第9話 揺らめき

 波に揺られるように私は浮遊していた。

 そう、言葉の通り、


 相変わらず視界は真っ暗なままだったが、私は一種の心地よささえ感じていた。


 何なのだろう。

 暖かい、でも、海のように冷たい。人々の話し声が、遠くから気持ち悪くなるくらいゆっくりに聞こえてくる。

 どうしようもなく、ゆっくりと、時間が流れていく。


 抗うこともできなくて、私はただ、その流れに身を任せて目をつぶった。

 深く、深く、沈んでいくような気がした。



 柔らかな光の中で、私は目を覚ました。見慣れない白いカーテンに覆われている。


 静かだ。


 動かしにくい身体を起こしてようやく、ここが病院なのだとわかった。


「先生!今井さん目覚ましました!」


 ばたばたと走る足音がして、私はふぅ、と息を吐いてベッドの背に身体を預けた.

医師を呼びに入った看護師とは別の若い看護師が近くへ寄ってきた。


「今井さん、気分はいかがですか。何処か違和感のあるところはありませんか」


 静かに問われ、私は短く返事した。


「貴女、三日間ずっと眠りっぱなしだったんですよ」


「えっ…」


 私は愕然として、近くにあったデジタル時計へと目をやった。


 最後の記憶があるのは、日曜日。

 表示されている時刻は、水曜日。


 本当に、三日間も眠っていたのかとひんやりとした手首を反対側の手で包み込んだ。


 また走る足音がして、さっきの看護師と医師が病室に駆け込んできた。質問をしてきた看護師は医師に耳打ちし、その場を去っていった。


「神経内科の高瀧こうたきです。今回——」


 説明を受けた後、いくつも質問され、私はそれら全てに答えた時にはもうへとへとだった。


 結局、大事を取って何日か入院することになってしまった。会社には既に医師を介して連絡がいっていた。

 たまたま運ばれた病院にかかりつけ医がいたそうで、代わりに連絡を入れてくれたのだという。


 母に連絡が行っていないのを確認すると、私はほっと胸を撫で下ろした。母は持病持ちの上極度の心配性で、よく発作を起こすのだ。


 ゆっくりとベッドに横になると、看護師が戻ってきて私に話しかけた。


「そうそう…救急車を呼んでくれた男性…。名前をおっしゃらなかったけれど。危なかったんですよ」


 さっきまでここにいらっしゃったんですけどね…と付け加え、これ、その方から今井さんにと、と言って短めの花束を渡しに渡してくれた。


「そう…なんですか」


 何処かはっきりしていない私の返事を聞くと、看護師は少し心配そうに眉を下げて部屋を出て行った。


 夏を思わせる鮮やかな青のデルフィニュームと、可愛らしい白の霞草カスミソウがエアコンの風にゆらりと揺れた。


「誰…だっけ」


 そう口から溢れ落ちた瞬間、反射的に寝かせた身体をガバッと起こした。


「何で私…忘れそうに——…」


 溢れ落ちたものを、私は何処かで拾い切れていないのかもしれない。



 私は倒れた原因がわからないまま、退院の日を迎えた。


 特に何処にも異常がなく、体調も安定していたため明日からでも会社に復帰ができたのだが、上司にせめてもう一日休んでから来るといいという気遣いのメールをもらい、その言葉に甘えることにした。

 この時期は忙しいのだが、そんな中社員に倒れられるのも困るだろう。


 私は荷物を詰め終わってから、ベッド際に置かれたあの花束へ目をやった。看護師さんが丁寧に水切りをしてくれたので、まだもらった時と同じくらい綺麗に可憐な花を咲かせている。


 そうだ、京弥さんに何か買って帰ろう…。


 退院の手続きをすると、私はスマホ片手に有名な茶葉の専門店に立ち寄った。ドアベルがちりりんと涼しげな音を立てる。

 レディグレイやルフナ、セイロンなどの有名なものから、ケニア紅茶など、珍しいものまで揃えてある。種類が多すぎて何を選べばいいのかわからない。

 考え込みながら店内を見て回っていると、店員の一人に声をかけられた。


「何かお探しでしたら、お手伝いしますよ」


「ありがとうございます。その…ちょっとした贈り物にと思ったのだけれど…どれがいいのかよくわからなくて」


「こちらには百種類ほど揃えさせていただいておりますから…」


 百種類も、と驚くと、彼女はその反応が見たかったと言わんばかりに大きく頷いた。


「イギリスにイタリアに中国…勿論、スリランカの茶葉もありますよ!私にかかれば、お客様の好みを聞けば、お薦めの茶葉をご用意できますよ」


 とんっと胸を叩く彼女の胸元についているバッジに〝店長〟の文字が見え、納得して頷いた。


「紅茶が好きな方ですから…何か変わったものがいいですかね…」


「普段はどのような紅茶を飲まれているのですか?」


 店内を見て回りながら、カウンセリングをするような形で会話を続けていく。



「これがいいかもしれませんね」


 手渡された缶を見て、思わず首を傾げた。


「ルイボスティーのフレーバーティーです」


「ジャックフルーツ…?」


「えぇ。ジャックフルーツは英名で、パラミツっていうトロピカルフルーツの一種なんですよ。見た目はドリアンにているんですけど、パイナップルとマンゴーを合わせたような甘い味がするんです」


 一度食べたことがあるんです…見た目はちょっとあれですけど、と言ってスマホで検索したジャックフルーツを見せてくれた。


「恋人へのプレゼントですか?」


 彼女の笑顔には、揶揄からかいも嫉妬もまったく感じれらない。けれど、私の心にはその問いかけが鋭く尖ったガラスのように刺さって抜けない。


「あ…いえ、普段から仲良くしてくださっているものですから」


 彼女は羨ましそうに微笑み、包装した茶葉の間缶を小さな紙袋に入れてくれた。


「喜んでくれますかね…」


「きっと喜んでいただけますよ。あんなに悩んで決めたんですから」


 しぼみかけていた風船に空気を継ぎ足すような言葉に、私は笑顔で頷いた。


 渡された紙袋に沢山の思いを込めて、私は店を出た。

 涼しい風が吹き始め、空を飛ぶ鳥たちは巣へ帰るよう仲間を促している。


そして私の足は自然とあの場所へ向かっていた。



 静かだ。いつになく静かで、余計に懐かしさを掻き立てる。


 重たかったランドセルを石段に置き、雑木林で駆け回って追いかけっこをしたり、時には親友と二人、秘密めいた話をしたり…。

 様々な思い出の詰まったこの場所の空気は、いつもゆるゆると揺れる波のようだ。


 ゆっくりと石段に腰を下ろす。目を閉じると、友人たちと過ごした記憶が流れ込んでくる。


 いつまでそうしていただろうか。

 もう、赤い輝きを放つ恒星は地平線に姿を消そうとしている。

 私は妙に寂しくなって、石段の上にうずくまった。


 どうしてだろう。

 ここに来ると時々、になるのだ。


 忘れ去られた、海の底に沈んでいたボトルが海面に浮かび上がるような感覚で、はいつも私が私であるための何かを欠いているように思わせる。


 そんな時、どうしようもない寂しさを埋めようとして、無性に誰かに会いたくなる。


 前までは、会えるなら誰でも良かった。それは母だったり、友人だったり、時には職場で仲のいい後輩だったりもした。


 でも、今は違った。


 今、私が会いたいのは———…


 ぺちん、と自分の頬を軽く叩く。

 どうしてしまったのだろう、本当に。


 抱いてはいけない感情を、心の中に抱えてしまって…私らしくない。


 〝あの日〟から私はすっかり変わってしまった。

 自分の肩を抱いて、顔を伏せる。


 落ち着いて、冷静になれ。


 自分に言い聞かせるように、何度も呪文のように繰り返す。


 人間の心は本当に厄介だ。

 どうしてこう、ダメだと思っているのに、進むのを止められないのだろう。


「会いたい…」


 おかしい、——今日の私は、おかしい。


「…っふふ」


 変な笑い声が漏れて、それにつられて後から笑いが込み上げてくる。

 途中で犬の散歩をしていた若い夫婦がぎょっとした目でこちらを見たけれど、気付いていないフリをして、笑い続けた。


 かと思えば、急に寂しさが湧き上がってきて、目から涙が次々に溢れ落ちた。彼はまた、この寂しさを埋めてくれるだろうか。

 震える手を握りしめる。


 恒星が最後の光を海に沈め少し肌寒くなってきた。


「帰らなきゃ…」


 重い腰を上げて立ち上がる。


「華さん!」


 遂に幻聴まで聞こえるようになってしまったのだろうか。


 走る音が聞こえる。

 間違いない、幻聴でもない。


「華さん!」


 はっきりと聞こえる。

 少し髪を振り乱して、目にかかった前髪の隙間から、あの綺麗な碧眼が覗いている。


「…京弥さん」


 少しの衝撃の後で、彼の温もりが私を包み込んだ。強く、強く抱きしめられる。涙でぐしゃぐしゃになった私を、彼は優しく撫でた。

 彼の温もりに、心の奥に閉じ込めていたものが溶かされていく。


「…き」


 抱きしめる彼の腕の力が少し緩んで、不思議そうに見つめられる。


「好き…です。私は、貴方が…好き…です」


 暫くの間、彼はただ黙って私を見つめていた。


 ぽちゃん、と雫が落ちるような音が脳内で響いた。


「君の気持ちには答えられないよ…」


 そっと頭を撫でられる。


「君を傷つけてしまってすまない…」


 再び抱きしめられて、彼は私から顔が見えないようにして話し続けた。


「甲斐なしで本当にすまない…。私は、もう失うことが怖いから…」


 言葉とは反対に、抱きしめる力が強くなっていく。


「君といると日向にいるみたいだよ…。すごくほっこりする…だからこそ、失いたくない…」


 肩に冷たいものが流れ落ちてきた。

 はっとして顔を上げようとすると、ぎゅっと頭を押さえられた。


「今はだめだ」


「何でですか」


「何でも…」


 暖かい彼の手が私の髪を撫で付ける。


 それと一緒に、彼の気持ちが流れ込んでくるような感覚になる。

 彼が、私と同じような傷を抱えているのなら、私はどうしたらよいのだろう。


「落ち着きました?」


「えっ…?あ、うん…」


 慌てた様子で離れる彼に、思わず笑い声が漏れた。


「何で、笑ってるの」


 そう言う彼も笑っている。

 まだお互いに涙で潤んだ目で見つめ合う。


 東に姿を現し始めた月の柔らかな光が彼の碧眼を宝石のように煌めかせる。


「そうだ、見せたい場所があるんです」


 神社の敷地から出て、すぐ近くにある小さな浜辺に向かう。


 まだ赤みがかった空の反対側から星々が輝き始めている。


 打ち寄せてくる波で靴を濡らさないように気を付けながら浜辺を歩く。


「綺麗だな…。ここら辺でこんな景色を見られるなんて…知らなかった」


 サラサラと、砂が風にのって動いていく。


「父が亡くなった時に…初めてここにきたんです」


 乾いた砂の上に腰を下ろすと、彼も隣に座った。


「まだ幼かった私に、母が言ったんです。お父さんは空の星の一つになって、私たちを見守ってくれてる…って」


 砂を手にすくい取り、サラサラ、サラサラと指の隙間から落としていく。


「華さん…君は…」


 肩を抱かれて、私は自然と彼の方に頭を預ける形になった。


「もし私が星になってしまったら、今日のように夜空を見上げてくれるか?」


 それは、彼の死を暗示しているのだろうか。


「はい…きっと…」


 目が合うと、彼は悲しみを含んだ瞳で無理に笑ってみせた。

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