとどめる。

 夜会場で他の男アレックスと親しげにしている所など招待客に見られたら、最悪彼女たちは後宮を去らなくてはならなくなる。二人共そこは充分わきまえているから、こちらの姿を認めて驚いたような表情を浮かべたが、それ以上の反応は無かった。

 どれくらいの時間が経ったのか、退屈な時ほど時間はゆっくりと進む。長く感じているが、実際にはさほどの時間は経っていないのだろうな、と手持ち無沙汰を噛み殺しながら無表情で付き従って歩いていると、様々なささやき声が耳を通り過ぎていく。

 同時に、王太子を前にしてあからさまな事は言えないからか、離れた場所から探るような視線を投げかけてくる。それが一つや二つではなく無数だった。

 政治の縮図と化したホールの中では、この一年を無事に終えられる事よりも、保守派と中立派の権力抗争の行方の方が重要な関心事であるのは間違いなさそうだ。

 馬鹿馬鹿しいと思いながら、結局自分もその世界に足を踏み入れようとしている。

 成人しても大人になった気はしなかった。それなのに、その嫌悪する世界につま先を浸しているうちに、これが大人になって行く事なのかもしれない、と感じてしまったのは感傷にすぎるだろうか。

 憧れた父と同じ場所を目指すのは、自分にとっては自然な事だった。それが今、憧れたほどには美しい世界ではないのが具体的な質量を伴って背中にのしかかってくる。分かっていたつもりで分かっていなかったのだろうな、と思う。もちろん、そんな事で投げ出すつもりはないが、理想と現実の差は広がる一方だった。剣と盾と騎士道精神の世界は、格好良いものではなく泥臭い世界なのだと知った。

 また、王太子が立ち止まった。

 カイルラーンの声に混じって、壮年の男性の声と女性の話し声が聞こえて来てくる。会話を聞いていると、それがしばらく顔も見て居なかったシャルシエルだと分かった。

 どうやらダンスを一曲踊りに行くようだ。

 王家主催の夜会でもあるし、今の状況を考えると保守派の筆頭とも言えるアルフレッドの娘であるシャルシエルと踊るのは、保守派を黙らせるためにも必要な事なのだろう。


 ―――なるほど、合理的な理由があれば誰とでも踊れる訳だ。


 側近二人はいざというときダンスホールに飛び込んで行けるよう、王太子へのルート取りができる場所へ移動するようだ。アレックスもまた、黙って二人の動きに従った。

 曲が始まって二人が踊り出した姿を、表情を無くして眺める。こうして見ると、本当に王太子とシャルシエルは似合いの二人だった。

 不意に、入宮前の夜会で王太子と踊るアレックスを見て正妃候補の辞退を決めたのだと言ったサラの言葉を思い出す。

 そうか、とアレックスは思った。これが本来の正しい姿だ。たおやかで、美しい女性こそが王太子にはふさわしい。

 アレックスが望んでも持ち得ないものを、シャルシエルは持っていた。

 ことさらに意識しなくても、何も強調せずとも、彼女は完璧な女性だった。自分のように瑕疵などなく、ただそこに在るだけで女性なのだった。

 胸の中に黒いものが広がるような気がして一瞬瞳を閉じる。瞬きほどの間、その刹那の後、見開いた瞳に王太子の金色の瞳がぶつかる。ほんの僅かなそれが、アレックスの胸の内側を小さく引っ掻く。それが無性に不快だった。

 だが、なぜそんなにも不快なのか、アレックスは自分の中で納得の行く答えは見つけられなかった。

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